前回、前々回と戦争の悲劇が戦後も続いていたことをかすかな記憶を基に書いて見た。あまり知られていないようだが、戦中・戦後の生活がわかりやすく展示されている展示館が東京に2つある。
東京の九段下駅すぐ傍の 「昭和館」
「館長のごあいさつ」によれば、「昭和館は戦没者遺族をはじめとする国民が経験した戦中・戦後の国民生活上の労苦を後世代の人々に伝えていこうとする国立の施設・・・館内には、当時の国民生活にかかわる実物資料を多く取り入れ、その背景もわかりやすく説明した常設展示室、・・・戦中・戦後の映像・写真資料・・・」とある。
6月も20校以上の小中学校が訪れている。
ぜひ時間を作って一度訪れて見てはいかがでしょうか。時間のない人はホームページ上で展示品の一部だけでもご覧ください。
「平和祈念展示資料館」
新宿住友ビルの33階。
「平和祈念展示資料館(戦争体験の労苦を語り継ぐ広場)は、恩給欠格者(軍人在職期間が短い等の理由で恩給や年金を受けられない人)、シベリアでの強制抑留者、引揚者などの方々の労苦についての理解を深めていただくことを目的として、平和祈念事業特別基金が開設した施設です」
実物にははるかに及びませんが、ホームページ上で館内の一部が見られます。
太平洋戦争(第二次世界大戦)が終わった時点で、海外に残された日本人の数は、軍人が約320万人、一般人が約300万人以上という。この600万人以上の人が一日でも早く日本へ帰国できるよう民族の大移動とも言うべき大事業が敗戦の混乱の中で行われ、まず昭和20年9月28日、舞鶴をはじめ9港が引揚湾に指定された。
マッカーサーは人道的立場から協力的で、東南アジア、台湾、中国、韓国などからの引き揚げは1946年には9割以上達成された。しかし、ソ連占領下の北朝鮮や満州などでは、引き揚げは遅れた。実際、関東軍70万人のうち、66万人はシベリアに抑留され、強制労働に従事させられることになる。
なお、引揚船は在日中国人・朝鮮人の帰国船ともなり、中国へ3,936人、朝鮮へ29,061人を送還した。
満州から帰国しようとした開拓者らは食糧事情などで途中力尽きた者も少なくない。また子供を中国人に預けざるを得ないこともあり、いまだに残る中国残留日本人孤児の問題となっている。
藤原てい(夫は作家の新田次郎、息子は数学者というより「国家の品格」の著者の藤原正彦)が、子供を連れ満州より引揚げてきた体験をもとに、小説として記した『流れる星は生きている』は戦後空前のベストセラーとなった。
舞鶴港はこの間、66万人を越える引揚者を受け入れ、昭和25年からは国内唯一の引揚湾として最後まで重要な役割を果 たした。1958年9月の最終船入港で13年間の海外引き揚げ業務は終了した。
日本各地から夫や親族の帰還を待ち望む多くの人々が、舞鶴港へと出迎えに訪れた。
私が覚えているのは興安丸という引揚船の名前で、「今日も来ました・・・」で始まる「岸壁の母」という歌も覚えている。この歌は、引揚船で帰ってくる息子の帰りを待つ母親を歌ったもので、二葉百合子(300万枚)が歌ったと思っていたが、その前に菊池章子という人が歌ってヒット(100万枚)していたようだ。
舞鶴港の国別引揚者
ソ連 455,952(68%)、中国 191,704(29%)、韓国 14,225(2.1%)、北朝鮮 2,375(0.4%)、他 275(0.1%) 計 664,532人
舞鶴引揚記念館のホームページ
(http://www.maizuru-bunkajigyoudan.or.jp/hikiage_homepage/next.html)を参考にさせていただきました。
戦争は悲惨なもので、太平洋戦争が終わったあと、国の内外で生き残った人も家族や親戚などをばらばらにされた人が多かった。戦争が終わっても、戦災で家を焼かれ、家族がばらばらになった人、外地から帰還し、焼け野原で家族を探す人などが多くいたのだ。
子供の頃、昼間の決まった時間だったと思うが、ラジオで尋ね人情報を放送していた。「昭和○年ごろ、○○町にいた○○さん」とか、「○○中学○年卒業の○○さん」などと、次々延々と単なる尋ね人情報が読み上げられていく。安否を気遣い、再開を願う一人ひとりの切実な気持ちがあのNHKのアナウンサーの冷静な読み上げで淡々と語られていく。
子供の頃は尋ね人の放送があるのが普通の状態だと思っていた。
戦後の一時期だけではない。昭和21年(1946年)から10年間続いたのだ。
親を失った子供(戦災孤児)も多く、浮浪児(子供のホームレス、ストリート・チルドレン)と呼ばれた。上野の駅の近くの地下道で浮浪児がたくさんいるのを見た記憶がある。
あまり変わらない年頃の子が、じっと私の目を見た。あのギラギラとした目が忘れられない。あの子は?
