都内近郊の美術館や博物館を巡り歩く週末。展覧会の感想などを書いています。
はろるど
「中村正義展」 練馬区立美術館
練馬区立美術館
「日本画壇の風雲児、中村正義-新たなる全貌」
2/19-4/1
「正義、参上。これが日本画だぁー!」のコピーも強烈です。練馬区立美術館で開催中の「日本画壇の風雲児、中村正義-新たなる全貌」へ行ってきました。
戦後の日本画壇において、常に「革新と前衛」(展覧会公式WEBサイトより引用)を追い求めてきた一人の画家をご存知でしょうか。
それが今回の主人公である中村正義(1924~77)です。
会場風景
中村は若くして日本画を志し、36歳の時に日展審査員となるなど、いわゆる画壇の中心へとのし上がりますが、元来の反骨精神から僅か1年で日展を脱退、以降は挑戦的な、ようは前衛と言うべき日本画を追求しました。
しかしながら彼の画業は決して長くはありません。肺病を患い、制作と闘病生活を同時に平行していた中村は、まだこれからという52歳の時に肺がんで生涯を閉じます。
その短い画家人生において膨大な数の作品を残しましたが、画業がまとめて紹介されたことはこれまで殆どありませんでした。
今回はそうした中村の壮絶な画業を俯瞰的に眺めることの出来る絶好の機会です。本画、素描あわせて約240点あまりにもの作品が一堂に会しています。(出品リスト)一大回顧展に相応しいスケールでした。
さてともかく唖然とまでさせられるのは、作品の放つ猛烈な個性、つまりはアクの強さです。
「萬松寺不動堂八大童子」(1960年)萬松寺
元々、高山辰雄に憧れ、初期には童画風の可愛らしい作品も描いていた中村ですが、初めて障壁画に挑戦した「萬松寺不動堂八大童子」(1960年)など、そのおどろおどろしいまでの作風は、見る者全てに深い印象を与えるのではないでしょうか。
「女(赤い舞妓)」(1957年)豊橋市美術博物館、「舞妓(白い舞妓)」(1958年)荒井神社、「舞子(黒い舞子)」(1959年)BSN新潟放送
とりわけ凄まじいのは1957年から59年にかけて描かれた舞妓三部作に他なりません。
1952年に4年にも及ぶ結核の治療から解放された中村は、赤、白、そして黒の舞妓の姿を鮮やかな描写で表しました。
「舞子(黒い舞子)」(1959年)BSN新潟放送 *3/11まで展示
とりわけ黒の舞妓には度肝を抜かれた方も多いのではないでしょうか。黄色の着物をはだけて露となったのは、それでも全く動じない舞妓の裸体そのものでした。
さて1961年に日展を脱退した以降は、あえて好みではない明るい色を用いるという、いわゆる原色実験を行い、かつてはセピアの中村と言われた画風を大きく変えていきます。
「男と女」(1963年)豊橋市美術博物館
「男と女」(1963年)は春画という半ば伝統的なモチーフを取り入れながらも、どこかポップアート風な様相を見せてはいないでしょうか。
そして「男女」(1963年)では絵具にボンドを混ぜ込み、それこそポロックならぬドリッピングの技法までを用いています。
「爽爽[蒼明]」(1966年)岡崎市美術館、「爽爽[風景]」(1966年)愛知県美術館
また先に春画に触れたように、たとえば金剛寺の「日月山水図屏風」を下敷きとした「爽爽」(1966年)など、必ずしも伝統を放棄しているわけではないところも重要です。
横山操の同作に触発されたという「瀟湘八景」(1964年)では、時に墨を操り、どこか叙情的な景色を描きだしています。
とは言えやはりロンドンで個展を開いた際に出品したシリーズや、素材にビーズやボタンをコラージュした「花子」など、日本画離れした表現もひたすらに突き詰めていきます。
会場風景
こうした前衛を求めた中村ですが、その前には様々なハードルも立ちはだかります。中でも中村と日展との対立を知った画廊からは、日展との関係の悪化を恐れて、作品の取り扱いを拒否されたこともあったそうです。
それでも彼は別の展覧会を企画したり、映画や舞台美術の仕事などをするなどして、存在をアピールしていきました。
1970年にガンが転移したことが分かった中村は、仏画を描き始めるなど、これまでとはまた変わった制作に取り組みます。
「顔」(1973-76年)中村正義の美術館
また約30点ほどの顔、しかも全てが自画像であるという「顔」(1973-76年)などからは、どことなく暗鬱な闇の世界とともに、何とも言い難い作家の苦しみを感じるのではないでしょうか。
「うしろの人」(1977年)豊橋市美術博物館
絶作の「うしろの人」(1977年)には中村の得意とする舞妓のモチーフが登場しますが、もはや亡霊のように虚ろです。そこにはこの世ならざぬ、言わば彼岸が描かれているように思えてなりませんでした。
目まぐるしく作風が変遷する制作の軌跡を追っていくと、そのエネルギッシュな表現に圧倒されるとともに、志半ばで倒れた作家の無念を感じるかもしれません。
なお先にも触れましたが、注目の「黒の舞妓」は3月11日の出品、つまり舞妓三部作が揃うのは次の日曜日までです。ご注意下さい。
4月1日までの開催です。ずばりおすすめします。
「日本画壇の風雲児、中村正義-新たなる全貌」 練馬区立美術館
会期:2月19日(日)~4月1日(日)
休館:月曜日。
時間:10:00~18:00
住所:練馬区貫井1-36-16
交通:西武池袋線中村橋駅より徒歩3分。
注)写真は報道内覧会時に主催者の許可を得て撮影したものです。
