能登半島の地震被害が徐々に明らかになってきた。被災された方の苦難を思うと、頭を下げるしかない。老いた私が遠くにいてできることは、祈ること、そして義援金を送ることくらいしかない。悲しい現実だ。
本書には、芥川や菊池寛など高名な方々の文が並んでいる。実際能登半島で大きな地震が起きたときなので、書かれていることは決して過去のことではないこと、きわめて現実的であることが書かれていると思った。
そのなかで、柳宗悦の「死と悲みに就て」は考えさせられる内容であった。
私達の運命は予期し得ない未来に托されている。誰も次の瞬間を保証する事は出来ぬ。確実に保証し得る論拠は一つだに手に握られてはおらぬ。只それは望ましき「予想」に頼りつつあるに過ぎぬ。巨大な自然に向う時、私達が占める空間と時間とが如何に意味淡く思えるであろう。私達が用意なきうちに、死は私達に用意される。生きたい思い生かしたいと希う心を自然は常に受けてはくれない。吾々の存在は宿命によって定められている様にさえ考えられる。死は何ものをも顧慮せずに人と人とを別れさせる。誰も離別の苦みを味わずして一生を過ごす事は出来ぬ。而も一つの死は一切を暗からしめる勢いをさえ伴うのである。生きると云う事には苦むという事さえ意味されている。
人は、あらゆる生物は死を免れることはできない。死は、確実に用意されている。そして死は、周りの人びとを次々と巻き込む。あの人も、この人も、その人も・・・・・・この世から去って行く。何という悲しみか、何という欠如か。
この悲しみと欠如が簡単に埋められないために、人びとは信仰への途を歩むのだろう。
私たちは死に行く人びとに、何を贈れば良いのだろうか。柳はこう書いている。
死にし人々にとっては、残る人々から贈られる涙が、どんなにか嬉しいであろう。
確かに、人がこの世を去るとき、残された者は、涙を流す。そのながされる涙が、死者にとっては贈り物となるのか。
逝く者は黙する。だが残る者はその魂に向って叫んでいる。死す者の血は冷かになるとも、弔う者の心によってそれが温められる。大きな同情を促す事なくして大きな苦痛が現る場合はない。充さるる事なき欠乏はこの世に許されておらぬ。
残る者は、静かに心の中で叫ぶのだ。あるいは祈りを捧げるのだ。
その残る者も、いずれは死す者になる。柳は、末尾にこう書く。
死が不意に来るのではない。只吾々が死を不意に迎えるだけである。