hiyamizu's blog

読書記録をメインに、散歩など退職者の日常生活記録、たまの旅行記など

県立公文書館を見学

2007年04月30日 | その他

神奈川の昭和史の講演会の後、普段は見られない県立公文書館の書庫を見学した。

公文書館は、県の機関が作成した公文書のうち歴史的価値の高いものを保存するとともに、
県内に現存する古文書を収集・保存し、長く後世に伝えるとともに、広く県民に公開している。

それぞれ定められた使用期間(保管期間)が過ぎた公文書すべてが県庁より公文書館へ送られてくる。年間みかん箱程度の箱で1万個になる。
この膨大な文書を基準に基づき、30年保存(永久保存という区分はなくなった)から1年保存に分類する。保存する文書は数%であり、残りの文書は特定業者に渡して溶解する。
年間1万箱とは、いまだに県庁では文書を作りすぎで、通常の会社と違うとはいえ、無駄な作業をしているとしか思えない。

古文書は、寺社や、民家から寄贈されたり、寄託されたりした神奈川県に関する文書を12万点保存している。いずれも、一般から要求があれば公開するという前提である。
これらは経済に観点で見ると、非常に効率の悪いことに思えるが、文化的に大切なことと思う。ヨーロッパなどでは何百年も前の家屋の取引記録や、教会での洗礼記録などが残されていて、いまだに大昔の偉人に関する新発見がなされることがある。文化の厚みである。


館の屋根は二重防水で、文書を保存する書庫は3,4階にある。壁は二重で、温度は22度から25度、湿度55%に保たれている。銀行の金庫扉のような分厚い鉄のドアで隔たれ、水まわり、火気や、窓もなく、紫外線カットの照明器具が使われている。収容能力は約100万冊である。

公文書書庫
歴史的公文書、神奈川県史編纂のために収集された資料を移動式書架に収蔵している。
戦前期の公文書(議会関係文書・郡役所文書)や、戦後から最近までの簿冊文書を18万点保管している。
戦前の公文書は1300しかない。これは、関東大震災や戦災のためもあるが、敗戦直後、国から破棄命令が来て、8月28日に駐留軍が来る前に県庁の地下にあった文書を破棄したためである。東京都は、当時文書が遠隔地にあったため、破棄の処置が間に合わず、結果的に戦前の文書が保存された。

古文書書庫
この書庫はコンクリートの建物の内側に全て木材が張り巡らされている。壁や天井・棚は栂(ツガ)の木、床材には堅いブナの木が使用されている。
中に木組みの棚を作り、その中に紙の箱を置いて、古文書を入れている。なかでも、歴史的価値のある重要文書は、特注の桐のタンスを作り、その中に桐の箱を置き、巻物の形で保存してある。
これは、書庫内の完全空調などと合わせて、木材の持っている特性も利用し、収蔵資料の保存にやさしい環境をつくり、カビや虫の害を防ぐためのものだ。
この書庫には、中世文書(後北条関係文書他)、幕末維新期に活躍した西郷隆盛・坂本龍馬らの書簡(山口コレクション)、県域の各地から寄託された近世古文書が収められている。

書庫の中の棚には場所が特定できる番号などが書かれたみかん箱のような箱の中に、関連するファイルが収められている。特に戦後の文書に使われた紙は傷みが激しく、黄色どころか赤色に変色しているものもある。したがって、収納する箱は中性紙で作られた特注品である。傷みの激しい文書からマイクロフィルム化を進めている。

すべての文書が、コンピュータで検索して、要求により、実物、あるいはコピーが閲覧できるようになっている。


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言葉遊び、呪文

2007年04月28日 | 昔の話

このブログ、少しペースを落とし、数日置きにしたい。じっくりやりたいことが気ぜわしくなって落ち着かず、進まないし、逆に気分的にのんびりもできないためである。

ブログのカレンダーを見て見ると、ここ数ヶ月、ほとんど毎日アップしていて、自分でも(だけが)よくやるなと感心している。

まとまったテーマなどなく、たまたま思いついたことをさっと、書き流して一日から数日寝かせて置く。翌日、調べることあれば調べて、ざっと見直してからアップする。
たいして時間がかかるわけではない。しかしながら、書き流したことが溜まっていて余裕あるときは良いが、予備がない状態で、毎日書かねばならないとなると、義務になり負担となり、自己満足という本来の趣旨に反する。


そこで、今日は、昔の呪文、口上など、未整理だが、思いついたものをあげてみたい。
地方によっていろいろなバージョンがあるようだ。以下は、東京の山の手版。

●おまじない

チチンプイプイ

痛いの、痛いの、飛んでゆけ!(これは新しいかも)

おお寒む、こ寒。山から小僧がやって来た。何て言ってやってきた。
寒いと言ってやってきた。寒けりゃあたれ。あたれば熱い。
熱けりゃ引っ込めろ。引っ込めりゃ寒い。(ローカル)

何だこんな坂、何だこんな坂!(極めてローカル)


●言葉遊び、香具師(ヤシ)の口上
(寅さん映画は口上の宝庫)

驚き桃の木山椒(さんしょ)の木

その手は桑名の焼き蛤

蟻がとうなら、みみずははたち

結構毛だらけ、猫灰だらけ。ケツのまわりはクソだらけ。

四角四面は豆腐屋の娘、色は白いが水臭い

ソーダ村の村長さんがソーダ飲んで死んだソーダ。
葬式饅頭でっかいソーダ


●ダジャレ

あたり前田のクラッカー

テクシーで行こう

そんなバナナ


●数を数える

チュウチュウ、たこかいな

どれにしようかな (天の)神様の 言うとおり
(どれにするか決めるとき)

