旧島袋家(国登録有形文化財)
旧島袋家のシーサー
旧仲宗根家
旧玉那覇家(国登録有形文化財)
沖縄の昔ながらの特徴ある民家を撮ろうと思ったがバス車中からはタイミングよく撮ることができなかった。海洋博公園内のおきなわ郷土村、琉球村、おきなわワールドの王国村などに古民家などが移築、復元されていたが、いずれも時間を気にしながらの駆け足探訪でゆっくりと見物することが出来なかった。画像の民家は琉球村に移築されたもの。
旧島袋家(国登録有形文化財)
旧島袋家のシーサー
旧仲宗根家
旧玉那覇家(国登録有形文化財)
沖縄の昔ながらの特徴ある民家を撮ろうと思ったがバス車中からはタイミングよく撮ることができなかった。海洋博公園内のおきなわ郷土村、琉球村、おきなわワールドの王国村などに古民家などが移築、復元されていたが、いずれも時間を気にしながらの駆け足探訪でゆっくりと見物することが出来なかった。画像の民家は琉球村に移築されたもの。
沖縄のあちらこちらで本土では見られないような墓がみられたがバス車中からは新聞画像のような亀甲墓を撮影することができなかった。当ブログ主は訪れた地のローカル新聞を求めるようにしており、宿泊したホテルで沖縄タイムスと琉球新報を貰った。貰った琉球新報(9月10日付)に沖縄独特の門中墓についての特集記事が掲載されていた。中画像は一族42名が墓掃除をした時撮影されたようである。
那覇市の夜明けは少し遅く薄暗い中宿泊ホテルを6時に出てウォーキングを兼ねて那覇の花街跡まで散策した。辻村は女性が主体となって生活した場所であったようで、料理や唄・三線・琴・踊りなどの芸事などに磨きをかけ沖縄県下最大の社交場、華やかな場所であったようである。町のあちらこちらで夜の沖縄観光無料案内所の看板がみられた。
那覇空港駅から首里駅まで運行されているモノレール(ゆいレール)で、時間的な余裕がなかったので下から「のって」みた。本日午前中は台風18号の影響で時折り強い風雨であったので、帰りの運航が心配されたが離島便のみ欠航で岩国便で帰ることが出来た。明日からマニアックな探訪を紹介します。
本日は地域のお世話をしている人々と沖縄を訪れた。首里城は新婚旅行以来久しぶりに訪れた。当時は復帰すぐであり首里城には守礼門のみで琉球大学があった。本日はホテルよりタブレット送信のみ。
厳島神社宝物館は厳島神社社殿、多宝塔、大願寺などの歴史的な建造物群の中にあり、伝統的な木造建築を模した平屋建て鉄骨鉄筋コンクリート造りの建物で昭和9年(1934)に竣工している。木造柱を模した円柱の上部には組み物などや軒裏の隅木・垂木なども伝統的な木造建築を模して鉄筋コンクリートで造られている。
この建物は鉄骨鉄筋コンクリート造のため木造の社寺建築で行われる古式に則った上棟式が出来ないので鉄骨の組み立て後に古式の形式に則って上棟祭を行ったようである。
昨日は天神さんの登り口に祀られている豊受神社の豊年祈願祭が催行され、中央市民センターや廿日市駅通り、はつかいち本通り商店街などで二百廿日豊年市民祭が催された。子供が小さい頃に行ったことがあるが久しぶりに賑わいを見た。商店街に並んだ露店などでは大勢の人々が繰り出していたが、豊年祈願の豊受神社前は閑散としていた。
地御前港の中ほどには大正時代に築造された石積みの波止場が残されている。防波堤は花崗岩を積み上げたもので、港内側に犬走りが設けられ角部は面取りの仕上げとなっている。波止場の先端部は海側にL型に折り曲がっており、犬走りから堤頂部と海面に向けて長方形の石を突出させた石段が設けられ、堤頂部には繋船用の石柱が設けてある。かつて港西護岸には雁木や焚場の跡などがみられたが現在は改修されて消滅した。
今回の四国探訪で瀬戸大橋を渡る前に倉敷市水島IC近くにある熊野神社を再度訪れた。前回訪れた時は大雨だったのと翌朝追突事故を起こされ旅を中止して早々に引き上げた苦い思い出がある。
