浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

【映画】「善き人のためのソナタ」(ドイツ映画)

2023-04-15 18:57:12 | 社会

 アマゾンプライムでの映画である。2007年のもの。

 社会主義体制下の東ドイツ。ここでもスターリン体制が敷かれ、国家に反逆する者たちを掌握するために国家保安省(シュタージ)は、スパイ網を張る。

 劇作家のドライマンの挙動を監視するために、シュタージはドライマンの自宅に盗聴器をしかけ、24時間監視体制を構築する。シュタージのヴィースラー大尉は、国家に忠実であった。しかしドライマンとそこに集まる人々の会話を聞く中で、またドライマンが弾く「善き人のためのソナタ」を聴くことにより、ドライマンとその周りにいる人々に好感を抱くようになる。その結果、盗聴の報告書に虚偽を書くようになり、結局ドライマンたちの行動を助けることになる。

 1989年、東西ドイツの壁が崩れ、東ドイツの人々は、自分自身の監視記録をみることができるようになる。ドライマンに関する記録はたくさんあった。ドライマンはそれを読むことにより、なにゆえに自分が「安全」であったのかを知る。ヴィースラー大尉が「安全」をつくりだしていたのだ。

 ドライマンは、『善き人のためのソナタ』という本を書く。そしてその表紙に、ヴィースラー大尉のシュタージ内の暗号名への感謝を書く。

 東ドイツは社会主義体制のなかで「優等生」として扱われていたが、しかしそこもシュタージに見られるように、スターリン体制であった。自由がない、抑圧された国家社会。そうした状態から解放されたとき、人々は自由に動くことができるのだろうか。自由のなかで生きていないと、自由を謳歌することはできない。

 それは日本でも、である。学校教育は自由がなく、いまもって旧軍隊式の訓練が行われている。そうした学校に馴化された子どもたちは、自由な主体として存在できるのだろうか。

 ソ連を中心とした社会主義体制について、きちんと見つめることが必要だ。それなしに、ロシアによるウクライナ侵略、それに対するかつての社会主義世界体制下の国々の対応を理解することはできない。

 この映画、監視体制の担い手のこころのなかに、人間としての感情や正義感が生まれたことを表現している。ひとつの可能性を表しているといえるかもしれない。

 良い映画であった。

 

 

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島崎こま子のこと

2023-04-15 15:57:59 | 歴史

 『逍遥通信』第八号の目次をみていたら、「島崎藤村とその周辺」(北村厳)という、かなり長い文が目に留まった。読み始めたらなかなか面白く、最後まで読んでしまった。

 藤村の『破戒』、『夜明け前』は読んだことはあるが、それ以外はない。しかし『新生』という小説は、読んだことはないがその内容は知っている。この文には、藤村の文学とその生が書かれているが、「その周辺」と銘打っているだけあって「周辺」のことも過去こまれている。

 藤村の妻の冬が亡くなったことから、幼い子どもたちの世話をするということから、姪(藤村の兄の子ども)の久子とこま子が藤村家にやってきた。久子はしばらくして結婚のために出ていき、こま子が残った。そのこま子と叔父である藤村とが結ばれて子までもうけてしまう。藤村は、兄に後事を託してフランスに逃亡する。それらのことを、藤村は『新生』という小説に書いた。こま子にとっては、その事実と、それが公にされたことから、この後数奇な人生を歩む。

 この文には、こま子のその後のことが詳しく書かれている。こま子は伯父が住む台湾に行ったり、自由学園で働いたり、さらに京都に行き、京大の洛水寮、その後京大社研の合宿所の賄い婦として働く。その間、学生運動で逮捕された学生たちの救援活動に入りこむ。そして10歳年下の京大生・長谷川博と同棲、そして一女をもうける。紅子である。紅子を私生児としたくない、ということから、長谷川と結婚する(1932年12月4日、1948年正式に離婚)。しかし何と、長谷川は別の女性と駆け落ちをしていった。

 こま子は、貧困の中、紅子を育て、同時に解放運動犠牲者救援会(現在の国民救援会)の活動を継続し、何度も逮捕されるが非転向で生き抜いた。しかし1937年3月、行き倒れ同然となり、「養育院」に収容される。退院後、こま子は木曽妻籠に。紅子は研究者となり、母・こま子を東京に呼び寄せた。

 さて、島崎藤村について、戦争協力の問題など言いたいことはたくさんあるが、ここでは長谷川博について書く。

 長谷川博は、『日本社会運動人名辞典』にでている。しかし、こま子はでていない。1903年に生まれた長谷川は、二高を経て京都帝大へ。河上肇、山田盛太郎らとの研究会を通してマスクス主義者となる。京大社研書記長、学連委員として学生運動のリーダーとなる。その後共産党に入党、何度か逮捕される。戦後は共産党再建幹部団の一員となり、党再建に従事。1951年から法政大学の教員となる。米騒動やパリ・コミューンなどの研究を行う。マルクスの『フランスの内乱』などを翻訳。