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古文書解読入門講座受講

2007年04月26日 | 読書

博物館に展示されている達筆のくずし字で書かれた文書を見て、「読めたらなぁ…」と思ったことはありませんか?
私は高校での古文、とくに文法が嫌いだったし、これまでまったく古文書(こもんじょ)などにふれたことはありませんでした。しかし、明治、江戸やそれ以前のふにゃふにゃした候文が読めたら、自分の世界が広がるような気がしていました。近所の図書館で古文書解読入門講座が開催されていたので、出席してみました。

講座は、講師が古文書の読み方を初歩から教えながら、中世武家文書や、庶民生活、武士の生活に関する文書を読み、解説します。基礎学習であり、やさしい古文書なら読めるようになるとのうたい文句です。全6回で、一回2時間半、6回で、受講料 5,000円でした。
140名の定員を上回る人が集まり、高齢の人には人気の講座のようでした。地域の歴史に興味を持ち、旧家などに埋もれている古文書をコツコツ調べようとしている人、調べている人が多いようでした。前の席に陣取る一群の人はこの種の講習、勉強会の常連のようで、中には講師に解釈の誤りを正す人もいたりしました。

古文書(こもんじょ)とは
古文書とは、「意思伝達のために書かれ、その時代における役割を終えたもの」のようです。紙が一般的ですが、板、布など素材は問いません。
しかし、紙に書かれた古い文であっても、日記やメモ、文学作品は、古文書の範疇には入れないようです。
現存する古文書の多くは権利関係の文書です。これは、多くの文書は廃棄されましたが、権利関係文書だけが大事に保管されたためです。

古文書を読む 
まず、字を判読します。ほとんどが、くずし字です。くずし方はほぼ決まったやり方があるので、基本的な偏やつくりのくずし方を覚えると、主なものは読めるようです。
字そのものも、現代の字と違っている異体字や、略字が使われることがあります。
かな文字も現在の形とは異なる、変体仮名になる場合があります。
読めない字があってもこだわらずに先へ進むと、前後の関係、文意で読める同じ字が出てくることも多いのです。

次に、文として読み下します。
多くの古文書は漢文のような書き方になっているので、字の順をひっくり返したり、言葉を補ったりして読みます。ただし、良く使われる言葉は決まっているので、幾つか覚えれば、そうたいした問題にはならないと思います。また、文末が候で終わる候文や、句読点、濁点、送り仮名がない文が大部分です。

最後に、文意をとります。
言葉の意味が、現代とは異なっていることもあります。文書の背景、歴史、当時の風習などから補足、推測を加える必要もあります。
逆に、文意から読めない字を推定することもままあります。

読んだというか、解説を受けた文書は、以下のようなものでした。
将軍北条氏政が鶴岡八幡宮に所領の土地を守ると保証した書状、徳川将軍の日光社参と村々の負担を報せる書状、赤穂浪士事件の赤穂城明け渡しに関する忍者の報告や、東海道中膝栗毛などでした。
歴史の教科書で概要しか知らなかった当時の文化、庶民の実情を知ることができ、今まで知らなかった世界がまだまだあると思いました。

しかし、私には古文書を読むための大きな壁があることが判明しました。
まず、くずし字を解読するには漢字の書き順をしっかり知っていなくてはならないのです。ところが、私は、小学校のとき漢字なんて出来上がりが同じなら、書き順なんて関係ないと、全く覚えませんでした。漢字は手で覚えるのでなく、目で、イメージで覚えているので、いまでも、書き順はその時々で違います。行書が書けないことや、書いているところを人に見られて笑われる以外はとくに困ることもなく過ごしてきました。しかし、ここにきて、古文書のくずし字解読でつまずくこととなりました。

まだ時間は多少あります。ゆっくり、じっくり勉強しながら、私にとって新しい世界を味わってみようと思っています。



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週日、日中のスーパーマーケット

2007年04月25日 | リタイヤ生活

勤めているときには、スーパーマーケットといえば、土日に奥様の荷物運びでたまに行くだけで、たいした印象はなかった。退職して、週何回か、週日の日中に行くと、大体の配置も覚えて、幾つかの品物の値段も高い安いが判断できるようになる。

横浜駅地下のクイーンズ伊勢丹などと違って、地元のスーパーは週日となるととくに地味だ。
見渡すと、おばさんや、おばあさんが圧倒的に多い。もったりと流れていく。
あとは、ウロチョロして何にでも手を出す子供を叱りながらの普段着の30台の奥さんがほんの少々。乳母車じゃなかった、バギーを押しながら買物する若い奥さんもときどき。いずれもお化粧しているのかしてないのか、派手さは皆無だ。

昔々は「これ買ってくれなきゃイヤダー」とひっくり返って手足をバタバタさせる子供がいたものだが、たいぶ前からそんな光景は見られない。現代の子供はどうしても欲しいものもないのだろう。

メモを手にウロチョロする年取った男性が2,3人。奥さんの後を、籠を載せた車を押してついていく頭の白いポチがあちこちにチラホラ(私を含む)。品物を手にとって、籠に入れようとして、奥様に何か怒られて、ブツブツ言いながら棚に戻している(これは私ではない)。

週日、日中の地元スーパーマーケットには色気はまったくなく、哀れみがただよう。

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「沖縄(9) やんばるへ」に 以下を追加しました。

バードウォチャーのYさんから、
ついでに、道端でときどき見かけた鳥は、「イソヒヨドリ」と教えていただきました。

YさんのHP、 www8.ocn.ne.jp/~yamazaki/ の2004年9月に

沖縄の鳥見の記録と写真が掲載されています。

9月18日には、Yさん撮影のヤンバルクイナの本物の写真もあります。

http://www8.ocn.ne.jp/~yamazaki/yanbarukuina-1.htm

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日曜日の井の頭公園

2007年04月24日 | その他

吉祥寺駅から南へ井の頭通り(昔の水道道路)を越えて、流れる人波に乗って階段を下りたところが井の頭公園だ。昔はこの通りには店なんかなかったのだが、ゴタゴタして落ち着かない通りになってしまった。こんなことで、「いいのかしら」。そもそもこの公園の正式名称は、「東京都井の頭恩賜公園」だ。今日は日曜日、人の流れが絶えることがない。



池の西側のマンションが建つときには景観が壊されると反対運動があった。しかし、数十年経つともう見慣れてしまい普通の風景になってしまった。こんなことで、「いいのかしら」。(しつこい!)



