西生浦倭城は文禄・慶長の役のあった1593年、加藤清正によって築かれた城です。文禄・慶長の役の際、日本軍は朝鮮半島南東沿岸部に多くの城を築きました。西生浦倭城はその中でも最も保存状態の良いものです。実は、戦国時代末期の実戦用城郭は日本国内でも遺構が少なく、高さ10mほどの野面積みの石垣は国内の城と比べ小規模ではありますが、実戦のための城郭として貴重な資料となっています。
以前、当ブログで熊本城をご紹介した際、この時期に見られる日本城郭の石垣の技術的進歩について触れました。当時は、対外戦争の経験がもたらしたものだと思っていましたが、今ではむしろ逆で、戦国から太平の時代に移行する過渡期にあったからこそ起こったものなのではないかと考えています。
西生浦倭城は韓国・蔚山市にあり、入り江を見下ろす200mほどの小高い丘の上に本丸・二の丸・三の丸を山腹から海に沿って一列に並ぶように配置した連郭式の山城(平山城?)です(上の図をクリックすると拡大します)。
特に三の丸は、当時の海岸線から丘の中腹にかけて、城壁のような帯状の石垣を築くことで補給のための防御線を確保しています(写真上)。これを登り石垣といいますが、国内では以前ご紹介した松山城、彦根城、洲本城などごく一部の城のみに見られる非常に珍しいものです。松山城を築いた加藤嘉明は朝鮮出兵で安骨浦城を拠点としていましたから、この時の技術が松山城に活かされたのでしょう。
山の中腹にある大手口。つまりここから城の主要部である二の丸、本丸へ入っていきます。築城時は上部に櫓が建てられていました。大手門を潜ると、正面と右側面を石垣に阻まれる(つまり左に折れ曲がる)構造になっています。これは松山城でも数多く見られた「虎口」(小口)と呼ばれる構造で、城内への視界を遮ると共に、侵入してきた敵軍を四方から攻撃できるようになっています。
丘の斜面に突き出したような形になっている曲輪。この曲輪の周りには、外枡形虎口、内枡形虎口、平入り虎口など合計3つの虎口が集中しています。連郭式の縄張りは側面攻撃に弱点を抱えますが、この曲輪によって、丘の斜面を登ってくる敵に対し、本丸・大手口・搦め手に通じる3つの虎口を同時に守備することができます。
平入り虎口。
外枡形虎口を抜けた曲輪より海を望む。当時の海岸線は現在よりはるかに内陸にありました。
食い違い虎口。本丸の入口にあたり、ここでも石垣を交差させることで防御を固めています。
現在は草木に覆われていますが、丘の斜面には畝堀という底が畑の畝のようになっている空堀が掘られていました。畝掘りは後北条氏が得意とした堀の技術で、この畝のために堀に侵入した敵軍は思うように行動できなくなります。そこを石垣の上から狙い撃ち、というわけです。1590年の小田原攻めの経験が活かされたのでしょうか?
側面(写真左)から見ると大した事ないように見えますが、上(写真右)からみると石垣がかなりの急勾配であることが分かります。これで下が畝堀では、いかにこの城が攻め難い城であったか想像できます。
天守台。高さは大してありませんが、幅の広い天守台で当時は三層の天守閣があったと言われています。
馬出し曲輪。
将軍水と呼ばれる、本丸の井戸の跡です。
最後に、三の丸で調査が進められている朝鮮水軍の施設跡。豊臣秀吉の死後、日本軍の撤退が決まり、1598年、ここを守備していた黒田長政が撤退します。その後、明将・麻貴の軍が入場し、1895年(明治28年)まで朝鮮水軍の兵営として使われていました。西生浦倭城の保存状態が良かったのはそのためかもしれません。
繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
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