hiyamizu's blog

読書記録をメインに、散歩など退職者の日常生活記録、たまの旅行記など

井之頭公園の桜を偵察

2017年03月30日 | リタイヤ生活

明日の花見のために井之頭公園の桜を偵察した。

公園に入ると、週日の13時というのにビニールシートが並び、結構な人出だ。

しかし、七井橋手前の桜は、こんな状態で花はほとんど見えない。

例年なら左右の桜の花が池にのしかかっているのに、このありさま。

ボート乗り場そばの桜は2分咲き?

池東端の水門橋近くの桜だけが結構咲いていた。

ちなみに、昨年の3月31日は、以下の写真のように満開だった。

武蔵野市の桜祭りの4月2日には満開になるだろう。



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3月の花

2017年03月25日 | リタイヤ生活

月2度届く季節の花

昨年3月上旬の花

近くで見ると、ルスカスの葉の真ん中に何かついている。

よくよく見ると、葉の裏側にも。

どの葉にもあるわけではないが、たいていの葉にはついている。

虫ではないようで、いい加減な私はここまでで追及を中止した。

今、ネットで調べると、ルスカス(ルスクス・ヒポフィルム)の葉のように見えるものは枝が変化した葉状枝で、そこから花芽が出ているらしい。知らなかった。この後、どうなったか、残念にも不明。


昨年3月下旬の花


今年3月上旬の花



今年3月下旬の花

黄色いチューリップに緑の縁?がく?


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1月、2月の花

2017年03月24日 | リタイヤ生活

月に2回花を届けてくれるサービスに加入している。

昨年の1月上旬の花


昨年の1月下旬の花


昨年2月上旬の花


昨年2月下旬の花


今年 1月中旬の花


今年 1月下旬の花

下旬になると、菜の花が伸びて、アカメヤナギの芽が少々膨らんだ。


今年 2月上旬の花

1月下旬のアカメヤナギが殻を破り、白毛を現した。


今年 2月下旬の花





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中川恵一『がんと患者の物語』を読む

2017年03月23日 | 読書2

 

 

中川恵一著『専門書が伝えない がんと患者の物語』(新潮新書508、2013年2月発行)読んだ。

 

いざという時でなく、平常のときに、がん、病院、医者のことを冷静に学んで欲しい。お金の問題、医者とのつきあい方、放射能のリスク、検診の落とし穴を物語仕立てで語る。

 

第1話 直腸がんの佐々江さんは余命と治療費を考えた。

 

日本のGDPに対する医療費の割合は8%。米国の16%の半分で先進7ヵ国の最下位。医師の数も最下位。

 

「抗がん剤」は、細胞分裂が盛んな細胞により強く作用します。そのため、がん細胞だけでなく、骨のなかで血球を作る骨髄や、小腸の粘膜など、次々と新しい細胞を供給する組織の細胞は、抗がん剤でダメージを受けやすく、「吐き気」や「下痢」、「白血球の減少」などの副作用が起こります。

抗がん剤で減少した赤血球、血小板は輸血で増やせるが、輸血では白血球を増やせないので、薬剤G-CSFの注射で増やす。

 

第2話 小児がんの子を持った夫婦はどこに希望を見出したか?

 

小児がん全体の「約7割」は治ります。・・・「抗がん剤」や「放射線治療」が効きやすい。

 

第3話 放射能リスクを冷静に考える。

第4話 放射能リスクを再度冷静に考える。

セシウムは体内に取り込まれると全身の細胞にほぼ均等に分布する。また、尿で排泄されるので、乳児で9日、9歳児で38日、30歳で70日、50歳で90日経つと半分になる。

 

100ミリシーベルト以上被ばく(累積)すると、がんで死ぬ危険性は0.5%高くなる。200ミリシーベルトで約1%。

 

毎時1マイクロシーベルトの場所でも、100ミリシーベルトに達するには11年以上かかる。

 

食物からは年間約1ミリシーベルトの「内部被ばく」を受けている。

 

日本の自然被ばく量は年間2ミリシーベルト。

 

原爆の死者のほとんどが、爆風と熱線によるもの(爆心地の温度は3千度)。4シーベルトの放射線を浴びると、半分の人が死ぬが、皮膚の温度はほとんど上がらないので火傷はしない。

 

100ミリシーベルト以下の被ばくによる影響は不明だが、線量が増えるとともに発がんが増えると想定する「直線しきい値なしモデル」が国政的考え方。

 

ハーバード大学の調査で、がんの原因の3割がタバコ、3割が「不適切な食事」。遺伝要因は5%、食品添加物は1%未満。

 

高齢になれば、ほぼ全員が小さな甲状腺がんを持っている。問題は「がんがあるかどうか」ではなく、「がんで死ぬかどうか」。

 

 

第5話 甲状腺がんの由香さんは検査に戸惑った。

検診に不適ながんや疾患(甲状腺がん、前立腺がん、脳ドックなど)があり、検診することでかえって要らぬ不安感をいだく結果になったり、医療側の拝金主義の餌食にされたりする場合もあるということです。

 

第6話 子宮頸がんの裕美さんは原因に思い悩む。

第7話 ナースたちは医者とのつき合いかたを議論する。

 

コラムでは、大沢親分、天皇陛下、スティーブ・ジョブズ、忌野清志郎、桑田佳祐のがんなどについて語る。

 

初出:「週刊新潮」連載の「がんの練習帳」の2010年~2012年から抜粋、再構成した。

 

 

私の評価としては、★★★★(四つ星:お勧め)(最大は五つ星)

 

がんについては、一般の人が誤解や、バランスを欠いた理解をしている点について、わかりやすく事実を説明していて、お勧めだ。

 

放射能の害については、私は著者の「福島原発の放射能リスクは心配いらない」という主張が合理的だと思い、賛成するが、「危険だ」という人の主張も知ってみたい。いずれにしても、原発問題は、データに基づく冷静な議論が必要だと思う。

 

以下の話には考えさせられた。

「私は17の時、こんな言葉を読みました。『毎日これが人生最後の日と思って生きるとしよう。そのうち必ずそうなるのだ』。非常に強烈な印象を受けました。それから現在に至るまで33年間、私は毎朝鏡を見て自分に問いかけてきました。『もし今日が人生最後の日だとしたら、今日やる予定のことを私は本当にやりたいだろうか?』もしも答えがNOという日が何日も続くようならば、何かを変えなくてはいけない」(スタンフォード大学でのスティーブ・ジョブズのスピーチ)

 

 

中川恵一(なかがわ・けいいち)東京大学医学部附属病院放射線科准教授/緩和ケア診療部長
1960年東京生れ、1985年東京大学医学部医学科卒。放射線医学教室入局。

『がんの練習帳』、『がんのひみつ』、『がんの正体

中川恵一、養老孟司、和田秀樹著『命と向き合う - 老いと日本人とがんの壁

 

 

中川先生推薦のがんに関するサイト


がん情報サイト 
国立がんセンターの「がん情報サービス」 :各種がんのイラスト入り解説

「日本対がん協会」 :がんと、がん検診の啓発

がん研有明病院の「がん・医療サポートに関するご相談」 :がんになって最初に読む入門篇

「がん情報サイト」 :米国国立がん研究所配信の最新がん情報(日本語)など

セコンド・オピニオン外来
「がん診療連携拠点病院」 :地域の相談窓口

「日本臨床腫瘍学会」 :抗癌剤の専門医のリスト

「日本放射線腫瘍学会」の専門医名簿 :認定施設のリストもある

緩和ケア病棟のある病院の情報
国立がんセンターがん対策情報センターのHP :緩和ケア病棟のある病院の情報 

在宅ホスピス協会のHP 

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辻村深月『朝が来る』を読む

2017年03月16日 | 読書2

 

辻村深月『朝が来る』(2015年6月15日文藝春秋社発行)を読んだ。

 

「本の話WEB」の特設サイトにはこうある。

不妊治療との長くつらい闘いの末に栗原夫妻が選んだ道は、特別養子縁組だった。五年後、朝斗と名付けた男の子と家族三人の穏やかな日常のしあわせを噛みしめるように暮らす栗原家。朝斗が幼稚園に行っているある日中、栗原家を「片倉ひかり」と名乗る若い痩せぎすの女性が訪ねてくる、片倉ひかりは朝斗の産みの母親の名前だ。・・・

 

 上の話の後には、マンションの下層階のママ友とのトラブルなどが続き、第二章は栗原夫妻の長く辛い不妊治療の経緯、特別養子縁組支援団体説明会への参加となる。

赤ん坊を抱いた清和が思わず「かわいいなぁ」と言ったとき、佐都子は思った。朝が来た、と。そして、この子は朝斗と名付けられた。

 

 第三章は、生みの母である中学1年の片岡ひかりが麻生巧と付き合いはじめ、妊娠し、支援団体へたどり着き、・・・。

 

 そして、第四章「朝が来る」で大団円となる。

 