日曜日は、ストリートミュージシャンが方々で歌っている。おじさんもプレスリーで頑張っていた。横浜で見たことある顔の人が大道芸をやっていた。



池にはボートが一杯。池の周囲には400本の桜の木があり、池の上に枝を広げている。桜の季節には水に花が写り、花吹雪が水面に散る。今は若葉がみずみずしい。カエデの木も多い。



池の北側に、「井の頭公園アートマーケッツ ART*MRT」と看板が置いてあり、小さな出店が並んでいる。木の葉で折ったキリギリス、コオロギが見事だ。



次の写真が何かわかりますか?



公園を東へ出ると井の頭公園駅で、下から見たガードの写真でした。



公園の池の東端の水門橋を越えたところから神田川が始まる。親子で川遊びをする姿が見られる。エビガニ釣りをしている子供が多い。夕やけ橋を過ぎると、川の両岸は高いコンクリートの壁となり、歌に出てくるあの神田川となる。

    



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介護付有料老人ホームを見学

2007年04月23日 | リタイヤ生活
自宅の近くに介護付有料老人ホームがオープンし、見学会があるとの投げ込みがあった。まだ多少(5年、10年?)早いとは思うが、何事も早め早めと、どんなところか二人で行って見てきた。

駅から歩いて8分と書いてあるが、ほぼ平坦ではあるが、10分以上かかるだろう。周辺に店はないが、閑静な住宅地で、大きな庭や、桜並木が窓から見える環境はとてもよいところだ。

母の状態がひどくなったときに、必死で老健(介護老人保健施設)は幾つか見たことがあるが、老人ホームは初めて見学した。両者ともほぼ同じような作りであり、スタッフルーム、食堂、風呂など共用スペースと、廊下の両脇に個室がずらりと並ぶ。
ここの個室は入口の片側に洗面所とトイレがあり、その奥にベッド、テーブル、椅子、洋服ダンス、整理ダンスとその上に小さな液晶TVが標準装備になっている。10畳くらいあったと思う。当然収納スペースはわずかだが、すべてを捨てて一人で住むには十分だと思う。ここの施設では夫婦部屋はないので、2つの個室を使うことになる。両者の介護程度に大きな差が出た場合には、夫婦別の部屋の方が良いとの案内してくれた方の話に、奥様は異議を申し出なかった。当然か?

唯一の、そして決定的不満は部屋でインターネットができないことだ。現時点では問題なくとも、まもなく入居する人からは要望が出てくるだろう。固定電話はなく、携帯電話を使うことになるのは良いとして、無線LANでも設置してくれれば問題ないのだが。

経営している会社はライフコミューンという会社で、首都圏に41箇所の施設があり、入居後も相談の上、施設間の移動が可能とのことであった。新しい施設ができると従来の施設から移動を希望する人がけっこういるらしい。家族がそばに居るような場合でなければ、何年かしたら新しい場所に移ったりするのも良いかもしれない。施設内の人間関係が悪くなった人が移動を希望する場合もあるそうだ。

以下、この会社の場合の費用を参考のために書く。他社の場合は知らないので、あくまで一例である。
入居金は315万円。月額は30.9万円で、内訳は施設利用費11万円、管理共益費5.25万円、食費6.3万円、運営費8.4万円だ。このほか、介護保険適用の人はその自己負担分(1割)や、買物代行、外出介助など追加サービス料金が必要になる。
入居時に例えば315万円のほかに648万円(6年分)を前払い金として収めれば、月額は21.95万円になる。この場合は、6年経過後も21.95万円のままで良いし、6年以内での途中退去の場合は残額が返還される。

途中で病院に入り、また戻る場合は、食費を除いた月額を入院中も納めないといけない。

まあ、いろいろなケースを考えるときりがないが、選択肢は少しでも大きくしておきたい。子供の住所、夫婦どちらかの入院などの際には施設間を基本的には移動できるシステムは魅力的だ。

特に介護が必要なくいざというときに駆けつけてくれる高齢者向けマンションや、プールやフィットネスなどを揃えた高級介護付き施設、あるいは病院と一体の施設などいろいろなバリエーションがあるようだ。もっと勉強してみたい。
それにしても、今後、早めの判断、見切りができるかどうか、自分達のことながら楽しみではある。


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「死の棘」を読む

2007年04月22日 | 読書
私小説の傑作との評判から以前から読んでみたいとは思っていたが、とりわけ暗く惨めな私小説らしいので躊躇していた。しかし、以下のニュースを見て、図書館で島尾敏雄「死の棘」新潮社発行を借りて読んだ。

―――――――――
死の棘」モデル・島尾ミホさん、死去
 作家、島尾敏雄(1917~86年)の妻で、代表作「死の棘(とげ)」のモデルになった島尾ミホ(しまお・みほ)さんが25日夜、脳内出血のため鹿児島県奄美市の自宅で亡くなった。
87歳だった。告別式の日程などは未定。喪主は長男で写真家の伸三さん。
鹿児島県生まれ。太平洋戦争中、同県加計呂麻(かけろま)島で小学校教員をしていた時、海軍の特攻隊長として赴任した島尾氏と出会い、終戦の翌年結婚した。
島尾氏が60年に発表した「死の棘」は、夫が愛人を作ったため、嫉妬(しっと)と憎悪に狂う妻の姿を赤裸々に描いた私小説的な作品で、極限の愛の物語としてベストセラーとなり、映画化もされた。夫の死後、ミホさんは終生喪服を着続けたことでも知られる。また、作家としても活躍し、短編集「海辺の生と死」で田村俊子賞。
(2007年3月28日14時42分 読売新聞)
――――――――――

夫の「情事」のために妻が突然神経に異常を来たす。延々と続く狂気の妻の非難と尋問、暴れと狂いの記録である。憑かれたように夫の過去をあばきたてる妻、ひたすら詫び、許しを求める夫。出かけることもままならず、生活は困窮を極める。
悲惨でうんざりし、またかまたかの連続に飛ばしながら読んだ。描写はリアルで、夫婦の極限でのやりとり、心理も良く書けているが、これが文学なのか?