「日本画壇の風雲児、中村正義-新たなる全貌」
2/19-4/1
「正義、参上。これが日本画だぁー!」のコピーも強烈です。練馬区立美術館で開催中の「日本画壇の風雲児、中村正義-新たなる全貌」へ行ってきました。
戦後の日本画壇において、常に「革新と前衛」(展覧会公式WEBサイトより引用)を追い求めてきた一人の画家をご存知でしょうか。
それが今回の主人公である中村正義(1924~77)です。
会場風景
中村は若くして日本画を志し、36歳の時に日展審査員となるなど、いわゆる画壇の中心へとのし上がりますが、元来の反骨精神から僅か1年で日展を脱退、以降は挑戦的な、ようは前衛と言うべき日本画を追求しました。
しかしながら彼の画業は決して長くはありません。肺病を患い、制作と闘病生活を同時に平行していた中村は、まだこれからという52歳の時に肺がんで生涯を閉じます。
その短い画家人生において膨大な数の作品を残しましたが、画業がまとめて紹介されたことはこれまで殆どありませんでした。
今回はそうした中村の壮絶な画業を俯瞰的に眺めることの出来る絶好の機会です。本画、素描あわせて約240点あまりにもの作品が一堂に会しています。(出品リスト)一大回顧展に相応しいスケールでした。
さてともかく唖然とまでさせられるのは、作品の放つ猛烈な個性、つまりはアクの強さです。
「萬松寺不動堂八大童子」(1960年)萬松寺
元々、高山辰雄に憧れ、初期には童画風の可愛らしい作品も描いていた中村ですが、初めて障壁画に挑戦した「萬松寺不動堂八大童子」(1960年)など、そのおどろおどろしいまでの作風は、見る者全てに深い印象を与えるのではないでしょうか。
「女(赤い舞妓)」(1957年)豊橋市美術博物館、「舞妓(白い舞妓)」(1958年)荒井神社、「舞子(黒い舞子)」(1959年)BSN新潟放送
とりわけ凄まじいのは1957年から59年にかけて描かれた舞妓三部作に他なりません。
1952年に4年にも及ぶ結核の治療から解放された中村は、赤、白、そして黒の舞妓の姿を鮮やかな描写で表しました。
「舞子(黒い舞子)」(1959年)BSN新潟放送 *3/11まで展示
とりわけ黒の舞妓には度肝を抜かれた方も多いのではないでしょうか。黄色の着物をはだけて露となったのは、それでも全く動じない舞妓の裸体そのものでした。
さて1961年に日展を脱退した以降は、あえて好みではない明るい色を用いるという、いわゆる原色実験を行い、かつてはセピアの中村と言われた画風を大きく変えていきます。
「男と女」(1963年)豊橋市美術博物館
「男と女」(1963年)は春画という半ば伝統的なモチーフを取り入れながらも、どこかポップアート風な様相を見せてはいないでしょうか。
そして「男女」(1963年)では絵具にボンドを混ぜ込み、それこそポロックならぬドリッピングの技法までを用いています。
「爽爽[蒼明]」(1966年)岡崎市美術館、「爽爽[風景]」(1966年)愛知県美術館
また先に春画に触れたように、たとえば金剛寺の「日月山水図屏風」を下敷きとした「爽爽」(1966年)など、必ずしも伝統を放棄しているわけではないところも重要です。
横山操の同作に触発されたという「瀟湘八景」(1964年)では、時に墨を操り、どこか叙情的な景色を描きだしています。
とは言えやはりロンドンで個展を開いた際に出品したシリーズや、素材にビーズやボタンをコラージュした「花子」など、日本画離れした表現もひたすらに突き詰めていきます。
会場風景
こうした前衛を求めた中村ですが、その前には様々なハードルも立ちはだかります。中でも中村と日展との対立を知った画廊からは、日展との関係の悪化を恐れて、作品の取り扱いを拒否されたこともあったそうです。
それでも彼は別の展覧会を企画したり、映画や舞台美術の仕事などをするなどして、存在をアピールしていきました。
1970年にガンが転移したことが分かった中村は、仏画を描き始めるなど、これまでとはまた変わった制作に取り組みます。
「顔」(1973-76年)中村正義の美術館
また約30点ほどの顔、しかも全てが自画像であるという「顔」(1973-76年)などからは、どことなく暗鬱な闇の世界とともに、何とも言い難い作家の苦しみを感じるのではないでしょうか。
「うしろの人」(1977年)豊橋市美術博物館
絶作の「うしろの人」(1977年)には中村の得意とする舞妓のモチーフが登場しますが、もはや亡霊のように虚ろです。そこにはこの世ならざぬ、言わば彼岸が描かれているように思えてなりませんでした。
目まぐるしく作風が変遷する制作の軌跡を追っていくと、そのエネルギッシュな表現に圧倒されるとともに、志半ばで倒れた作家の無念を感じるかもしれません。
なお先にも触れましたが、注目の「黒の舞妓」は3月11日の出品、つまり舞妓三部作が揃うのは次の日曜日までです。ご注意下さい。
4月1日までの開催です。ずばりおすすめします。
「日本画壇の風雲児、中村正義-新たなる全貌」 練馬区立美術館
会期:2月19日(日)~4月1日(日)
休館:月曜日。
時間:10:00~18:00
住所:練馬区貫井1-36-16
交通:西武池袋線中村橋駅より徒歩3分。
注)写真は報道内覧会時に主催者の許可を得て撮影したものです。
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