戦争中、といってもイラク戦争でも、朝鮮戦争でもなく、アメリカと戦った太平洋戦争中のことだが、主食であるお米が不足して1941、42年からお米は配給制になった。このとき各世帯に配られたのが米穀通帳(べいこくつうちょう)で、正式には米穀配給通帳と言った。
戦後も米穀通帳は続いた。通帳には、氏名、住所、家族構成などが書かれていて、これがないと米屋に行っても米が買えない。食堂で米が入っているカレーライスのような料理を注文するには、米を持参するか米穀通帳を提出しなければならない時期もあった。
米穀通帳は、今の健康保険証や自動車免許証のように身分証明書かわりの、まさに命の綱の大切なものだったのだ。
食糧管理法という法律があって、個人が直接農家の方からお米を買うことは犯罪だった。しかし、配給だけでは誰もお米が足りないのでやみ米が出回っていた。たしか、裁判官だと思ったが、家族の中で一人、頑固に配給米だけしか食べずに栄養失調で死亡した人が居て、問題になったという記憶がある。
農家から米を買って都会へ持込むかつぎ屋がいた。かなり年とった小柄なおばさんが百キロはあろうかという山になった荷物を背中にベンチに座っている。電車が入ってくると、少し前かがみになり、スーと立ち上がり、何事もない様に電車に乗る。まさに手練の技だと思った。
ときどき警察の手入れがあり、ずらりと並ばされたおばさんたちと、唐草模様のふろしきに包まれた米の山。しかし、没収されても、もくもくと、翌日の農家へ買出しに出かけるのだ。たくましい時代でもあった。
配給米もやみ米も、質が悪く、新聞紙の上に広げて、混じっている石を拾った。これをやらないと、おいしい白米を食べている途中で、ジャリッと噛んでしまう。父親が、米を入れた一升瓶を両足で抑えて、棒でつついて、ぬかを落としていた光景を思い出す。
しかし、そもそも、米を食べられる日は少なく、スイトンやグリーンピース、サツマイモが主食だった。たまに食べる米もあの細長く、ポソポソした外米が多かった。
やがて正規ルートを通さないやみ米や、自主流通米が増え、1970年代になると米余りの状況に陥ったため、米穀通帳なしでどこでも米が買えるようになり、1981年に廃止された。
こんな時代を経て、今でも私はお茶碗の中の米粒ひとつも残すことはできない。たとえ、ウエストに問題があり、またその時、おなかが悪くとも。
先日、北朝鮮の食料事情のニュースを見た。そこに子供の時の自分が居た。
今年6月はバンクーバー・ダウンタウンのガラス張りのコンドミニアムで過ごしたが、7月は郊外のRichmondの住宅街に滞在した。私の滞在した家は立派な住宅が並ぶ地域で、広い道路に面して芝生の前庭があり、花壇には花々が鮮やかで、自動で開く大きなガレージ、何部屋もある広々とした家が続く。一つとして同じ家はないのだが、全体としては統一された町並みになっている。映画やTVで見た、かってのあこがれの豊かなアメリカのようだった。
ふと、「デジャブ(既視感)かな?」と不思議な気持ちになった。目をつぶって静かにしていると、つかまっている針金のフェンスの向こう側に、一面の芝生に点々と建つ明るいペンキ塗りの建物が目に浮かぶ。子供のころ、もう50年ほど前、明治神宮の高いフェンスの向こう側の立ち入れない世界、まったくの別世界、東京の中の外国、米軍将校の住宅街、ワシントンハイツが見えた。
敗戦とともに、陸軍代々木練兵場がGHQ(連合軍総司令部)に接収され、東京駐留の米軍将校のための住宅団地としてワシントンハイツとなった。明治神宮に隣接する今の代々木公園あたりである。92万平米あり、約800世帯のアメリカ軍将校家族の宿舎と、将校クラブ、劇場、教会等があった。倉庫にでも使っていたのだろうか、波目の鉄板でできたカマボコ型の建物もいくつか見えた。
その後、1963年日本に返還され、1964年の東京オリンピックの選手村や、NHKの建物が建った。
