原地区の原公民館前では国道433号線の改良新設工事が行われているが、予算規模が小さく100m足らずのわずかの区間であり、酷道解消までは相当先になりそうだ。道路地図には国道は赤線で表示してあり、山陽道下までは整備されているのでよく進入してきて道を尋ねられることがあるが、ここからは難行苦行の酷道ドライブとなる。更新の活力になります! ポチッとね!
宮島口の西にある広銀健康保険組合保養施設であるレゾナンス宮島には宮島を借景とした素晴しい庭園がある。宮島を望む庭園の一角には木造の数奇屋風の建物があり「碧庵」と扁額が掲げてあるので茶室とみられる。更新の活力になります! ポチッとね!
国道2号線の西広島バイパスで平良地区と宮内地区の高架橋の架橋準備作業が始まっていたが、速谷交差点の西側では大きな鉄骨の橋梁が架けられ始めている。開通までには4~5年くらいかかるようであり上平良、速谷、宮内交差点の朝夕の交通混雑は当分の間解消されそうにないようだ。更新の活力になります! ポチッとね!
可愛川に架かる七尾橋を渡ってすぐに墓地がありその脇に流れ薬師といわれる小堂が祀られている。昔川末付近にあった薬師如来が大洪水で流され、この付近に到達してこれを祀って流れ薬師と称するようになったそうであり、芸藩通志の下平良村絵図にも流レヤクシがみられ古くから祀られているようである。更新の活力になります! ポチッとね!
市役所佐伯支所交差点手前の店舗に懐かしい廿日市の銘酒であった家納喜酒造の「家納喜」の宣伝看板が残されている。家納喜酒造は8年位前に廃業されたが「家納喜」は建築の地鎮祭や棟上げなどによく使われていた銘酒であったが・・・更新の活力になります! ポチッとね!
JR廿日市駅東側にあった構内通路の跡で、かつては駅北周辺の人達が利用していた生活通路であったが、人身事故が多いために閉鎖された。鉄道が開通する以前から里道があり通行既得権があって長らく構内通路として存続していたものと思われる。更新の活力になります! ポチッとね!
八十八夜は先週に過ぎてしまったが上平良地区にある民家の庭築山の石積み上の生垣にはお茶の木が植えてある。田舎では自家製のお茶をこの時期に1年分作っていたのであるが、この植え込みのお茶の葉も利用されたものだろうか。更新の活力になります! ポチッとね!
宮内地区にある大手スーパー「ザ・ビッグ」の広い駐車場の各所に買い物用のカートや買い物カゴが放置されている。買い物をして自分の車に積んでしまえば買い物用のカートや買い物カゴは不要と所かまわず放置しておりマナー欠如もはなはだしい。自分が使用したものをなぜカート置き場まで持っていくことができないのだろうか・・・更新の活力になります! ポチッとね!
元平良小学校の運動場は道路向い側にあり平和台と呼ばれていたが、今は運動場の面影は全くなくなり宅地化されている。運動場になる前は溜め池があってその脇に学校田があり、周囲にも田畑があったところを埋立てて平和台が築造されたのである。更新の活力になります! ポチッとね!
天神地区の旧西国街道沿いに廿日市招魂社があり、その右手には明治天皇御用品奉置殿と表示した西洋様式を思わすような小さな建物がある。この建物は明治天皇御用品奉置のために建てられたものと思っていたが、碑文によると「元ト郡役所ノ奉安庫ヲ縣ヨリ譲リ受ケ」とあり、また佐伯郡制誌の口絵写真に見えるので佐伯郡役所の奉安庫が移築され明治天皇御用品奉置殿となっていることがわかるのである。更新の活力になります! ポチッとね!
山陽道の上り線側玖珂サービスエリア内になぜか廿日市市観光案内図が設置してあり、06年12月1日で紹介した宮島サービスエリアのものと同じように山口県の和木町が和気町と記されている。和気町は岡山県にある町であるがこの案内板を設置した関係者は誰も気付かなかったのだろうか?宮島サービスエリアのものはすぐに修正されていたが、いつのまにか撤去されなくなっていた。更新の活力になります! ポチッとね!
山口県の西北部を走っていたら現在の殿居郵便局に隣接して大正ロマンを漂わす洋風郵便局舎が残されていた。八角形の2階建て塔屋と平屋建ての局舎で各所に洋風のデザインが取り入られており、地方の田舎にもこのような洋風建築が取り入れられていたようである。更新の活力になります! ポチッとね!
上平良地区で極楽寺山の山裾では孟宗竹が元畑地や里山に繁殖して竹薮が次々と拡大しつつある。昔は一部分に竹林があったのみであったが、畑地や里山の手入れをしなくなってから次々と竹薮になっていった。更新の活力になります! ポチッとね!
玖島地区にある民家土蔵のケラバにある蔵飾りで福寿と記されている。この家の家族の幸福と長寿を願って記されたものであるが、漆喰の上に記された字の一部は剥落して見えづらくなってきている。更新の活力になります! ポチッとね!
玖島地区にある素封家の大きな屋敷で母屋や離れ屋、2棟の大きな土蔵などがみられ屋敷の大きさに圧倒される。当家は大正7年ころの耕地が15町歩以上を有する大地主で林業経営もされ、村の要職をも務めていたようである。ウサギ小屋のような家でも維持管理が行き届かないのにと・・・いらぬ心配を。更新の活力になります! ポチッとね!
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