窪田恭史のリサイクルライフ

古着を扱う横浜の襤褸(ぼろ)屋さんのブログ。日記、繊維リサイクルの歴史、ウエスものがたり、リサイクル軍手、趣味の話など。

味処 なか野

2009年01月03日 | 食べ歩きデータベース


  僕が大好きなお店。見た目は何の変哲もない小さな居酒屋ですが、すべて天然物の旬の地魚料理が自慢です。ご主人は壱岐の生まれで魚に対する思い入れには並々ならぬものを感じます。天然物ですのでその時その時で用意されている魚も違ってきます。注文するときはご主人にその日のお勧めを聞くと良いでしょう。

  僕がこのお店を好きなのは新鮮な魚もありますが、何よりご主人のキャラクターが最高だからです。これだけで「なか野」に行く価値があります。



  この日は15時頃熊本でラーメンを食べたのであまりお腹が空いていなかったのですが、昨日に引き続きイカと平目。



  後造りも忘れずに。



  車海老の塩焼き。僕は正直焼いた海老は食べるのが面倒な上に身も大して旨くないので好きではないのですが、ここの車海老は身がプリッとしたままで海老の概念が変わります。



  年末でこの日が仕事納めだったため、鯵も鯖も年内は終わりとのことでした。そこで代わりに鰆の刺身。肉厚ですが身があっさりしていて美味しかったです。「あまり腹が減っていないので少しでいいよ」と言ったら、「こんないいもん沢山出したりせんよ」とご主人に返されました。



  地魚料理専門店で知られる「なか野」ですが、僕の本当の目的は別にありました。それが実は上の写真、「地鶏焼き」です。隠れメニューなのかどうかは知りませんが、「地鶏ちょうだい」と言ったら「何で知ってるの?」と驚かれました。実はご主人と僕の友人が非常に親しく、11年前福岡にいたときから友人の関係で何度もお邪魔しているのです。「それなら早く言ってよ」とご主人。でも7年前に来たときのことは座っていた席に至るまで思い出してくれました。

  九州はいろいろと美味しいものがありますが、関東で意外に知られていないのが地鶏。最近こそ東国原知事の宣伝もあってか宮崎の日向地鶏が東京でも有名になりましたが、九州は大抵どこへ行っても地鶏が美味しいのです。鶏の好きな僕がこれを見逃すことはできません。

  宮崎式に炭焼きも良いですが、こうしてシンプルに塩と胡椒で焼くと地鶏が持つ良質の脂身から生まれる香ばしさが引き立ち、それが弾力があり噛むほどに旨みのにじみ出る肉質と相俟って本当に美味しいです。

味処 なか野

福岡市博多区住吉2-8-3 丸吉ビル1階   
TEL 092-281-7478


  繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした

よろしければクリックおねがいします!

人気ブログランキングへ
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

熊本城

2009年01月03日 | 史跡めぐり


  太宰府から再び西鉄で大牟田まで向かい、そこからJRに乗り換えて熊本へ。実に8年振りに熊本城を訪れました。ところが、いざ到着してみると熊本城は12月29日から年末年始のお休みのため閉園。ぶらっと思いつきで立ち寄ったので事前に調べていなかったのですから自業自得ですが、わざわざ熊本まで来てお城の中に入ることができませんでした。したがって上の天守閣の写真は8年前撮影したものです。最近本丸御殿が再建されたと聞いていたので中に入れなかったのは大変残念でした。



  現在の熊本城はご存知加藤清正が1591年から築城を開始し、関が原の合戦のあった1600年頃大天守が完成しました。徳川家康も南の島津氏の台頭を抑えるため清正に大規模な築城を許したと言われています。

  勇猛さで知られる加藤清正ですが、土木や農業政策に優れ、また築城の名人でもありました。前回ご紹介した名護屋城も清正の設計によるものです。熊本城はその美しさで姫路城、松本城と並び「日本三大名城」に数えられますが、熊本城は上の写真にあるように大天守・小天守・宇土櫓の3つの天守を始め、



  敵の攻撃にさらされることなく櫓間を移動できる渡り櫓や、



  俗に「武者返し」とも「扇の勾配」とも呼ばれる他に類を見ない反りの大きい石垣など要塞として城が本来持つ実用性にも優れていました。国内の戦いだけでなく朝鮮出兵で異国での戦いの経験も豊富な清正は篭城戦に備え、実の食べられる銀杏を城内に多く植え(このことから熊本城は「銀杏城」とも呼ばれています)、井戸を数多く掘りました。この点は水の確保に致命的な欠陥を抱えていた名護屋城とは対照的です。

  しかも熊本城の実戦性は築城から270年も過ぎた明治10年の西南戦争によって証明されることになりました。谷干城指揮する新政府軍4,000人は熊本城に立て籠もり西郷軍14,000人の攻撃に良く耐え、ついに陥落することはありませんでした。士族の反乱とはいえ、この戦いは近代戦であったのですから熊本城の要塞としての実用性がいかに優れていたかが分かると言うものです。

  因みに大天守・小天守は西郷軍の総攻撃が始まる2日前、原因不明の出火により惜しくも焼失しています。しかし上の写真にある宇土櫓を始め、多くの建物が現存しています。



  さて今回2日間で名護屋城、熊本城と同じ1591年に加藤清正によって設計されたとされる2つの城を訪れ気づいたことがあります。それは上の二つの石垣の写真(上は熊本城、下は名護屋城)を見比べて分かるように、同時期、同じ人物によって設計された城であるにもかかわらず、石垣の技術が自然石を積み上げた「野面積」と呼ばれる安土城に代表されるような従来の方式から、石の角を整形した「打込ハギ」と呼ばれる方式に進歩していることです。そうするとこの時期、日本の築城技術に何らかの大きな変革がもたらされたということになります。