子供のころ2駅ほど歩いて、よく明治神宮で遊んだ。参宮橋口から入ると、宝物殿前の芝生の広場には、仰向けに寝転がっている日本人女性の上にぴったり乗っかって、微動だにしないアメリカ兵の姿があった。横目でチラチラ見ながら、道をはずれ、林を抜けると、フェンスがある。フェンスにつかまって一面の芝生を見ていると、遠くにいかにも明るく楽しそうな親子が遊んでいたりして、いつでも腹ペコのこちら側とは別世界のアメリカがそこに見えた。
あのころのアメリカ、といっても日本でのアメリカしか知らなかったが、輝いて見えた。派手で、明るくパワフルで善人のアメリカ人。町で見かける馬鹿でかいアメリカ車、キャデラックや、リンカーン。「アメリカじゃ、一家に2台車があるらしいぜ」「ヒェー」
お袋が私の手を引いて銀座を歩いていたら、米軍将校が、「 Oho! Baby! 」と言って私を抱き上げ、高い高いをした。お袋は、ただオロオロするだけだった。
そんな私がバンクーバーの広々とした住宅街に滞在している。また、アジアに行ったときは、金持ち日本人として物売りが集まってくる。昔のことを思うと、居心地悪く、夢の世界にいるように感じて、実在感が薄れていく。
潮風
我が家は東京湾を一望する絶景の崖の上にあった。東京にいたときは、海の傍の家などロマンチックだと思っていたが、現実は厳しい。
風向きにより、干してある漁師さんの網の臭いだろうか、魚くさい風が来る。また、潮風が吹き上げ、洗濯物は湿っぽくなるし、ガラス戸に塩がこびり付く。
そして、畑をやっていた10年間で一回だけなのだが、すさまじい台風の夜が明けて、庭を見たとき、唖然とした。畑の作物が、どれもこれも潮風で一夜にして真っ黒になって枯れていた。もちろん、ビニールハウスは飛ばされて跡形もない。
キュウリ
苗は園芸店で購入するのだが、その店は花以外の畑物は、近所の農家向けに売っている店なので、苗の品種を示す名札がない。玄人は見れば、判断がつくのだ。
ある年、キュウリの苗を買い、すくすくと育てた。ついつい収穫が遅れると巨大キュウリになり、後が傷んでしまう。しまったと思い、あわてて収穫し、その場で食べた。カリッと噛んだつもりが、グニャとなる。苦い。全体になんだか柔らかい。ヘチマだった。次々とできるヘチマ。
しかたないので、水につけて腐らせ、筋だけにして、スポンジ代わりのヘチマにした。おふくろは喜んで風呂で使っていたが、10本もあっても困る。おそるおそる近所に持っていったら、いまどき珍しいと喜ばれた。野菜を持っていったときより反応が良かったので、よけいにへこんだ。
ピーマン
ある年、例年のようにピーマンの苗を買い、育てた。収穫時期が近づいたが、なんだかピーマンが細いままだ。間引かずに何房もできているせいと思っていたが、だんだん赤くなる。トーガラシだった。また、苗間違いをやらかした。
しかたないので、収穫して、乾かしてトーガラシとして利用することにした。しばらく経って、乾燥したトーガラシをまな板の上に乗せ、包丁で切ったが、硬くて簡単に切れない。ならばと、すり鉢に入れ、スリコギで強引につぶしにかかった。
なかなかつぶれないが、しばらく続けていると、目がヒリヒリする。そのうち、顔がほてってきて、だんだん痛くなる。顔が腫れ上がり、耐え切れないほど痛くなる。スリコギも放り出して、痛い、痛いと騒いでいるのに、家族は私の腫れ上がった顔を見て笑っている。ぬらしたタオルで顔を冷やす。痛みが収まり、ホットする。助かった。
と思ったら、水が乾いたら、よけい痛くなった。どうやら、毛穴に刺激物が入ったようだ。目をつぶり、口を開けて呼吸し、ただただ時が過ぎるのを待つ。どのくらい時間が経ってからだろうか、ようやく腫れが引いた。
悔しいので、トーガラシは捨てずに、ダンボールの箱に入れて棚の上に置いた。引越しのときに出てきた箱を開けて、思い出し、あわてて捨てた。
10年くらい畑をやって、猫の額ほどもない庭の横浜の家に越してから小さな花壇のみで畑仕事は止めた。
畑仕事は、土つくりが何より大切で、高度なノウハウを必要とする。通常でも多大な手間が必要で、無農薬で広い畑を管理するなど考えられない。予想困難な天候や市場価格のリスクも避けられない。ビジネスとしての畑仕事がいかに大変かを学んだ10年だったともいえる。
30年ほど前のことだが、三浦半島の先っぽの方に自宅を建てたときに、20平米ほどの畑を作った。
まず、トマト、ナス、ピーマンの御三家の苗を買って植えた。秋まで収穫ゼロでは待ちきれないので、狭い畑をさらに分割してレタス、コマツナ、ホウレンソウなど葉物を植えた。これもいっぺんにドット出来ても困るので、種の入った袋から少しだけ出して撒き、残りの種は冷蔵庫で保管した。多品種、少量生産である。
連作で成長せず
ナス科には、ナス、ジャガイモ、トマト、ピーマン、トーガラシがあるが、ナス科を同じ場所に2年、3年と続けて植える(連作)と、成長障害になる。したがって、畑を分割して年毎にずらして植えるようにしたが、なにしろ狭いので、何年もしないうちに連作となってまともに育たないことになってしまった。したがって、長く収穫できるのはサヤエンドウくらいで、結局、一度収穫すれば終わりのエダマメ、キャベツや、葉物がだんだんメインになってしまった。
旬(しゅん)のときに一斉収穫となってしまう
レタス、ホウレンソウなど葉っぱ物はできるときは一斉にできて、一気に収穫しないといけない。自宅ではいっぺんに食べきれないし、近所に差し上げるほどのできでもない。それに、旬のときには店での値段も安くなる。収穫物を奥様に見せても、「スーパーだったらもっと立派なのが10円くらいかしら」などと冷たく扱われてしまう。
ビニールハウスに挑戦
無農薬でやっているので、虫もいるし、葉は穴だらけである。「売っているのは虫も食わない野菜だぞ」と負け惜しみを言っても、冷たく虫、じゃなかった無視される。
そこで、園芸店へ行って、ビニールと園芸用棒を買ってきて、洗濯ばさみで止めて、屈めば入れるくらいの高さのビニールハウスを畑の一角に作った。これで、飛んでくる虫も、その卵も防げるし、温度を上げて旬をはずして成長させ、収穫できるとの目算だ。
結果的には虫対策には多少の効果はあったが、植物の自然の理には勝てず、旬をはずすのは難しかった。それよりなにより、風が強いと、ビニールを止めてある洗濯ばさみが吹っ飛んで、翌日は大忙しだった。
半世紀ほど前の東京でも畑がまだ残っていたが、私には畑仕事の経験はない。先に述べたように結婚してまもなく、ベランダで菊作りして植物を育てる楽しみと、土いじりが癒しになることを知った。
もう30年も前のことだが、東京から三浦半島の先っぽの方に引越したとき、農家で一坪農園を貸していることを知った。同じく東京育ちの奥さんに相談すると、一度畑仕事をしてみたいと言う。さっそく、一区画借りて、農家の人に教わりながら、トマト、キュウリ、ナスなど野菜つくりを始めた。
初回の種まき、苗植えのときは農家の人が要領を教えてくれた。堆肥と化成肥料をバンバン撒くので驚いた。畑の土も肥えているので初年度は立派な収穫があった。2年目は畑に通う回数が減って、多少出来が悪くなり、3年目は月一回程度になって肝心なときに苗を植えられなかったり、収穫の時期を逃したりした。なにしろ、場所が自宅から遠く、毎土日にきちんと通うのが大変で、3年であきらめた。
ただ、子どもはなかなか思うようにならないが、植物は手をかければかけるだけ、それに応えてくれることは実感した。
近くに自宅を建てたときに、長年の夢を実現するために、狭い庭いっぱいに2m*10mほどの畑を作った。さえぎるものない南向き土地にコンクリートで囲いをつくり、中に畑用の土を入れてもらった。これで毎日、たとえ夜でも、野菜の面倒が見られる。狭いながらも楽しい畑である。
奥さんにも、「これからは野菜が欲しいときは、庭に出れば新鮮そのものの野菜が手に入るぞ」と大見得をきった。
その日の5時になると男の子たちが集まり始める。場所は、地元では山大公園と呼ばれているところで、野球のグランドほどもあり、ちょっとした斜面で、一面の笹の間に木々が立ち並ぶ林になっている。5時半には驚くほどの子供たちが集まる。皆、手製の竹でできた刀を持っている。1m ほどの細い竹の太い方を手元として、端から10cm ぐらいのところにお椀や、おたまの中心に穴を開けたものを通し、紐を前後に巻きつけて固定し刀のつばとしている。
自然発生的に戦いは始まる。誰が采配を振るうわけでもないのにうまい具合に東西2 陣営に別れる。斜面の上と下にあるいつも決まっている大きな木がそれぞれの陣営のベース基地になる。
戦いは1対1でチャンバラである。というより当時はそんな名前は知らなかったが、ようするにフェンシングである。もっとも多くの子供は竹を突くだけでなく、左右に振り回して相手を切っていたのだが。
互いの判定で、相手の刀で手足や体を触られた方が負けとなる。負けた子は捕虜になり、相手陣営のベース基地の木に数珠繋ぎにつながれる。今でも不思議なのだが、戦いの中で、触った、触ってないの言い争いはほとんどなかったと思う。負けてつながれながら、「早く助けてくれ!」と叫ぶのもなんだかウキウキすることなので、あっさりと負けを認めたためもあったと思う。
生い茂る笹の下を腹ばいになって敵を避けて進み、あるいは倒しながら、味方がつながれた列のどこかに刀で触ると、列の全員が開放される。開放された子供たちは大声を上げていったん基地に戻る。
多くの子供が負けて列が長くなると、長い補給路を守りきれなかった日本軍のように、長い列全部を守ることが難しくなり、やがていっぺんに捕虜が開放されることになる。
戦いは勝ちそうになり、負けそうになり、ダイナミックに日が完全に暮れるまで続く。
統率者がいないのに全体がバランスし、もめごともなく、あちこちで、真剣でフェア-な戦いが行われ、生き生きと駆け回る子供たち。
まるで、夢のようであった。いや、いまでも目に浮かぶあの光景が夢か、本当にあったのか今では判然としない。
「食べた後すぐ寝ると牛になってしまう」
子供でも本当に牛になるとは思っていなかった。しかし、子供心にも、食べた後に、ゴロゴロ寝転んでいるのはだらしなく見えた。行儀作法(今や死語)の教えの一つとして理解していたと思う。しかし、この言葉を覚えているということは、良く言われたと言うことなのだろうか。
歳とって窮屈はいや、何でもラクチンが良いとなって、今や必ず、食後は、いやいつでもゴロゴロしている。しかしいまだに牛にはなっていない。
「バナナを食べると疫痢(えきり)になる」
昔、バナナは高価でめったに食べられなかった。バナナをむしゃむしゃ食べるチンパンジーがうらやましかったものだ。食べたがる子供に、大人がこう言って収めたような気がする。
ちなみに、疫痢とは、子供の細菌性赤痢の重症のもので、短期間に死亡する怖い病気だ。衛生管理が行き届いたせいだろうか、最近はほとんどない。
「アイスキヤンデーの中の棒を舐めると疫痢になる」
これはローカルに言われていたのかもしれない。今のアイスキャンデーは平べったいものが多いが、昔は割り箸の周りに円筒状にアイスがついている棒状のものだけだった。卑しく芯にくっついたアイスをべろべろ舐めるなということなのだろうか。それでも未練たらしく、こわごわと最後までぺろぺろしていた。
「狂犬病の犬に噛まれるとよだれをたらしながら人を噛むようになる」
今でもこのフレーズを聞くと、ハアハア息をしながら、長い舌を出して、よだれをたらし、牙をむいて痩せこけた狂犬病の犬が近づいてくるのが目に浮ぶ。そして、噛まれると自分もああなってしまうと思うと!
トラウマになっているようで、いまだに痩せて獰猛そうな犬は苦手だ。ちなみに、狂犬病の犬に噛まれると、ワクチン接種しなければ100%死に至ることが多く危険だが、噛まれてもゾンビのように人が人を襲うようにはならない。安心してよい??
「ワカメやコンブを食べると、頭髪が増える」
ワカメもコンブも大好きで良く食べてきたのだが、・・・・・
「夜に爪を切ってはいけない」(親の死に目に会えない)
すっかり忘れていて、今では爪は風呂を出た夜に切ることが多くなった。
「霊柩車を目撃したら親指を隠さないと親が亡くなる」
今でも霊柩車を見ると、親指がむずむずする。しかし、町で霊柩車をみかけることもなくなったし、考えてみれば、私にはもう両親はいない。
最近、今はそうは言わない古い言葉が思わず出てきてしまって、笑われたり、自分でも苦笑いしたりすることがある。
国電: 今のJR。日本国有鉄道時代の大都市圏の鉄道、車両の名前。もっと昔は鉄道省だったので省線(電車)と言った。「JR」が定着する前に、名前を公募して、選定委員長の小林亜星さんから「E電」とはなやかに発表があったが、まったく使われず、消えてしまった。
乳母車: 今のベビーカー。そのほとんどがバギー。 乳母車は籐でできていて、四輪だった。乳母って、昔々に実母のほかに乳をあげる女性のことだろうが、すくなくとも戦後はほとんどいなくなったと思う。乳母が傘でもさしながらゆっくり、幌のついた乳母車を押す、大正ロマンの世界?
鼻紙、ちり紙: 今のテッシュや、トイレットペーパーに相当。薄く、やわらかく鼻をかんだり、トイレで使用しやすくした紙。今考えれば、薄くてもけっこうごわごわと固かったり、隙間だらけだったりした。
護美箱: 今のゴミ箱。「ゴミ」を「護美」に単に当て字したもので、昔はこの名前を町でも良く見かけた。私は昔、机の引き出し一つを「ゴミ箱」にして、万が一必要になるかもしれない書類をどんどんその中に入れていた。突然必要になると、漁って探し出す。数ヶ月して一杯になると、下から捨てる。パソコンの「ごみ箱」のように。
歯磨き粉:これは、内容が変わっても言葉がそのまま用いられている。今ではチューブ入りが普通だが、昔我が家では、歯磨きは粉末を入れた細長いプラスティックの箱に入っていた。蓋を開けて、歯ブラシを押し付けて歯磨き粉を付けて磨いた。今考えると、家族みんなで使ってたのが信じられない。
こおもり傘: 今は単に傘という。昔の洋傘は黒色でこおもりが羽をひろげたようだった。なお、じゃのめ傘など和傘に対して、こおもり傘は洋傘に属する。今でも、出かけるときに、「ちょっと!こおもり出してくれ」などと言う人もいる。(え?私だけ?)
ズボン: 今のパンツ。ズボンは現在でもまだ立派に使われています。いや、使っています。だってパンツはおかしいでしょう、下着じゃないんだから。だって例えば「半パンツ」とは言わないでしょ?
このブログ、少しペースを落とし、数日置きにしたい。じっくりやりたいことが気ぜわしくなって落ち着かず、進まないし、逆に気分的にのんびりもできないためである。
ブログのカレンダーを見て見ると、ここ数ヶ月、ほとんど毎日アップしていて、自分でも(だけが)よくやるなと感心している。
まとまったテーマなどなく、たまたま思いついたことをさっと、書き流して一日から数日寝かせて置く。翌日、調べることあれば調べて、ざっと見直してからアップする。
たいして時間がかかるわけではない。しかしながら、書き流したことが溜まっていて余裕あるときは良いが、予備がない状態で、毎日書かねばならないとなると、義務になり負担となり、自己満足という本来の趣旨に反する。
そこで、今日は、昔の呪文、口上など、未整理だが、思いついたものをあげてみたい。
地方によっていろいろなバージョンがあるようだ。以下は、東京の山の手版。
●おまじない
チチンプイプイ
痛いの、痛いの、飛んでゆけ!(これは新しいかも)
おお寒む、こ寒。山から小僧がやって来た。何て言ってやってきた。
寒いと言ってやってきた。寒けりゃあたれ。あたれば熱い。
熱けりゃ引っ込めろ。引っ込めりゃ寒い。(ローカル)
何だこんな坂、何だこんな坂!(極めてローカル)
●言葉遊び、香具師(ヤシ)の口上
(寅さん映画は口上の宝庫)
驚き桃の木山椒(さんしょ)の木
その手は桑名の焼き蛤
蟻がとうなら、みみずははたち
結構毛だらけ、猫灰だらけ。ケツのまわりはクソだらけ。
四角四面は豆腐屋の娘、色は白いが水臭い
ソーダ村の村長さんがソーダ飲んで死んだソーダ。
葬式饅頭でっかいソーダ
●ダジャレ
あたり前田のクラッカー
テクシーで行こう
そんなバナナ
●数を数える
チュウチュウ、たこかいな
どれにしようかな (天の)神様の 言うとおり
(どれにするか決めるとき)
3歳から30歳まで27年間引越しせず。その後、30年間で、5回引越しした。この後は、夫婦二人だけでもう少し便の良い小さなマンションにでも引越し、そして最後に老人ホームへ引越して最後になるだろか。
小中高大学の間に引越しがなかったのは幸いと言うべきか。私の従兄弟で小学校だけで10回転校した人がいるのだから。一生で、7、8回の引越しは、平均より多少多めといったところだろうか。
しかし、東京の西の外れ東大和から神奈川の横須賀への引越しはひどかった。
朝、近所の知り合いが集まって手伝いに来てくれた。朝10時にトラックが迎えに来るので、あらかじめ荷物を全部3階から1階に下ろし、外に並べた。
ところが、待っても待ってもトラックが来ない。業者に電話すると、話がおかしい。何を聞いても、「え?」と話が通じない。まさかとばかり、業者を紹介してくれた会社に電話すると、あわてている様子で、「もう出たはずです」と蕎麦屋の出前のようなことを言う。
手伝いに来てくれた人には帰ってもらい、ただただ待つ。何回電話しても「もうすぐ行きます」と朝より後退した返事を繰り返すのみ。何もなくなった部屋で手持ち無沙汰に寝転んだり、下に降りて入口でぶらぶらしたり、昼を越えても変化はない。
トラックがやってきたのは、いい加減待ちくたびれた午後4時。やって来た運転手はやけに陽気な男で、「やあ、やあ、お待たせ。じゃあ、行きましょうか」と言う。当時免許を持っていない私は道をしらず、「横須賀へはどう行くの?」と聞くと、「横須賀?」と言って、行き先も聞いていないようだった。
そんな調子なので、都内を大きく迂回せずに渋滞に完全に巻き込まれた。横須賀市に入ったときはすでの夜8時。しかたなく、3人の運転手の分も弁当を買って途中で食べる。
ようやく、引越し先の社宅に着いたのは夜中の1時。荷物を4階の部屋まで上げて、ともかくゴチャゴチャに放り込んだのが、夜中の2時。
10時のはずが、16時出発。普通ならまあ4時間のところ、10時間かかって夜中の2時に引越し終了。文句言う元気もなく、そのままバタンキュー。
後日、紹介会社が来て、平謝りで、小幅、いや中幅の料金減額を申し出た。それでも腹の虫が収まらなかった。あの時はひどかった。
傷痍(しょうい)軍人という言葉を知っている人は現在どのくらいいるのだろうか?ましてや、実際に見たことのある人は団塊の世代まででしょうか?