ちょっとした言葉尻、思わず出てしまう愛人への未練やあいまいな態度を鋭く妻に突かれる。精神に変調をきたしているはずなのに、追及は鋭く、妻の追及におどおどする夫。なにもやましいことがない(?)私の心をもなんとなく不安にさせるほどだ。

全部捨てたと言いながら、彼女の写真や手紙を一枚だけ残して置くような夫の未練。自分もおかしくなったように装い、自殺する振りをする。そのうち、自分でも混乱する男のずるさ。

夫婦が争い、妻の狂気が出現すると、子供達、伸一、マヤもおかしくなり、一瞬夫婦が平穏に戻ると喜んで飛び跳ねたりする。この子たちは大丈夫か、心配になった。しかし、島尾伸三(伸一)は写真家となり、同業の潮田登久子と結婚して、娘は漫画家の「しまおまほ」になっているのでハッピイであった。 http://www.catnet.ne.jp/usimaoda/ 

この小説には出てこないが、二人の出会いはあまりにも美しかった。

二人の出会いと「死の棘」まで
海軍震洋特攻隊の隊長として奄美群島加計呂麻島に赴任してきた青年将校島尾敏雄は、琉球南山王の血をひく旧家の娘トエ(ミホ夫人のこと)と運命的に出会う。45年8月13日に発動命令が下る。が、島尾隊長が特殊潜航艇震洋で出撃し、島尾隊長の船が出て行ったらトエはそのまま海に入ってしまおうと懐剣をにぎりしめている。島尾隊長は発進命令がないままに15日の敗戦を迎える。
のちに、「純文学の極北」と謳われた島尾敏雄と、田村俊子賞作家で歌人の大平ミホである。敏雄は、戦後神戸でミホと結婚し、昭和27年、作家を志し家族とともに上京する。二人の子供を抱えた困窮の生活ではあったが、着々と作家としての地歩を築きつつあった。しかし、敏雄の不倫がもとで、ミホが神経に異常をきたしたのである。

死の棘日記
かつて50万読者を震撼させた小説『死の棘』は、夫の浮気の露見から書き起こされ、凄絶な諍いの果てに、妻が夫に伴われて精神病院に赴くところで終わる。しかし、この日記はさらに精神病棟内でのむごたらしい生活を克明に記録し、二人で妻の故郷に落ち行くところまで続く。

映画化
小栗康平監督、松阪慶子と岸部一徳が出演し、カンヌ映画祭で「グランプリ・カンヌ1990」「国際批評家連盟賞」をダブル受賞した。


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沖縄(10) まとめ

2007年04月21日 | 観光

沖縄の物価、とくに野菜類は確実に本土より安い。地元の人に安いと聞いた名護市の58号沿いの「ファーマーズ・マーケットやんばる」で食料品を調達した。ここは近くの農家が出店しているせいもあるが、短期滞在には量が多すぎるものが多い。熱帯魚みたいな赤と黄色の魚がトレーに入ったりしている。野菜も見たことも聞いたこともないものもあり、いずれ少しづつ試してみたいものだ。
帰宅後、横浜駅前で沖縄特産物を売っていた。名護市のこのマーケットで、350円で買った海ぶどうが800円、あおさ(海草)500円が900円だった。

    

4月15日に那覇空港から羽田に帰った。那覇空港はけっこうにぎやかでとてもローカル空港とは言えない。沖縄そばの店に入ったが、壁にかかる絵に網がかかっていた。沖縄の現状を表現しているのだろうか。

    

日本全国どこに行ってもあまり変らなくなって地方独特の風土が感じられなくなった昨今、沖縄にはまだまだ独特の文化が色濃く残っているように感じる。沖縄には歴史的経緯から本土とはことなる衣食住文化があり、今回はわずか一週間だったので、十分経験できなかったが、気が付いた範囲で幾つか書いてみたい。

昔の沖縄の住宅は、赤瓦の屋根、家の回りのフクギ、高く積んだ石垣と、石積みや、植木で玄関を隠すヒンプが一般的だった。しかし、戦後は、コンクリートで、平屋根のアメリカ式住宅が主流になっている。

お土産屋に必ずある魔除けのシーサーの語源は獅子で、シーシから変化したといわれている。口を閉じたものと口を開けたもの、いわゆる阿吽(あ・うん)を対にした、狛犬の像として神社に置かれていた。昔は屋根に置かれたシーサーをよく見たが、今回は門柱の上に置いてあるものを幾つか見た。



沖縄の代表的な郷土料理(ジューシー、ラフテーなど)や、チャンプルー料理などは、琉球王朝時代の大陸文化、特に中国の影響を受けているといわれている。
ラフテーとは、酒の代わり泡盛を用いる沖縄風の豚肉の角煮で、ジューシーとは、雑炊とか炊き込みごはんのことで、たとえば「フーチバージューシー」とはよもぎの雑炊です。チャンプルーとは、沖縄の固い豆腐と、その他いろいろなものを混ぜた炒め物です。
また、いまでも、おめでたいことがあると、山羊(ヒージャー)を食べる習慣が地域によってはあるようだ。

花粉症が発症しにくい
スギ花粉飛散がピークを迎える2~4月を沖縄で過ごす人がここ数年増えているという。花粉症の主原因の杉が沖縄にはほとんどないだ。沖縄には元々杉は自生していなかった。復帰後に初めてスギの植林が本格化したが、気候や地形が適さず、今やスギの木はほとんどない。
また、周りが海に囲まれているため、海から吹く風によって花粉が海へ運ばれ、人体への影響が少なくなるらしい。
花粉症に悩む人は、沖縄にしばらく滞在すると症状も緩和されるので、沖縄滞在はおすすめです。

