昨日の『東京新聞』一面は、非正規公務員の雇止めの記事だ。人件費を節約して、そのカネを企業の立地などにまわすという政策が展開され始めたのはいつごろからだっただろう。浜松市の場合は、スズキのトップが市政に介入し始めたころだ。
市の図書館業務、ごみ収集など公共的な仕事が次々と指定管理とかにだされ、また市の職員削減計画に沿って正規の公務員の雇用をやめ、業務をこなす人員が足りなくなり、非正規をたくさん雇用する。しかしそれも、給料は上がらず短期間の雇用だ。今や市の窓口は、非正規の方ばかりだ。
正規の市職員は「基幹」公務員とされ、非正規の管理や企業への補助金をどう配分するか、市民の負担(受益者負担)をどう増やすかなどを企画する部署に配属され、それも長期にそこにいるのではなく、3年や5年で交代していく。正規の公務員は、「昇進」(「出世」)だけを夢見て、「上」ばかりを見つめ、市民には目もむけない。
「公共」を担うべき公務員は、私企業の応援団となっている。不正を繰り返す私企業の経営方法こそが「良い」とされ、「公共」を担うという精神はかき消され、私企業の経営方式が導入され、トップダウンが強化される。また自治体も市民からの税金をみずからの給与と私企業への補助金へと転換し、市民サービスに対しては「有料化」や水道料金などの値上げを押し付ける。
それが新自由主義的な社会だ。
『東京新聞』記事の見出しは、「声上げられず「使い捨て」」である。使い捨てられるのは、非正規公務員だけではなく、市民自身がカネを出すだけの存在として「使い捨て」られているのだ。市民は、しかし、それに気づかない。