  変革をもたらした要因を考えてみると、あくまで僕の推測に過ぎませんが、やはり1592年から98年にかけての文禄・慶長の役だったのではないかと思います。



  上の写真は10年前に沖縄を訪れ今帰仁、勝連、中城の3城を巡ったときの中城城の写真です。これら14世紀から15世紀の沖縄の城跡を見て、同時期の本土に比べ石垣の技術が格段に進んでいるなと思った記憶があります。



  また上の写真は以前ご紹介した蘇州盤門の城壁で元代(14世紀)のものです。いずれも16世紀の日本の城に見られる石垣より優れているように思えます。つまり、朝鮮出兵によって朝鮮あるいは明の先進的な石垣の技術が日本にもたらされた影響により名護屋城と熊本城の間に築城技術の変化が見られたのではないかということです。加藤清正は朝鮮にも出兵していますので、土木や築城に明るかった清正が現地の優れた技術士を連れ帰り熊本城の築城に先進技術を反映させたとしてもおかしくありませんし、むしろその方が自然だと思います。

  なお熊本城に見られる「扇の勾配」は加藤清正が現在の韓国蔚山に縄張りし、浅野幸長、毛利秀元らによって築城された蔚山倭城(鳥山城)の影響とする説もあるそうですが、この城の築城は1597年であり3年後の1600年には熊本城大天守の完成をみていますので、蔚山での経験を活かしてというよりはほとんど同時進行で技術の伝播があったのであろうと思います。



  因みに名護屋城の本丸西側と南側からは現在の石垣の内側に古い石垣が埋められているのが発見されています。名護屋城の記事でもご紹介した上の写真はちょうど天守台から見た本丸西側の石垣です。四隅が壊されているので何とも言えませんが、明らかな野面積である大手口の石垣と比べると、やはり石垣が進歩しているような気がしないでもありません。何故名護屋城が大規模に改修されたのかは謎とされていますが、秀吉が長期戦を想定し先ほどの蔚山倭城など朝鮮半島にいくつも大規模な城を築かせていたことを考えれば、海側から見た正面にあたる本丸の西側と南側の防御を増強させたと考えてもおかしくありません。

  繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした

よろしければクリックおねがいします!

人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

梅が枝餅

2009年01月03日 | 食べ歩きデータベース


  柳橋連合市場を出てそのまま西鉄に乗り、途中かつて祖父の家があった懐かしい井尻を過ぎ、太宰府天満宮へ。こんなご時世ですから学業成就でなくとも天神様に新年の無事をお祈りしました。



  そして太宰府のお楽しみといえば名物「梅が枝餅」。平安時代、都での政争に敗れ大宰府に左遷されていた菅原道真がある時刺客に襲われ、近くの麹屋に逃げ込んだことがありました。その麹屋のおばあさんは、道真をもろ臼の中に匿い、洗ったばかりの腰巻きをかぶせて刺客の目をごまかしたそうです。このおばあさんは、その後も道真の配所である館を訪れては失意の道真に麹の飯を道真が好んだ梅の枝に添えて差し入れたそうで、この故事が梅が枝餅の名前の由来になったのだとか。



  子供の頃、祖父に連れられ太宰府で梅が枝餅を食べるのがとても楽しみでした(学業の方はサッパリでしたが)。外側の餅皮をパリッと焼いた独特の香ばしさに、甘さを抑えた餡。出来立ての熱々であれば何個でも食べられそうな美味しさは30年経った今でも敢えて太宰府まで足を延ばそうと思うほどに忘れられません。

  道真が都を離れる際に詠んだ「東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」という有名な歌にあるとおり梅を愛した道真ですが、この梅が枝餅もどういうわけか梅こぶ茶と相性が抜群です。

  繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした

よろしければクリックおねがいします!

人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

原口商店の辛子明太子

2009年01月03日 | 食べ歩きデータベース


  12月29日朝、ホテルを出て博多の台所、柳橋連合市場へ。正月支度ということもあり、朝から市場は大賑わいでした。最近横浜ではこのような活気ある市場や商店街を見ることが少なくなってしまったので、季節の風物を感じられる市場の雰囲気だけでも心が和みます。



  福岡のお正月で欠かせないものと言ったら、何と言ってもブリですね。特にこの季節、脂の乗った寒ブリは福岡のお雑煮に必ず入っています。



  さらにもう一つ欠かせないのが焼きアゴ。一昨年、福岡のうどんをご紹介したときにも触れましたが、おさらいしますとアゴというのはトビウオのことで、これから澄んだ何ともいえない上品な味わいの出汁がとれます。どこの地方にも自慢のお雑煮があると思いますが、アゴ出汁のうどんや雑煮は一度知ると病みつきになります。福岡には雑煮専門のお店もありますので、機会がありましたら是非試してみてはいかがかと思います。



  ところで今回柳橋連合市場を訪れた目的は横浜へのお土産に「海産物専門 原口商店」の辛子明太子を買うためです。ご主人の原口藤男さんが自ら買い付ける北海道産のタラコに羅臼産の昆布、伏見産の唐辛子と厳選された材料のみを使い、手作りで樽漬けした極上の辛子明太子です。



  すぐ食べるのであれば皮が破れ売物にならなくなった辛子明太子をいかと和えた「いか明太子」もお勧め。地元では良く知られていますが、観光客にとっては穴場の辛子明太子です。



  繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした

よろしければクリックおねがいします!

人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする