今夕、4時半ごろ極楽寺参道展望台から見た宮島SA駐車場、コロナ自粛の影響であろうか輸送トラック・乗用車の少ないこと。
平良・原地区の境付近の川末川に架かる井手(水路)橋であるが現在田んぼはなくなって水路は使用されていない。昭和26年(1951)のルース台風で長野川や川末川は甚大な被害を蒙り、復旧工事で大きく湾曲していた川末川は直線状になって長野川と合流した。このために川末川の向う側となった田んぼの用水路橋が設けられたのである。
極楽寺参道を登っていると枯れ木に色々な種類のキノコが生えているが樹木の名前もキノコの名前も分からない。このキノコにも名前があるのだろうが、当ブログ主は名前の分からないキノコはクソナバと呼んでいる。上画像の松の切り株に生えているキノコはサルノコシカケではないだろうか。
以前に作っていた不思議な接手の角材で、上画像・中画像のように4面とも蟻継ぎという先端部が大きくなっている接手でありどのようにして嵌め込んだのであろうか。下画像のように45度に加工して斜めに嵌め込んでいくと4面蟻継ぎの不思議な接手が出来るのである。よく切れる鋸や鑿で加工すれば精度の良いものが出来るのであろうがド素人ではこの程度しか出来ない。
ぼちぼちと田植え前の準備をしようとトラクターで田起こしをしていると大きな音がするのに次々とムクドリが昆虫やミミズなどを食べにやってきた。先日までサクランボをムクドリの集団で次々と横取りされこちらの口に入るのはわずかであった。ムクドリたちは最高のエサ場で食して堪能したであろう。
速谷神社本殿脇に境内社として祀られている稲荷神社で速谷神社造営誌(昭和9年-1934発行)によると、社殿は元禄14年(1701)11月に本社と共に改築され大正13年(1924)9月本社改築の際現在地に移転改築したとある。しかし、先日来紹介している元禄15年(1702)の厳島道芝記、天保13年(1842)の厳島図会には恵美須社、江戸期の地誌にも胡子社がみられどのような経緯で恵美須社が稲荷神社と改祀されたのであろうか。
天保13年(1842)に刊行された厳島図会の速田大明神の絵図をみると境内に鐘楼が描かれている。速谷神社の梵鐘は文明11年(1479)11月21日に厳島神主であった藤原教親が願主で鋳造され奉納されていたものであった。明治初年の神仏分離で西連寺の鐘楼に懸けられていたが昭和5年(1930)9月に速谷神社に還納されていた。昭和18年(1943)国家総動員法にもとづく金属回収令によりこの梵鐘は供出された。
昨日紹介した絵葉書から見た速谷神社の鳥居は大正後期から昭和初期ころのものであり、江戸期の鳥居はどのようなものであったのであろうか。元禄15年(1702)に刊行された厳島道芝記の速田大明神の絵図(上画像)をみると明神鳥居の一の鳥居と二の鳥居が描かれている。天保13年(1842)に刊行された厳島図会の速田大明神の絵図(下画像)をみると厳島神社の鳥居と同じ両部鳥居の一の鳥居と二の鳥居が描かれている。速谷神社造営誌によると一の鳥居は安政4年(1857)2月に再建されたようである。
① 一の鳥居(前身)
②一の鳥居
③二の鳥居
④三の鳥居
速谷神社の鳥居を絵葉書から見ていくことにする。①画像は大正12年(1923)の国弊中社列格造営の地鎮祭時のものであり、一の鳥居の前身は明治7年(1874)1月に改築され、明治40年(1907)頃に大幅に改築されたもののようである。一の鳥居の前身は大正14年(1925)2月の馬場参道の改修で②画像一の鳥居として移設された。③画像二の鳥居は明神鳥居で柱間隔13尺5寸、高さ16尺2寸5分であり、現在の楼門のところにあったようで、④画像三の鳥居は明神鳥居で柱間隔12尺5寸、高さ14尺4寸であり、現在の神門のところにあったようである。二、三の鳥居は大正14年(1925)2月に建立されたものであるが何時ごろまであったのかは定かでない。
速谷神社の鳥居後方の参道に植えられた楠の新緑が眩い季節となった。手前の鳥居は昭和47年(1972)4月に建立された鉄筋コンクリート造であり、コンクリート劣化により剥落する恐れがあるので、創祀1800年祭記念事業として鳥居の建替え工事が行われるようである。現在の鳥居以前は厳島神社の鳥居と同じ木造の両部鳥居であり、神号額は明治8年(1875)に有栖川宮熾仁親王の揮毫されたもので現在は神宝館にて展示されている。
天神6丁目にある廿日市招魂社の玉垣に宇品造船所廿日市製作所が寄進した親柱がみられる。宇品造船所廿日市製作所についての資料は見当たらずどこにあったのだろうか。当ブログ主が高校生の頃、国道2号線の廿日市高校前交差点がある廿日市保健所(現広島県西部県税事務所廿日市分室)脇に大きな門柱があったのを記憶している。門柱があった沖側に宇品造船所廿日市製作所があったのであろうか。(下画像は国土地理院空中写真-昭和22年)
物入れの中に廿日市町並みにあったスーパーミツバの広告があった。スーパーミツバがあったことを知っている人はわずかであろう。裏に昭和42年(1967)現在のことをメモしているのでその頃にあったようである。昭和49年(1974)の住宅個別地図(下画像赤丸)須賀町にはスーパーマルシンがみられそれ以前にあったものであろうか。ここには現在はグランドメゾンというマンションが建てられている。
この時期荒れ地に繁茂している厄介な雑草であるチガヤの花穂が出かかっており既に花穂が出ているものもみられる。葉に包まれている若花穂は少し甘みがあり、子供の頃、田舎では菓子やガムなど無かったのでチガヤの新花穂をズボーナといってチューインガム代わりに噛んでいたものだ。 若花穂を出して噛んでみたが甘い味がしない。70年ぐらい前には甘く感じていたのだが・・・
昨日は当ブログ主の田んぼに水をあてる井手(農業用水路)の井手せきが行われた。井手に関係する人達で田んぼを作っている人や過去に作っていた人達で井手の掃除をした。江戸期の地誌には各井手の名前が記されているがどれに該当するのか現在知る人はいない。用水路が整備されていない昔は田んぼの面積に按分して井手の維持管理費を負担していたということであり、作業を欠席したときにはデブソクを取っていたようである。
宇佐小学校跡の校庭隅に二宮金次郎像が建立されていた。刻銘によると昭和13年(1938)3月に開校記念として建立されたようである。高いところにあるので二宮金次郎が何を読んでいるのか分からない。以前訪れた西予市宇和開明学校にある二宮金次郎像の本には難解な中国古典「大学」の一節が刻されていた。