今回の沖縄旅行は、奥様のお気に召したので、また、来年もポチ(私)をつれて沖縄に行くことになるでしょう。6月から2箇月バンクーバーで、いずれパース、スイスと忙しいことです。




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沖縄(9) やんばるへ

2007年04月20日 | 観光
今回の沖縄旅行は一週間だけだったので、那覇、首里、南部へは行かず、伊江島と本部町近辺をちょろちょろするだけだった。北部のやんばる(山原)と呼ばれる野卑あふれる森の中や、比地大滝の川の中のトラッキングなどは魅力的だが、頑張らないと趣旨貫徹した。せめてもと、やんばるの海岸沿いを車で走ってみた。

国道58号をただただ北へ走り、本島北端の辺戸岬(へどみさき)へ着く。崖の上から打ち寄せては砕けて引く波を見ているとあきない。崖の際まで近づいて下が覗ける。高いところは大好きだが、やはりぞくぞくする。2時間ミステリードラマの最後の場面のように、おもわず犯行を告白、動機を説明したくなる?? 一枚目の写真の崖上に2人の人がいるのがわかるだろうか。
ここは主要な崖っぷちには柵があるが、他のところには柵はなく端の端まで行くことができる。オーストラリアのように自己責任に任せる姿勢は良いんじゃないかと思う。

        

岬の駐車場の手前にコスモスが群生していた。その分かれ道を岬と逆に行くと、ヤンバルクイナ展望台へ行ける。遠くを眺めると、なんと、ヤンバルクイナ(国指定天然記念物)が山腹に見える。

    

いくらなんでも大きすぎると思ったら、展望台の屋根だった。申し訳ないので、やんばる野生生物保護センターでの本物のヤンバルクイナの模型をご紹介。ヤンバルクイナは1981年に日本で約60年ぶりに発見された新種の鳥です。



ついでに、道端でときどき見かけた鳥の写真も。



帰りがけに、「辺野喜川(べのきがわ)沿いにダムまで一本道。途中の渓流の美しさにはびっくり」に引かれて58号を左折して辺野喜ダムへ寄った。車から顔を出した限りでは、木の葉に隠れて渓流は見えなかった。ダムの看板には「このダムは全国的にも珍しい重力式コンクリートダムとロックフィルダムの複合形式です」とある。堤長の230mが前者で、330mが後者と約半々で作られている。写真の奥がロックフィルで、手前が重力式コンクリートだ。



しばらく走って、大宣味(おおぎみ)を過ぎて、「道の駅おおぎみ」に立ち寄った。地元で作ったものが並べてあり、本土では見かけないものも多く、眺めているだけでも楽しい。野菜はとくに安い。桁違いの大きさの大根が100円だ。



ホテルに帰る前に、本部町の西北端にある備瀬のフクギ並木に寄った。一般民家の間の車も通れないような細い道の左右にフクギ並木が続く。






バードウォチャーのYさんから、
ついでに、道端でときどき見かけた鳥は、「イソヒヨドリ」と教えていただきました。

YさんのHP、 www8.ocn.ne.jp/~yamazaki/ の2004年9月に

沖縄の鳥見の記録と写真が掲載されています。

9月18日には、Yさん撮影のヤンバルクイナの本物の写真もあります。

http://www8.ocn.ne.jp/~yamazaki/yanbarukuina-1.htm
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沖縄(8) ナゴパイナップルパークと海中遊覧船

2007年04月19日 | 観光

「パイナップルが食べ放題」との案内に釣られて、国道58号から県道84号経由で「ナゴパイナップルパーク」へ行った。入口には観光バスが一杯。



パイナップルを屋根に載せた車が自走して案内を聞きながらパイナップル畑の中を行く。花や椰子の道もある。

            

車を降りると、貝の博物館があった。葉山のしおさい公園の貝の博物館にも匹敵するさまざまな貝殻を集めている。世の中には、魚も植物も貝も考えられないほど奇妙なものが存在する。一つだけご紹介。

カイロウドウケツ(偕老同穴)は、繊細なガラス細工の筒のように見えるが、深海の海綿動物の一種だ。この中にメス、オス一対のドウケツエビが共生し
、一生この籠の中で過ごす。「この世に生きる間は一生仲良く同じ家に住み、共に歳をとって死んだ後も同じ墓に眠る」という「偕老同穴」という中国の故事に由来する縁起物になっている。英語名は、Venus’s flower basket ビーナスの花かご。



引き続き、パイナップルジュース工場から、各種売店が出口まで続く。パイナップル売場の前に1cm角ぐらいのパイナップルがあり楊枝でつまめるようになっている。これが「パイナップル食べ放題」?
次に、1ccくらいのカップがあり、3種ほどのパイナップルワインが試飲できるようになっている。これがワイン飲み放題。


海中遊覧船
本部港から海中遊覧船に乗った。本部港から瀬底島へ渡る橋を見ながらポイントへ進む。瀬底島の崖は水面のところがえぐれているのが見える。

     

船は船底の側面がガラス窓になっていて、海底のサンゴや熱帯魚がよく見える。

    

海底に張ったもずくを養殖している網が見えた。





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沖縄(7) 古宇利島と今帰仁城跡

2007年04月18日 | 観光

沖縄で一番きれいな海だからと地元の人に勧められて古宇利島へドライブしました。

古宇利島(こうりじま)は沖縄本島の中央あたりにある名護市の北側の今帰仁村(なきじんむら)にあります。沖縄県国頭(くにがみ)郡今帰仁村古宇利島は、面積3.1平方キロ、周囲7.9km、人口350人の小さな島です。
2005年2月、通行料金無料の橋としては日本一の長さの全長1960mの古宇利大橋が開通しました。

古宇利島へは、国道58号の羽地大橋を渡って110号へ左折し、奥武島を経て屋我地大橋を渡り、屋我地島を通り抜けて、古宇利大橋に入ります。



古宇利大橋の両側の海は、見事なエメラルドグリーンで吸い込まれるような美しさです。当日は曇っていたのですが、それでも透き通るようなさわやかな水色の海でした。橋も優美な姿をしています。橋の建設前後で美しい海の色が変らなかったことが、建設した会社の自慢だそうです。写真では暗い色になっていますが、実際はあざやかなエメラルドグリーンでした。

    

観光客の車は島の周回道路のみで、島中央部には住民以外は入ってはいけないのですが、橋を渡ったビーチで案内の紙を配っていたCAFÉ フクルビに行きました。橋が一望できる別荘を改築した宿、レストランで、庭にはディゴが咲き始めていました。
ディゴは初夏に真紅の花が咲くマメ科の落葉高木で沖縄県花に指定されています。ディゴの花が良く咲くとその年は台風が多いと言われています。

    

この古宇利島は沖縄北部では外せないポイントだと思います。

今帰仁城跡(なきじんじょうせき)
13世紀ごろに作られ始めた城跡で、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」と看板のあるように世界遺産に登録されています。グスクとは城のことです。本部町(もとぶ)の505号線から南に入ったところにあります。

    

正門左側の石積みの城壁は大隈(ウーシミ)と言い、戦時に備え馬を養い、兵馬を訓練した場所で、最も高い石垣が築かれています。主郭(本丸)から裏に降りるところには木組みが作られていました。

    

なお、駐車場手前には城から出土した陶磁器などを展示した今帰仁村歴史文化センターがあります。





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「定年ちいぱっぱ 」を読む

2007年04月17日 | リタイヤ生活

沖縄旅行報告をまた1回パスして読後感想。
小川有里 「定年ちいぱっぱ」 副題「二人はツライよ」2005年毎日新聞社発行を読んだ。

2007年から始まる大定年時代の重要課題、「自立夫育て」の摩擦と冷戦の日々の記録である。
定年後ぐうたらする夫に対する妻の教育法と、対抗する両者の駆け引きが参考になる。

著者は、1946年高知県生まれ。介護雑誌などのライターを15年続けた後、現在はエッセイスト、ショートショート作家。

定年亭主がお昼時、おはしをぶらぶらさせながら待っているのを見ると奥さんの血圧があがる。
「明日から昼は自分で作って洗って」とシノコノ言う夫に宣言する。翌日からインスタントラーメン作成法の伝授が始まる。この調子で、「別室で寝る」、「電話を取る」、「掃除をする」、「昼間、夫は2階、妻は1階に」と消極的抵抗を乗り越え、手を変え品を変え、しつけていく。食べるのが簡単だからバナナが好き、のどが渇いても自分でお茶を入れるくらいなら我慢をするという大変なモノグサ夫を教育していく(私に言わせれば普通でモノグサではないが)。

妻が「ちょっとクリーニング屋へ」と言えば、「僕も」という。どこへでも付いて行きたがる。これをポチ化と言う。昼下がりのスーパーへ行くと、おばさんと頭の白いポチが何組もいる。
夫の定年後も今までの行動を変えるつもりはない妻も多い。現役の夫は定年退職しても妻に遊んでもらえないことを覚悟して、今から「ボクちゃん、一人で遊べるもん」というものを沢山見つけておくことを著者は勧めている。

厳しい競争に耐え、ようやくハッピーリタイヤーにこぎつけたあなたを待つ現実はこのようなものなのです。

私が思うには、厳しいことを言う奥さんはかえって扱いやすい。この本の著者もそうだが、本当は心優しいのに、そうであってはならぬときついことを言っている場合が多い。
妻の厳しい言葉や皮肉にはけして反抗することなく柳に風と受け流し、面白そうなことは機会をみて始め、気が向かないことは多少の改善と哀れっぽさの演出で、敵のやさしさに付け込むのがよいと学んだ。料理、洗濯、掃除など多少出来ても下手を演じ、あきらめと同情を誘う手だ。ただし、やりすぎて決定的なことにならない程度に。

我奥様はけしてきついことは言わないのだが、考えていることは分かるし、ときどき本音がうかがえる。このような場合こそ、対処法が難しい。この本のだんなさんほど私のぐうたらぶりはひどくないが(あくまで自己評価だが)、大なり小なり似たところは探せばあるだろう(探さなくても?)。すべてを心にストレスとして溜め込む心優しい奥様への対処法が知りたい。もちろん、私自身は楽チンでぐうたらしたまま、なんとかしたいのだが。


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沖縄(6) 伊江島

2007年04月16日 | 観光

予定外だが、ひょんなことから沖縄の離島の伊江島に一泊した。

そもそもは、バンクーバーで知合った人から沖縄の人を紹介され、地元の人しか知らない寿司屋でご馳走になってしまった。その人から伊江島で民宿をやっている人を紹介された。知人、知人、知人と輪がつながって、せっかくの機会なのでホテルはそのままで途中、離島での一泊を経験することとした。

伊江島は沖縄本島の北部、本部半島の北西約9kmの洋上に浮かぶ南北3km、東西8km、周囲23kmほどの離島だ。南には美しいビーチが広がり、北海岸は高さ60mの断崖絶壁が続く景勝地だ。島の中央やや東よりに標高172mの城山(ぐすくやま、通称伊江島タッチュー)がそびえ、起伏のあまり無い地形に城山だけが目立つ特徴的な形をしている。下の写真は、本部から瀬底島へ渡る橋をフェリーがくぐるときに見た伊江島だ。



フェリー
本島の本部港と伊江港を日に4-5便、村営の伊江島フェリーが約30分で結ぶ。大人往復1,110円。このフェリーは車の出入り口が一方向なので、乗り込むときにバックでフェリーに入れないといけない。女性には脅威だ。米軍のトラックもこのフェリーに乗り込んでいた。伊江港はやたらと立派な建物だった。


