『週刊金曜日』最新号の特集は、『安倍晋三 回顧録』である。私はこうした本を買うつもりはない。年金生活者は簡単には本を買えなくなっている。
特集では、回顧録について六人が原稿を寄せ、インタビューに応じている。
政治学者の御厨貴がインタビューにおうじているが、安倍は「ものすごい人間不信だった」と語っている。そうなのだろうと思う。安倍は「権威」とか、過去から培われてきたシステム(たとえば御厨が言う「自民党の中で、長い間培われてきた、合意形成に時間をかける伝統」や、内閣法制局の見解を尊重する、日銀は独立性を守る・・・)とか、そういうものに敵意を抱いていたのだろう。その裏にはなにがあるかと考えるとき、私は「無知」であったと思う。彼こそ、政治権力を握った「無知」の上に居直った者なのである。だからこそ、無知な烏合の衆が、安倍に喝采を送ったのだ。
文科省の教育政策は、感情豊かで知的な子どもを育成するのではなく、とにもかくにも従順で、国家への忠誠を誓う人間をつくりだし、戦前の教育を復活させようと少しづつ準備してきた。勉強なんかしないでも、部活動だけやっていればいいのだという雰囲気が、学校では蔓延している。学校は卒業の資格を得るためだけの存在。あとは部活動に汗を流し、上意下達の精神を叩き込むのだ。そういう者たちが、喜んで企業に迎え入れられる。
そういう学校の在り方が、「無知」でもよいのだ、考えなくてもよいのだ、という人間を生み出し、そういう人間が先人としての安倍に喝采を送ったのだ。
それはまた劣等感の裏返しなのだが、知的な権威や、様々なシステム、それらは学ぶという行為が求められるのだが、学ぶことをしない安倍を筆頭とする者たちは、「無知」のまま居直り、知的なもの、システムなどを敵視し、それをぶち壊しにかかったのだ。
思考の訓練をうけていない者たちは、みずからを客観視する姿勢はもたない。自分自身がすることを邪魔する者は「こんな人たち」であり、「敵」なのだ。彼らには、なぜ自分がやろうとすることに抗議したり反対するのかはわからない。無知で、思考しないからだ。
そうしたことを8年間やって、安倍は「自民党を完全に保守イデオロギーで塗り替えた」(御厨貴の発言)。この場合の「保守イデオロギー」とは、無知(学ばない)と思考しないということであり、自由民主党を烏合の衆へと変えたのだ。御厨は、それを岸田も「引き継いでいる」という。それはそうだ、そうした集団のトップは、無知と思考しない者として存在しなければならないからだ。
自由民主党だけではなく、そうした者は、今や社会に増えている。
『週刊金曜日』で、田中優子がこう書いている。
「今回の台湾有事への政権与党の「期待」は、米国主導に見えるが実は歴史の繰り返しで、米国のせいにしながら、アジアに軍事エネルギーを向かわせ、日清・日露戦争、満州事変の時のように能動的に戦争を起こし、日本国内に団結と変化が生まれるように仕向ける。そうなるかもしれない。しかし果たして次の戦争に「戦後」はあるのか。」
同感である。無知と思考しない面々は、もし中国との戦争が始まったら、日本は、1945年の焼け野原ではなく、もっと無残な「破滅」になることを予想できない。
1945年の敗戦は必至であったことは、開戦まえから明確であったにもかかわらず、日本の支配層は戦争へと突き進んだ。もっとも無謀な意見(それは無知であり、思考しないということでもある)こそが「勇気あるもの」だという雰囲気の下、支配層は無謀な意見を採用して戦争へと突き進んだ。そうしたDNAは、日本の支配層に伝えられている。安倍がその支配層の重要な一員であった岸信介の孫であり、また安倍は岸の政治を最大限に評価していた。安倍は、忠実な戦時体制の後継者なのだ。安倍が戦時体制をつくりだそうとした背景には、日本の支配層の無知と思考しないというDNAが力強く復活してきているのである。
したがって、彼らと対峙する手段方法は、「無知」を討つこと、思考を豊かにすることであり、そのために豊かな感性をもつことなのだ。「知は力なり」ということばを輝かせたい。