今日『世界』2月号が届いた。早い到着であった。
石川健治、東大の憲法学者が「『世界』の起源」を書いていた。彼が書いたものは、今までもいろいろ読んできた。問題意識をもち、新鮮で学問的な内容のものが多いからだ。
さてこの文は、雑誌『世界』の「起源」を述べながら、現在から将来にかけてどういう姿勢をもつべきかを書いたものだ。
創刊された頃の『世界』は、今で言うリベラルに徹したわけではなく、幅広い人びとがそれぞれの考えをもちながら集っていた。そういう創刊の頃のあり方をふり返りながら、久野収の文を紹介している。
『世界』発刊に協力した『心』に集った人びとを思い浮かべながら、久野は「前近代的なもの、近代的なもの、超近代的なものにそれぞれ、しっかりした価値評価を持ち、自分の実践的スタイルの中にその価値評価を生かしているような古風な民主主義者、モダーンな民主主義者、ウルトラモダーンな民主主義者が出て来て、相互にしっかり協力しあうことだと思う。これがタテの民主戦線というものです。」と書いている。
石川は、久野は、「ヨコの共同ばかりしか考えられない」人民戦線への反省をこめてそれを書いたと指摘し、「二〇二四年の『世界』が、「タテの民主戦線」を実現できるか」と記す。なるほど、である。民主主義を核として、いろいろなレベルの民主主義者を糾合すべきだというのであろう。
もちろん石川は、久野の「無数の自立的小集団が文字通り、民衆の草の根を形成するようになって、“下からの”民主主義ははじめて根をおろすだろう」を紹介しているから、今、全国各地で動いている小集団の動きを否定しているわけではない。
下からの民主主義者の動きと、様々なレベルの民主主義者とともに、「タテの民主戦線」をつくれないだろうか、というのだろう。
考えさせられる提起である。