洞雲寺鐘楼門に掲げてある『洞仙園』とある扁額で、芸備日々新聞記事や額の落款を見ると頼山陽の号で襄の字が認められるので筆者は頼山陽であることがわかる。
明治24年(1891)に今はなくなった門前向かいの山(向山)が公園地として整備され、洞仙園と呼ばれて同園の前門に『洞仙園』の扁額を掲げたということであるが、頼山陽と少し時代的なずれがあり詳しいことは不明である。
門前の道路は佐方方面に片側2車線で暫定通行できるようになっていた。
洞雲寺鐘楼門に掲げてある『洞仙園』とある扁額で、芸備日々新聞記事や額の落款を見ると頼山陽の号で襄の字が認められるので筆者は頼山陽であることがわかる。
明治24年(1891)に今はなくなった門前向かいの山(向山)が公園地として整備され、洞仙園と呼ばれて同園の前門に『洞仙園』の扁額を掲げたということであるが、頼山陽と少し時代的なずれがあり詳しいことは不明である。
門前の道路は佐方方面に片側2車線で暫定通行できるようになっていた。