 

島では、葉タバコ、菊、落花生などの栽培や、高級牛の伊江島牛の畜産を行っており、沖縄の他の離島に比べれば、比較的豊かと聞いた。人口約5千人。

我々が沖縄を離れる日、4月14日に伊江島一周マラソン大会が行われたが、道路が水没するほどの大雨だった。参加した方はご苦労さま。

飛龍庵
急遽泊めてもらった民宿は、飛龍庵といい、北海道から伊江島に移住してきた気さくで楽天的な千葉さんがやっている素泊まりの宿だ。
ログハウスのようにすべてが無垢の木で出来たおもむきある開放的な家である。素泊まりなので台所用品は完全にそろっていた。3人はゆうゆう入れる岩風呂があり、窓を開ければ海が見える。目の前の見晴台から見た港の写真ではっきり分かるように、庭から見える海の色はまばゆい水色だ。庭には石灰化したサンゴを敷き詰めてある(進行形)。
港から歩いて5分くらいだろうか。歩いて数分にところになんでもそろうJAのスーパーとコンビニがある。
今までは知合いに紹介された人しか泊めなかったそうだが、これからホームページでも作って宣伝するとのことなので、了解を得て、このブログで本邦初公開とする。のんびりするには最適な宿だと思う。
飛龍庵 郵便番号905-0502 沖縄県伊江村東江前 阿良639-2
    千葉春美 TEL: 090-8271-3593

        
                    

バイオマスエタノール・テストプラント
サトウキビ工場の跡地にサトウキビからエタノールを作る実験工場があった。バイオマス燃料は化石燃料を利用せずに植物資源から生産されるため、地球温暖化対策として注目されている。ブラジルと米国が促進しているが、日本でもガソリンに3%だけエタノールを混ぜて良いことになったので、アサヒビールがバイオ技術を応用して資源循環型で、かつ高効率の製造プロセスを実用実験中だ。年間30トンのサトウキビを収穫し、砂糖約2トンとバイオマスエタノール約1キロリットルを製造する。



リリーフィールド公園
島のシンボルであるテッポウユリが100万本以上植えられている。まだ少し早かったが、4月21日からは「ゆり祭り」が開催され大変な人出となる。純白のじゅうたんを敷き詰めたようになるようだ。



湧出(ワジー)
崖上の展望台からの眺めは、60mほどの断崖がつらなる絶景だ。崖下まで降りて行くことができ、そこは地下水が湧く水源地になっている。かっては、各家庭の雨水タンクと並ぶ重要な水源であった。現在はコンクリートのポンプ室が作られ米軍基地に供給されている。初心者でも楽しめるダイビングポイント、シュノーケリングでも楽しめるポイントとしても有名だ。ただし、潮の干満には十分注意する必要がある。

    

使われていない滑走路
米軍がいざと言うときには使用するという補助飛行場はただ広く長い道路になっている。伊江島空港はこれとほぼ並行する形で別の滑走路を持っている。写真の左にある白い筒状のものは、牛に与える草をまとめて保存するためのものだ。太平洋戦争時の歴史については最後をごらんください。



ニャティア洞
戦時中多くの人が艦砲射撃や空爆から避難したことから千人洞(ガマ)と呼ばれる。写真右手前の丸石は持ち上げると、子宝が授かるし、妊婦が持ち上げて軽いと感じれば男の子が生まれると言われている。前の海辺の色は明るい空を写してdeepskyblueと言うのだろうか、透明感あり、しかも輝くような水色だった。膝まで水につかり、気持ちよさにここでのんびりしたいと思った。すぐ東にあるGIビーチもはだしで砂浜を歩くと足の裏が刺激されて心地よい。沖縄の浜は石灰化したサンゴや、貝による白浜だ。



資料館
私設の伊江島古民具資料館と、反戦平和資料館を見学した。
前者は駄菓子屋の缶など「あった、あった」と懐かしくなるような物から、あらゆるものを集めている。写真は、戦時中の訓練用の木製銃剣だ。こんなもので砲弾の嵐に対抗しようとは。
後者は戦争の残酷さと戦後に反戦の戦いの記録品をただただ並べてあり、引き継いでいかなくてはならないが、若い人にはとてもプラスの影響を与えることはできない展示だと思った。1954年の米軍と話すときの心得として、「手に何も持たないで座って話すこと、短気、悪口、ウソを言わないこと、不幸な土地問題が起きたのは日本が仕掛けた戦争の結果でもあり米国民を不幸にするようなことはつつしむこと」など自制の態度が見える。このような考え方が長期間、闘争を継続できた原因だと思った。

    

アダンの葉
アダンの葉を裂いて、加工して、織って、昔はパナマ帽、手提げ鞄、ぞうりなどを作っていた。畳がなかった時代は、沖縄の各家庭で板の間にアダンのゴザを敷いていた。今は、その技術も消えようとしている。飛龍庵ではこの編み機を作って、技術を継承しようとしている。

    

タバコの花と電飾菊
主要生産品のタバコの葉は高く売れるが、農薬を多量に使用する。写真の花も葉に栄養を集中するために摘まれてしまう。また、ビニールハウスで栽培されている菊は、成長を抑え時期はずれに開花させるために夜に電灯をつけるので、電飾菊と呼ばれる。夜は異様な光景になるらしい。いずれも多額の費用を使って高額な収入を得る非エコ産業が行われている。離島で、いや離島だからこそ、なのだろうか。

城山(ぐすく)
島の東側中央にそびえる標高170mほどの岩山で、島の第一の聖地であり、車で中腹まで行き、そこから10分ほどキツーイ階段を上って頂上に着いた。翌日はなんともなかったが、翌々日に膝にきた。
頂上からの360度パノラマ展望は絶景だ。パッチワークのような畑が広がる。頂上の石版には、「昔、伊江島にいた大男のタンナーパが隣村との戦いで城山に登り敵に大きな石を投げて退散させた。そのときの踏ん張った足跡が残った」とある。