 長谷川博の法政大学時代のことを、政治学者増島宏が書いている。面倒見の良い学者であったようだ。その時の長谷川の伴侶は、章子という。平凡社につとめていたようだ。

 長谷川章子は、往年の学生運動の闘士で、戦後は京都大学人文科学研究所の図書係をしていて、その後岩波書店、平凡社の編集者となった。

 長谷川章子は、1960年に刊行された『戦後婦人運動史』Ⅳ(大月書店)の共著者でもある。長谷川章子「戦後日本の婦人運動」はその本に書かれているようだ。浦田大奨は「占領期における女性労働者問題と歴史把握」(熊本大学社会文化研究13 別刷 2015)で、長谷川をこう記している。

占領期が女性たちにとってどのような時代だったか。これまでもたびたび言及がなされているが、
女性史研究会(元、民科婦人問題部会)に所属し、出版社に勤務しながら女性労働運動研究をおこなっ
ていた長谷川章子は、女性たちのおかれた状況を女性労働者と女性団体に即しながら次のように区分
して説明している。
(1) 敗戦直後、「婦人の解放」「労働組合の団結権」指令の直後から、四六年末の「女性を守る会」
結成、二・一ストにいたる時期。
(2) 二・一スト禁止後、四七年三月、戦後第一回国際婦人デーから、四八年八月、平和確立婦人
大会をへてその年の末までの時期。
(3) 四九年はじめから、五〇年七月、婦団協(婦人団体協議会―註)結成、無期休会後まで
長谷川の区分を参照してみると、女性の解放が声高に叫ばれ、参政権の獲得や女性団体の結成が目
覚ましい(1)の時期から、レッドパージをはじめ、企業整備にともなう労働者の馘首や配置転換など、
(2)(3)にいたる逆コースへの転換の時期であることが指摘できる。長谷川は論考のなかで、この時期の
政治と「婦人運動」の動向をていねいに追っているが、概説論文という性格上、個々の女性たちの声
を拾いあげて論を展開するまでにはいたっていない。

 ここでは長谷川章子について言及することではないので、これ以上探索はしないが、この女性は、長谷川博と駆け落ちをした女性(当時21歳)であるかどうかはわからない。

 いずれにしても、藤村にしても、長谷川博にしても、こま子を踏み台にしたような気がする。踏み台にした者たちは、成功の階段をのぼる。無情である。

 この長い文を読んで、藤村よりもこま子に関心をもった。

 

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自治体史の著作権

2023-04-15 08:08:20 | 学問

 世田谷区で大きな問題が起きている。世田谷区では、新たに区史の編纂を始めているようだ。もちろん、そうした歴史の編纂に当たっては、市職員ができるものではなく、ある程度の専門性が求められるから、歴史研究者にその編纂を委嘱する。

 自治体史の編纂に当たって、委嘱された者たちの多くは、史料調査を行い、その史料を生かすために、その史料に関わる関連する文献を読み込み、あるいは当該自治体に住む方々から話を聞き、何を書くべきかを考え、文章にまとめていく。自治体史編纂に関わると、多くの時間と、また文献を購入するために多額のカネをつかう。まさに自治体史の原稿を書くことは、委嘱された者にとっていわば全身全霊をつぎこむ作業なのだ。もちろん、何を書くかは、委嘱された者の価値観に左右される。

 私もいくつかの自治体の歴史編纂の仕事をしてきたが、今まで一度も書いたものに関して修正を要求されたことはない。ただ一回、書いた原稿を送ったところ、なぜそういうことが書けるのかとクレームを受けたことがある。もちろん歴史というものは資料に基づいて書くわけであるから、まったく事実がないことを書くわけがない。私は、その資料は、当該市のホームページに掲載されてもいるし、市が発行するパンフレットにも書かれていることを指摘したら、当該市の担当者が謝罪に来られた。それには私もさすがに呆れた。

 世田谷区は、なにゆえに編纂を委嘱した者の著作権を奪おうとするのか。まったくわからない。委嘱した者には、とうぜん原稿料その他を支払うから、世田谷区は原稿料を払うということは著作権を得る、ということだと考えているのだろうか。しかしそれは間違いである。

 こういうことがあった。あるとき、自治体史の関係者から、私が書いた原稿(すでに自治体史として発行されている)をやさしく書き直すので、その許可が欲しいという連絡があった。私に著作権があるので、その対応は当然のことである。私はすぐに許可するという文書を送った。

 なお私は、自治体史であろうとも、書く内容については一切妥協しない。全身全霊を投入して書き上げるのだから、専門的(学問的)な見地からではない物言いを受け付けるわけにはいかないのである。

 世田谷区の区史編纂室には、歴史の専門家が入っているのだろうが、全時代について歴史の見地を持つ者はいないだろう。専門的な知見を持つからこそ、専門家が書いたものについては尊重するのである。

 そういう要請が来たら、私なら委嘱を断るが、それを問題にした研究者がいたからこうして報じられている。その研究者に委嘱しないという決定を、世田谷区が行ったという。

 これは大きな問題である。たとえば東京都なら都知事がそう考えていないからということで、関東大震災における朝鮮人や中国人虐殺が歴史叙述から消されることにもなりかねない。ネトウヨが否定する佐渡金山における朝鮮人の強制労働は「新潟県史」に書かれているし、東京都の過去の自治体史に関東大震災の際の虐殺も書かれている。歴史的事実は歴史的事実なのである。過去のそうした忌まわしい歴史的事実をきちんと踏まえたうえで、現在や未来をつくっていくのである。

 

 

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