都内近郊の美術館や博物館を巡り歩く週末。展覧会の感想などを書いています。
はろるど
「陰影礼讃」 国立新美術館
国立新美術館(港区六本木7-22-2)
「陰影礼讃―国立美術館コレクションによる」
9/8-10/18

「国立美術館が収集する西洋近世美術から内外の現代美術における『影』の諸相」(ちらしより引用。)を概観します。国立新美術館で開催中の「陰影礼讃」へ行ってきました。
何かの影とは美術に限らず常日頃、身の回りで目にしますが、今回は国立美術館5館の所蔵品から影の役割や表現などを問い直そうという試みがなされています。構成は以下の通りでした。
1「影あるいは陰」:絵画や版画から影の諸相を確認する。
2「具象描写の影と陰」:具象表現における影。
3「カメラがとらえた影と陰」:写真における影の様々な在り方。
4「影と陰を再考する現代」:現代美術における影の独特なアプローチ。

岸田劉生「古屋君の肖像」1916年 油彩、カンヴァス 東京国立近代美術館
前半はクールべやゴヤにカロ、または劉生から須田国太郎に大観らという全くとりとめのないラインナップでしたが、こうした既視感のある絵画なども影に意識すると多少は興味深い面はあるかもしれません。

北脇昇「独活」1937年 油彩、カンヴァス 東京国立近代美術館
北脇昇の「独活」(1937)における影はまるで人の踊る姿のようでもあり、サーモンピンクに染まる少女が描かれる須田国太郎の「少女」の背景の黒も、彼が常に影に注意を払っている画家だということがよく分かります。

速水御舟「秋茄子と黒茶碗」1921年 絹本彩色、額 京都国立近代美術館
しかしながら一方で具象画における影の表現は半ば付き物です。細密極まりない描写に事物の質感が追求された御舟の静物画や、和装の女性の恐ろしいまでの情念が燃え盛る赤に包まれる甲斐庄楠音の「幻覚」などの鮮烈な表現を前にすると、影云々の問題は頭から消え去ってしまいました。それに影で括ることにいささか疑問を覚える作品も少なくありません。
大味な前半部に対し、現代美術などが登場する後半の方が展示のコンセプトが伝わってきます。とりわけ白眉はデュシャンと高松次郎の影のコラボレーションでした。

マルセル・デュシャン「自転車の車輪」1913年 シュヴァルツ版 京都国立近代美術館
天井にも吊るされたデュシャンのレディメイドの影絵と、人の様々な影が巨大スクリーンに映る高松次郎の「影」とが対比された空間は、一つのインスタレーションとしても見ごたえがありました。

高松次郎「影」1977年 アクリリック、カンヴァス 国立国際美術館
また高松に関してはこの大作の他にもデッサンなどが十数点出ています。これまで断片的にしか知らなかっただけに、一揃え見られて満足出来ました。

ヤーコプ・ファン・ロイスダール「樫の森の道」17世紀 油彩、カンヴァス 国立西洋美術館
全体としてはあまり馴染めませんでしたが、京近美や国立国際など、東京に居ながらにして関西の国立美術館の所蔵品の一端を伺えるのは悪くないかもしれません。ただ逆に親しみある西美常設の西洋絵画が、味気ない新美のホワイトキューブにただ放り込まれているのを見るのはあまり気分が良くありませんでした。適切な表現ではないかもしれませんが、とても暴力的に映ります。
10月18日まで開催されています。
「陰影礼讃―国立美術館コレクションによる」
9/8-10/18

「国立美術館が収集する西洋近世美術から内外の現代美術における『影』の諸相」(ちらしより引用。)を概観します。国立新美術館で開催中の「陰影礼讃」へ行ってきました。
何かの影とは美術に限らず常日頃、身の回りで目にしますが、今回は国立美術館5館の所蔵品から影の役割や表現などを問い直そうという試みがなされています。構成は以下の通りでした。
1「影あるいは陰」:絵画や版画から影の諸相を確認する。
2「具象描写の影と陰」:具象表現における影。
3「カメラがとらえた影と陰」:写真における影の様々な在り方。
4「影と陰を再考する現代」:現代美術における影の独特なアプローチ。

岸田劉生「古屋君の肖像」1916年 油彩、カンヴァス 東京国立近代美術館
前半はクールべやゴヤにカロ、または劉生から須田国太郎に大観らという全くとりとめのないラインナップでしたが、こうした既視感のある絵画なども影に意識すると多少は興味深い面はあるかもしれません。

北脇昇「独活」1937年 油彩、カンヴァス 東京国立近代美術館
北脇昇の「独活」(1937)における影はまるで人の踊る姿のようでもあり、サーモンピンクに染まる少女が描かれる須田国太郎の「少女」の背景の黒も、彼が常に影に注意を払っている画家だということがよく分かります。

速水御舟「秋茄子と黒茶碗」1921年 絹本彩色、額 京都国立近代美術館
しかしながら一方で具象画における影の表現は半ば付き物です。細密極まりない描写に事物の質感が追求された御舟の静物画や、和装の女性の恐ろしいまでの情念が燃え盛る赤に包まれる甲斐庄楠音の「幻覚」などの鮮烈な表現を前にすると、影云々の問題は頭から消え去ってしまいました。それに影で括ることにいささか疑問を覚える作品も少なくありません。
大味な前半部に対し、現代美術などが登場する後半の方が展示のコンセプトが伝わってきます。とりわけ白眉はデュシャンと高松次郎の影のコラボレーションでした。

マルセル・デュシャン「自転車の車輪」1913年 シュヴァルツ版 京都国立近代美術館
天井にも吊るされたデュシャンのレディメイドの影絵と、人の様々な影が巨大スクリーンに映る高松次郎の「影」とが対比された空間は、一つのインスタレーションとしても見ごたえがありました。

高松次郎「影」1977年 アクリリック、カンヴァス 国立国際美術館
また高松に関してはこの大作の他にもデッサンなどが十数点出ています。これまで断片的にしか知らなかっただけに、一揃え見られて満足出来ました。

ヤーコプ・ファン・ロイスダール「樫の森の道」17世紀 油彩、カンヴァス 国立西洋美術館
全体としてはあまり馴染めませんでしたが、京近美や国立国際など、東京に居ながらにして関西の国立美術館の所蔵品の一端を伺えるのは悪くないかもしれません。ただ逆に親しみある西美常設の西洋絵画が、味気ない新美のホワイトキューブにただ放り込まれているのを見るのはあまり気分が良くありませんでした。適切な表現ではないかもしれませんが、とても暴力的に映ります。
10月18日まで開催されています。
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