    

すぐ下での大規模工事は、地下に水を貯めるタンクを設置する300億円の公共事業だ。地元業者では対応できない規模の事業の、金額だけが喧伝されるが、対沖縄、対離島の公共事業は有効なのだろうか。



軍基地
島の西側にあり、一時よりは減少したがまだ島の面積の3割以上を占めている。
賛成も反対も複雑な事情がある。借地料をもらって本島や本土に住んでいる人。米軍は基地の周辺の土地をいざというときのために確保している。この予備の土地を貸して借地料をもらいながら、畑を耕している人もいる。借地料を値上げするために基地反対を唱える人もいる。

歴史
この項(歴史)は、「Come in 伊江島」: http://homepage1.nifty.com/IE-island/ から抜粋させていただきました。

1942年-44年、日本軍は一日2500人もの人海戦術で伊江島に全長2kmほどの2本の滑走路を持つアジア最大の飛行場を建設した。
しかし、44年から45年にかけ、米軍の爆撃により滑走路も被害を受け、
日本軍は米軍による占領に備えせっかく完成した滑走路を破壊する。

1945年3月、島の周囲の海は米軍軍艦に覆い尽くされ、空爆と艦砲は約3週間にも及び、1平方メートルごとに一発落ちた計算になる爆弾は島を完全に叩きのめした。4月16日から始まった上陸作戦により、年齢男女を問わず島民を動員した竹槍や爆弾を抱えた特攻、集団自決により島は地獄となった。4月22日、約5千人の犠牲者を出し戦闘集結した。沖縄における終戦記念日が6月23日であるように、伊江島では4月22日こそが「終戦記念日」といえる日である。




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沖縄(5) 海洋博公園3 人工尾びれのフジ

2007年04月16日 | 観光

海洋博公園には、沖縄美ら海(ちゅらうみ)水族館があるが、別にマナティー館、ウミガメ館、オキちゃん劇場(イルカショー)とイルカラグーンがある。

マナティーはジュゴンの親戚で、草食だ。次々と投げ入れられるレタスを、ヒレを使って口に押し込んでいた。

    

隣のウミガメ館には多くの種類のウミガメがいた。骨格が面白い形をしている。

    

オキちゃん劇場はイルカショーの時間でないのでパス。隣のイルカラグーンに行く。イルカが自分達で勝手にどんどんジャンプしている。飼育員がプールサイドに来ると、ジャンプした後で、頭を出して餌をねだる。



ジャンプできない一匹のイルカがいる。良く見ると尾びれがない。
その無くなった尾びれの部分に飼育員が消毒をし、次に人口の尾びれをねじ留めした。イルカはすぐにジャンプして、飼育員のところに行って餌をねだる。

    

近くの売店にこの人工尾びれプロジェクトの説明パネルがあった。
バンドウイルカの「フジ」は病気で尾びれの先端から壊死がすすみ、手術で尾びれの75%を切除した。これによって、フジは十分に泳げなくなり、体重、コレステロールが増加してしまった。そして、人工尾びれプロジェクトがスタートした。

動物は身体に異物を付けられるのを大変嫌がるため、小さなものから徐々に大きくしていった。人工尾びれを改良しつつ、フジにも使いこなせるように訓練、リハビリを繰り返した。そしてついに、仲間のイルカと並んで泳ぎ、ジャンプできるようになった。






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村上隆「芸術起業論」を読む

2007年04月14日 | 読書

沖縄旅行報告を一回休んで、読書感想を。

一億円で作品が売れる村上隆の「芸術起業論」幻冬舎発行を読んだ。
村上隆はTVなどメディアにも出ているので、「高く売れなきゃ芸術じゃない」みたいな考え方は知っていたが、この本を読むと、たしかに何億円もの金が動く欧米の美術界はビジネスの論理で動いており、一方、日本の美術界はデッサン技術と、建前だけの閉じこもり世界と思えてくる。
話しはあちこちに飛び、繰り返しも多いし、これでもかとばかり、ストレートに刺激的な語り口は露悪的とも思えるが、日本と世界について考えさせられる刺激に満ちた本である。

口絵に27の作品の写真がある。いまさらながら、村上さんの作品には、漫画、オタク・フィギュア、球体が見られるが、芸大初の日本画博士の面影はない。

芸術で起業するということ
日本の芸術は欧米の芸術のルールを踏まえていない。日本のやり方ではアーティストは学校の教師にしかなれない。アーティストも一人の社会人であり、継続するのは時間も金も必要なのだ。
欧米の芸術には、あいまいな好み、感動は求められていない。知的な仕掛け、ゲームを楽しむための美術史における文脈と、それを知らしめる腕前、仕組みや営業が必要である。ブランド化戦略を持つビジネスなのだ。それにより、欧米の超金持ちが多額な金を支払って購入し、美術館へ寄付するのだ。業界構造を知らなければアーティスト生き残れない。

芸術家は、技術より発想に力を注ぐべきだ。価値を生むのは才能よりサブタイトルなのだから。作品がそれほどよくなくてもゴッホのようにそこにドラマが付加されれば生き残ることができる。芸術というわけのわからないものを、感性で済まさずに論理で説明する能力を要求される。
天才が偶然作るものよりも、凡人が集団で製作した現在の人、社会とコミュニケーションできるさまざまな仕掛けを組み込んだ作品が認められるのだ。

村上さんは30歳でアメリカに渡り、どうしたらいいか分からずに落ち込んで、漫画を読んで、アニメを模写していた。そこから道が開けた。日本へ戻りフィギュアを作ってもらうために拒否され、利用されても粘ってどうにか不満足なものを作ってもらえた。我慢知らずな、ぐーたらな人間がアートな世界には多すぎる。


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