傷痍軍人とは戦傷を負った軍人のことで、日本でも大昔の日露戦争の後に大量の傷痍軍人が出て大きな社会問題となったそうです。とくに、太平洋戦争後多くの軍人が重傷となり、傷痍軍人が町にあふれました。戦後、その補償がなされるようになり、基本的には目に付かなくなりました。
胸に寄付を募る箱をぶら下げ、片足義足で杖をつき、白衣を着た傷痍軍人が、私のいる車両に入ってくると、一礼をしました。大人は黙って目を背けています。私は、子供心にもなにか重苦しいものを感じて、「あの人何?」と聞くのもはばかられました。
街角にも、手や足のない人が自らの傷をさらし、白衣を着て、アコーディオンを奏でながら、募金箱の前で頭を下げる姿をよく目にしました。私も、痛ましいと思う一方でなんとなくわざとらしくも感じたものです。後には本当かなとも思いました。
彼らは同情を集める一方で、押し付けがましい、自力更生すべきなどの議論や反発もあったようです。一方、彼らへ援助するように政府への圧力もあり、彼ら自身もハンガーストライキなど運動を行った結果、戦死軍人とともに年金が交付される「戦傷病者戦没者遺族等援護法(援護法)」が1952年、講和条約発効の2日後に成立しました。
また、次第に時代とともに忘れ去りたい不気味な存在ともなり、大部分の傷痍軍人は町から姿を消していきました。いまや、かっての傷痍軍人もほぼ80歳以上になっているはずで、少なくとも現在町で募金活動をしている人がいるとは思えません。
すっかり、昔話になっているつもりでしたが、ただ、今回調べてみて、在日朝鮮人などの傷痍軍人にはまだ戦後の補償がされていないことがわかりました。そういえば何か新聞で読んだような気もしますが。
当時、日本の領土であった朝鮮並びに台湾出身の人で、日本政府の命令に従い大東亜戦争に従軍した元日本軍人で、傷痍軍人となった者は、終戦後出身国の独立に伴い自動的に外国人となり、日本国籍がないという理由で「援護法」による障害年金の支給対象からはずされました。
また、出身国の政府も、日本の戦争協力者として援護対策を行っていないようです。
変な言い方になりますが、日本国全体から見て、そんなに量的に大きな問題でないこのような問題は、意固地になって、立場、建前にこだわらずともかく解決して、次世代に負の資産を一つでも残さないようにした方が良いと思うのですが。
学校の帰り道にはクチャクチャ噛むとガムになるとか言って麦畑で麦の穂をとった。馬糞は道によく落ちていたが、一度だけ、荷馬車をひいた馬がオシッコをすごい勢いでするのにびっくりした。
長い竹棒の先にベタベタするもの(モチアメ?)をつけてそっとトンボにくっつけてトンボを捕った。網を使うのより良く取れたがトンボの羽がベタベタして困った。
庭には大きながま蛙が住んでいてよく見かけたが、ある日座敷の真中に鎮座していたときには驚いた。そういえば、モグラの姿は見たことなかったが、庭のあちこちに土が盛り上がっていて、そんなときは地面をドンドンを踏みつけておどかしてやったものだ。
自動車があまり通らない裏道では1,2塁とホームだけの三角ベースと呼ばれる野球を良くやった。近所の家に、「すいません!ボール取らしてください!」と入っていった。
男の子はベーゴマやメンコをやり、女の子はゴムとび、石蹴りをやったいたように思う。夏には夕涼みに隣近所の大人も浴衣にうちわの格好で道に出てきた。
いつ頃からだろう、道で遊んでいる子供たちを見かけなくなってしまった。最近の、私の最近は20年前からのことだが、子供たちはどこで遊んでいるのだろう。家の中でゲーム? サッカー、水泳などスポーツや習い事? 塾?
学校教育はスパルタでやってもらっても良いが、子供には友達と遊びを工夫したり、ボケーとするゆとり生活が必要だ。スケジュールに追われ、自由度のない生活は画一的人間をつくるのではないだろうか。
皆さんの家庭で家族旅行の計画を立てるには、親父よりまず子供の予定を聞いてからにしないといけないのでは?