浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

つながり

2024-01-05 23:29:11 | 日記

 高校生のころ、母宛の年賀状のなかに、『聖書』から平和に関する詩句を引用したものがあった。毎年、私はそうした年賀状をみつけた。母に聞いた、この石原正一さんはどういう人?と。母は、父が従軍していたときの上官だった人だと答えた。

 私の父は、私が2歳の時に病死した。父が亡くなったとき、我が家は貧困のどん底にあったという。そんな我が家の窮状を知った石原さんは、現金を送ってくれたようだ。しかしそれは中途で抜き取られ、母のもとへは届かなかった。母は、軍人恩給はもらえないだろうか・・・などと、石原さんに相談したこともあったようだ。

 母の収入が安定してくるなか、石原さんとは年賀状の挨拶だけとなっていた。

 私は、私自身が平和運動に関わっていたことから、石原さんの年賀状に書かれた『聖書』の詩句が気になっていた。石原さんに会いたいと思い、故溝口正先生に相談したところ、石原さんと溝口先生とは旧知の間柄で、早速会えることとなった。いつのことか忘れたが、浜松で行われていた2・11思想と信教の自由を守る静岡県西部集会に石原さんが参加されたことがあった。その集会の後、石原さん、溝口先生、そして私の3人は、駅近くのアーシェントタイムという店で長時間、いろいろな話をした。石原さんは、優しく、温厚な方であった。

 その時から、母だけではなく、私も石原さんと年賀状を交わすようになった。

 あるとき、石原さんが亡くなられたという連絡があった。一度しか会うことがなかったことを後悔した。しかし、人間として、無教会派のクリスチャンとして、石原さんに、私は今も、敬意と信頼を持ち続けている。高潔な人格とはこういう人を言うのだという確信もまた。

 その後、石原さんの息子さんらが岐阜県の恵那市で山のハム工房 ゴーバルで、ハムなどを販売していることを知った。今、我が家は、そこから毎月ハムやソーセージを購入している。

 さて、昨日私は、基督教独立学園で書道の先生であった桝本うめ子先生の生涯がつづられた本を読んだ。うめ子先生は、溝口先生や石原さんと匹敵するような素晴らしい人間であることを知ることとなった。

 そして今日、私は新たな事実を知り、大きな感動に包まれた。ネットで、「桝本うめ子」を検索しているとき、桝本華子さんが書いた文を見つけたのだ。桝本華子さんは、うめ子先生の次男・忠雄さんの奥様で、うめ子先生とともに独立学園に行き、貧しい生活を受け容れながら独立学園を支えた方である。

 独立学園がまだまだ貧しいころ、独立学園にみかんが届けられたというのだ。華子さんはこう記している。

独立学園も貧しくとぼしい食糧を皆で分け合うそんな時、1955 年 11 月、
一箱のみかんが我が家に届きました。私の幼い子どもたち 3 人は産まれて
初めて見るみかん、そしてそのおいしさに驚き喜びました。発送元はケリテ
会よりです。子どもたちは画用紙一枚にみかんの画を描き、下手な字であり
がとうと書いて、そのとき初めて送り主、石原正一様のことを知りました。

 石原さんが、独立学園にみかんを送られていた。それを知り、石原さんのあの温和で優しい顔が思い出された。

 そしてそのあとに、「やがて 1960 年には御長女、続いて 5 人のお子様、10 人のお孫様と学園に入学されご夫妻様とは親しく交わらせて頂きました。何時も柔和で謙虚な御人柄でしたが、一面、キリスト信徒として平和への志は高く、中国の南京へ、旧日本軍の謝罪として桜、その他の植林運動を何年か続けられ、又税金の軍事費拒否運動にも参加されたと伺いました。」と書いている。

 そうだったのか、石原さんは子どもさんを独立学園に入れたのか、と。

 さらにもう一つの事実を知った。うめ子先生のお孫さんも、ゴーバルにいるのだということを。

 石原正一さん、桝本華子さん、溝口先生、ゴーバル、そして母と私。すべてがつながっていたのだということを、私は今日知ることになった。私の心は、感動に包まれることになった。

 華子さんのその文に、内村鑑三の文が載せられている。

「勝つこと必ずしも勝つにあらず。負けること必ずしも負けるにあらず。愛すること、これ勝つことなり、憎むことこれ負けることなり。愛をもって勝つことのみこれ永久の勝利なり。愛はねたまず、誇らず、たかぶらず、永久に忍ぶなり。しかして永久に勝って永久の平和を来たす。世に戦闘のやむ時は、愛が勝利を占めし時のみ。」

 溝口先生も、石原さんも、平和を強く希求する人であった。私もまた、平和を希求する一人である。
 

 

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拠点となるところ

2024-01-05 08:44:32 | 

 昨日読み終わった『桝本うめ子 神は愛なり』(読書日和、2023年)を反芻しながら考えた。同書には、基督教独立学園の生活が記されているのだが、学校外の場所で先生も子どもも集まって腹蔵ない対話が行われている。

 対話することはよいことだ。別にテーマを決めなくても、いろいろなことを話し合う。参加者は「神の前の平等」で、先生、子どもという隔たりもなく、ひとりひとりが話し、ひとりひとりがそれに応じて話す。

 この場面を想像するとき、その場には「拠点」、生きていく際の「拠点」が創造されているのではないかと思う。共同体といってもよいだろう。その「拠点」から人びとはその外に出ていく、しかしその「拠点」はいつも開放されているから、いつでも戻ってこられる。

 家族も「拠点」となりうるが、しかし家族はいずればらばらになっていく。現在の家族構成を見れば、成長した子どもたちは他の地で別の生活をしている。社会学者・宮台真司がよく言っているが、中国やイスラエルでは血族が団結をしていて、血族がそれぞれの個人をいつでもどんなところでもサポートする、しかし日本はそうした血族は分解していて、相互扶助の場とはなりえない、と。

 学園につくられる「拠点」は家族とは異なる。ある意味小さな社会ともいえるだろう。

 現在の日本社会は、いわゆる中間団体(労働組合など)が消えて、個人がばらばらになっている、「拠点」をもたずに浮遊している。

 そうしたとき、基督教独立学園における対話をもとにした「場」は、おそらくキリスト教の信仰にもとづく感謝、信頼が基礎になっているのだろうが、個人を結びつけ、かれらの「拠点」たりうる場をつくっていると思われる。

 そうした「拠点」をつくりだすことが、現在の浮遊する人びとにとって必要なことではないだろうか。ひとびとのなかの潜在的にある「拠点」への願望を、カルトが提供することもありうる。

 危うくなっている人びとの存立する基盤である「拠点」を、どのようにしてつくっていくのかが問われているような気がする。

 

 

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