『逍遥通信』第八号を読み、島崎藤村と愛人関係になり、その後社会運動(救援活動など)に参加した島崎こま子に関心を抱き、梅本浩志『島崎こま子の「夜明け前」』(社会評論社、2003年)を、図書館から借りて読んでみた。
『逍遥通信』第八号掲載の北村巌(「島崎藤村とその周辺」)も、本書の著者も、共通するところは、お二人とも歴史家ではないということだ。
私が何らかの人物を描くときには、まず先にその人の生まれてから亡くなるまでの年表を作成する。そして基本的には、時系列で描く。ところが、お二人の記述は、行ったり来たり、またあまり関係のないことをも書き込む。こま子と関係のないことでも、読んでみればなかなか面白い興味深い記述なのだが、本筋からはずれる。梅本は、京都大学の戦前の学生運動を詳しく描いているが、それはそれで面白く大いに関心を持ったのだが、最終章の「「狂」の世界」はいらないように思えた。
北村の文は、島崎藤村についてが主題であり、こま子は「その周辺」になるだろうから仕方がないが、歴史家の目からすると、わかりにくいことが多かった。
ノートにメモを取りながら読み、さらにわからないところを梅本の本で埋めていくのだが、それでもよくわからないところがあった。こま子が伯父島崎秀雄の住む台湾にいく、帰還は1919年で台湾に行って一年後だというから、1918年に行ったのだろうと予測できるが、しかし台湾行きの正確な年は書かれていない。これは梅本の本も同様である。
京都に行き、こま子は京都大学の学生活動家・長谷川博と同棲するようになるが、北村は、こま子が34歳、長谷川が24歳と書く、しかし梅本はこま子35歳、長谷川25歳と書いている。
長谷川は3・15事件で逮捕され、4年間獄中に入れられた。そして1932年釈放される。その後、二人は上京、1933年9月紅子が生まれる。そして同年▢月4日正式に入籍する、とあるが、その▢が12か、3かわからない。さらに博が若い女と駆け落ちするのだが、流れからいえば東京にいるときにそうなった、ということだろう。梅本も長谷川とこま子は1932年に上京した、と書く。しかし、その若い女性というのが、梅本では「京都・丸太町で報復のプレッシングの仕事をしている」ときに雇った21歳の女、と書いている。本筋とは関係ないが、「このような裏切りにもかかわらず、こま子は出獄ししてきた夫の求めに応じて身体を任せる。そして妊娠。翌1933年に出産する。」とあり、では「駆け落ち」はいつのことだろうか。
歴史を勉強していると、「いつ」というのが気になってしようがない。おそらく北村も、梅本も、文学研究者なのだろう。
しかし、このこま子について少し書いてみようと思っているので、事実を確定するために、ほかの本も読まなければならない。