子供の頃から鶴見を通るたびに電車から見える巨大なお寺、また、福井の永平寺と並ぶ曹洞宗の大本山として日本史に登場し、その名は知っていたものの不思議と今まで訪れたことのなかった、總持寺にお邪魔してきました。5月27日のことです。
總持寺は道元禅師と並び曹洞宗の両祖とされる瑩山招瑾(けいざんじょうきん)禅師(1268年~1325年)によって、当初は石川県能登に開山しました。しかし、1898年(明治31年)に大火災に遭い伽藍を消失。その後、1911年(明治45年)に当時の貫首であった石川素童禅師の時、現在の横浜・鶴見に移っています。近代日本での布教の必要性から東京に近いこの地を選ばれたようです。
15万坪という鶴見ヶ丘に広がる、横浜では他に見られない巨大なお寺です(伽藍の地図は上の図をクリックしてください)。多くの建物が国の登録文化財に指定されている境内を案内していただきました(有料)。
受付のある香積(こうしゃく)台から出発し、初めは百間廊下と呼ばれる長い廻廊から。能登での大火災の教訓から、鶴見の總持寺は建物を離して建てました。そのため、建物と建物を長い廻廊で結ぶようになったのだそうです。板張りの床は磨き上げられ黒光りしていますが、これは修行僧の修行の一環で毎日二回、廊下を水拭きするからなのだそうです。
百間廊下の途中にはそれぞれ、金鶏門、中雀門、玉兎門と呼ばれる3つの門があります。その内の中雀門から望む大雄宝殿(仏殿)です。この中を見ることはありませんでしたが、中には釈迦如来像が祀られています。床は御影石で造られており、できた当初は反射で人の顔まで映るというほどだったということです。現在は中を覗くことができますが、昔は一般人は中を見ることができなかったそうで、こんなエピソードを伺いました。
明治~大正期の歌人、与謝野晶子がどこからかこの大雄宝殿の床の素晴らしさを聞きつけ、どうしても中に入りたいと頼んできたそうです。お寺の側は最初断りましたが、どうしてもと懇願され、とうとう根負けし中に案内することになったそうです。
ところが、扉を開けて中を見た与謝野晶子は黙ってそこに立ったまま、ついに中に脚を踏み入れることはなかったそうです。そして、その時の想いを次のような歌にしました。
胸なりて 我踏みがたし 氷よりすめる 大雄宝殿の床
輝く床の素晴らしさもあるでしょうが、それよりそれが放つ神々しさが見た者を圧倒し立ち入ることを思いとどまらせたのではないでしょうか。話だけ聞くと初めは我儘な文化人の振る舞いにしか思えませんが、この句を詠むとさすがは当代一流の歌人だと思います。
大僧堂。修行僧がここに寝泊りして修行を行う場所です。修行中は座禅も睡眠も全て畳み一畳の範囲で行います。俗に足るを知ることを表す「起きて半畳、寝て一畳」という言葉は、元々禅の修行から来ているのだそうです。中央には僧衣を纏った僧形文殊菩薩像が安置されています。
法要中のため、写真を撮ることができませんでしたが、続いて訪れたのは伝光堂です。鶴見に移転した当初、まだ法要を行うお堂がなかった時、山形県鶴岡にある総隠寺が本道を献納して移築されたのだそうです。そのため、屋根の軒先が長い、柱の数が多い、畳を少し高くしてあるなど、雪国ならではの特徴が見られます。
放光堂から大祖堂へは、昭和40年に作られた地下廊下を通ります。上の写真は先ほどの大雄宝殿の裏側地下に位置するところです。
大祖堂。中国から曹洞禅を伝えた道元禅師や瑩山招瑾禅師を祀っています。千畳敷き、鉄筋コンクリートの巨大なお堂です。
紫雲台侍局。總持寺の貫首(禅師)が住んでいるところです。当然、中には入ることができません。
紫雲台。1914年(大正4年)に完成した、禅師が他の寺院と接見する場所です。
上の写真の「紫雲台」の書は東郷平八郎元帥の筆になるものです。
襖絵は大正時代の近代日本画の大家によるもので、それぞれ絵に因み、龍の間(狩野探令)、孔雀の間(佐竹永陵、島崎柳塢、今井爽邦、森脇雲渓、広瀬東畝)、雁の間(池上秀畝)、松の間(松林桂月)と名前がつけられています。
待鳳館。大正時代に東京・千駄ヶ谷にあった旧尾張徳川家の書院を移築したものです。天璋院(篤姫)が亡くなったのがこの書院であったということです。總持寺の迎賓館として使われています。
最後は香積台に戻ってきます。今は受付として使われていますが、元々香積台とは炊事をする庫院(くいん)を意味するのだそうです。したがって、上の写真のように五穀豊穣の神である大黒天が祀られています。
大本山總持寺
横浜市鶴見区鶴見2-1-1
繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
よろしければクリックおねがいします!
↓