備前焼の地であり狛犬は備前焼のものであった。熊野神社は6棟の社殿が横一列に並んで各神座に神々が祀られているようで、中画像の左側から入母屋造りの第三殿、春日造りの第一殿、第二殿、流造りの第四殿、第五殿、第六殿と並んでおり賽銭箱がずらりと・・・
明治の神仏分離で熊野十二社大権現は熊野神社と五龍尊滝院に分かれており、熊野神社に隣接して五龍尊滝院の熊野十二社大権現本堂や三重塔、鐘楼などがある。
速谷神社のホームページ社務日誌に速谷神社の祭神飽速玉男命と同じ祭神の神社が今治市にあることが記述されていたので今治市の野間神社を参詣した。現在、野間神社の祭神は飽速玉命、若弥尾命、須佐之男命、野間姫命の四柱とされており、古代怒麻国(のちの野間郡)の国造に若弥尾命が定められたようで、野間姫命はその妻とされ若弥尾命は阿岐国造飽速玉男命の三世孫であるのでその祖神を祀ったとされているようである。
境内には厳島神社が境内社として祀られている。
財田厳島神社
三津屋厳島神社
養老厳島神社
当ブログ主は探訪地や道中に祀られている厳島神社を参詣するようにしており今回の探訪途中3社を訪れた。国道319号を通ってうだつの町並みに行く途中三豊市財田町の厳島神社に立ち寄った。旧財田町教委の看板表示によると近隣の宝光寺縁起に永正元年(1504)安芸国厳島神主佐長伊豆守道雅がこの地に勧請したと記されているようであるが、文献にはみられないような??厳島神主名である。
帰路はしまなみ海道経由で西条市三津屋の厳島神社を訪れた。かつて三津屋浦の船着場であったところで安芸の厳島神社から勧請奉祀したと伝えられているようであり、近くには「こんぴら道」と刻された大きな道しるべが建立されていた。今治市波方町養老の厳島神社に参詣、厳島神社の地は看板表示によるとかつて来島村上氏の隠居屋敷である養老館跡(別名別台)ということであり、近世以降にこの地に祀られたようである。
標高540mの国道439号沿いの集落から標高810mの範囲の山斜面に沿って広がって形成されている集落で重要伝統的建造物群保存地区に指定されているようで、集落内には5~6軒くらい草葺屋根の民家が残されているようである。
等高線に沿うように屋敷地、田などは細長い形状で平地に、傾斜した畑地など石垣を積み築造されておりそれらを里道で繋いでいる。現在は狭い道路がスイッチバック状に設けられており最高所の家まで行くには大きく6回くらいスイッチバックしないと到達できない。下画像は昨日紹介した栗枝渡地区から遠くの落合集落を遠望、何れも急峻な傾斜地に形成されている集落である。
八幡神社
安徳天皇火葬場跡
阿弥陀堂
栗枝渡地区にある八幡神社は安徳天皇が逃れ隠れ住み同地で崩御し遺骨を御神体として祀っているとされており、隣接して火葬したという安徳天皇火葬場跡が残されている。
境内にある阿弥陀堂内には秘境の地の民衆信仰を窺わせるような阿弥陀如来、弘法大師、観音菩薩、不動明王、毘沙門天、勢至菩薩などの多くの仏像が祀られているようで、住民の多様な願いや祈りが叶うように諸仏が祀られたものではなかろうか。
二重かずら橋
男橋・女橋
小采家住宅
阿佐家住宅
剣山を下山して国道439号沿いの東祖谷地区のあちらこちらを探訪した。奥祖谷の二重かずら橋は男橋と女橋があり平家伝説のある秘境の地と言われるに相応しい地のかずら橋であるが、何度か行っている祖谷のかずら橋には巨大な駐車場が設けられて観光地化されていたので今回散策はパスした。
祖谷地方の農家の特徴的な民家である小采家住宅(国重文)がいやしの温泉郷に移築されており探訪した。三面が壁で正面に開口部と小便所が設けられて一間の小さな家である。平家の子孫であるという阿佐家住宅(徳島県重文)の保存修理が終わって公開されているとのことで平家屋敷を探訪した。一般農家の小采家とは違い式台玄関があり多くの部屋数のある上層農家の大きな屋敷であった。