舞台装置は、ふつう、観客が入る前に完成しているはずだ。しかし、なぜか開幕前にスタッフが舞台装置を組み立てている。これは演出なのか、それとも・・・
バリモアは有名な俳優。といっても、私はまったく知らなかった。シェイクスピア俳優として有名だとのこと。
脚光を浴びたバリモア、しかしこの世界には浮沈はつきもの、老いてきてさらに体も精神も弱っていく。バリモアは、みずからの人生を振り返る。栄光のとき、喝采を浴びたとき、しかし妻と別れたとき、アル中で苦しんだとき・・・・・・いろいろなことを回想する。回想しながらことばを絞り出していく。そのことばのなかには、シェイクスピアの作品、自らが上演したときの台詞がある。
なるほどシェイクスピアの数々の台詞は、そのままバリモアの人生を表現する。過去の栄光と挫折が台詞に投影される。
さて仲代達矢は90歳だという。老いて尚元気である。台詞も覚えることができ、体もシャンとしている。バリモアとは等号で結べない。
この脚本を書いたウィリアム・ルースという人は、おそらく絶望に沈むバリモアを描こうとしたのではないだろうか。
だが仲代のバリモアは、老いてはいるが元気である。バリモアをどう演じきるか、仲代は考えたのだろう。仲代のバリモアは絶望に沈んでなんかいない。老いてさらに円熟し、余裕さえ見せる。その余裕が、笑いを生む。
見ていて、仲代達矢のための「バリモア」であったと思う。
私は往年の俳優でもっとも好きなのは、民藝の滝沢修である。もちろん滝沢はもういない。その滝沢は沈黙していても存在感があった。沈黙が支配していても、舞台は進んで行った。ひとつひとつの動作(演技)が、何ごとかを示していた。
仲代達矢は、そうではなく、やはり台詞をことばにすることによって、仲代らしさが表現される。
名優というのは、様々なのだ。その様々が、舞台上で火花を散らす。その火花を、私たちは見つめるのだ。