初出:「別冊文藝春秋」2014年1月号~2015年3月号

 

 

私の評価としては、★★★(三つ星:お好みで)(最大は五つ星)

 

 養父母があまりにも良い人で、一方、生みの母は典型的過ぎる転落人生を歩み進める。話にヒダがない。

第三章のひかりの一路落ちて行く、よくある話が170ページも続く一方で、最後の結末への道筋、第四章は21ページで駆け足。

 

特別養子縁組というと、養父母は幼子(最大6歳まで)を戸籍上の実子として育てるのだから、子供には養子であることを隠している場合が多いと思っていたが、子供に事実を明らかにして、さらに実母と定期的に会わせている場合も多いという。

 

 

主な登場人物

栗原佐都子:41歳の時に朝斗の養母となる。武蔵小杉の高層マンションの34階に住む。

栗原清和:佐都子と同い年の夫、建設会社勤務

栗原朝斗:5歳の息子

片倉ひかり:朝斗の実母。

  

辻村深月(つじむら・みづき)の略歴と既読本リスト

 

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奥田英朗『我が家の問題』を読む

2017年03月14日 | 読書2

 

 

奥田英朗著『我が家の問題』(集英社文庫お-57-4、2014年6月30日発行)を読んだ。

 

平凡な家庭人がちょっとしたことで徐々にずれていく『家日和』に続く、家族シリーズ第2弾で、6編の短編集。なお、第3弾は『我が家のヒミツ』。

 裏表紙にはこうある。

夫は仕事ができないらしい。それを察知してしまっためぐみは、おいしい弁当を持たせて夫を励まそうと決意し―「ハズバンド」。新婚なのに、家に帰りたくなくなった。甲斐甲斐しく世話をしてくれる妻に感動していたはずが―「甘い生活?」。それぞれの家族に起こる、ささやかだけれど悩ましい「我が家の問題」。人間ドラマの名手が贈る、くすりと笑えて、ホロリと泣ける平成の家族小説。

 

 

甘い生活?

新婚の妻・昌美はあまりにも甲斐甲斐しすぎる。一人暮らしが長かった32歳の夫・田中淳一は気楽な一人の時間を持てず、家での時間を窮屈に感じるようになり、麻雀や、喫茶店に立ち寄ってから家へ帰るようになる。一方、昌美は「思い出作り」にこだわり、子供は私立の小学校に入れるとこだわり、ついに新婚夫婦は喧嘩して・・・。

 

ハズバンド 

井上めぐみは、夫・秀一が実は仕事ができないらしいと気付く。

仕事ができない男にとって、会社とはなんときびしい場所なのか。その冷遇のされ方は女のブスをも凌ぐ。

めぐみは手作りの考え抜いたお弁当を持たせることにした。

 

絵里のエイプリル

高3の浜田絵里は、祖母が母と間違えて話し出した電話を受け、両親が離婚の危機にあるらしいことを知る。家族のことなど無関心だった絵里も、友人たちに相談し、親達の情報を集め、かなり離婚した夫婦が多いことを知る。食うことにしか興味ない高1の弟・修平は・・・。

 

夫とUFO 

夫の高木達夫がUFOと交信出来ると、ある日妻・美奈子にうち明けた。夫はいったいどうしてしまったのか?美奈子はかっての勤め先に電話して会社での夫の立場を知る。人の良い達夫は会社でどんどん仕事を押しつけられているようだった。美奈子は夫に言う。「健康第一。家族も第一。お金はずっと下」

 

里帰り

岸本幸一の故郷は北海道、妻・沙代は名古屋。結婚して最初の夏季休暇では、海外旅行をあきらめて、離れた二人の実家に里帰りせざるを得ないことになった。親戚づきあいが、割り勘、ご祝儀無しなど淡泊な北海道と、濃厚な名古屋。幸一は、どちらかというと男女平等を旨とする沙代が結構適応性が高いことが分かり安心する。結局二人とも・・・。

 

妻とマラソン

『家日和』の「妻と玄米ご飯」で、妻・里美のロハス志向に辟易した小説家の大塚康夫の続きの話。友達夫婦だったのに夫が作家となり、自分は取り残された気持ちになり、ここでは、里美はマラソンにハマる。そして、次回作『我が家のヒミツ』では、里美はボランティア仲間の推薦で市議会議員選挙に出馬すると言い出す。

 突然人気作家となった妻の問題行動シリーズで、かなり実話に近い話なのかと思っていたが、なんと著者は一人暮らしだという。

 

初出:「小説すばる」2010年2月号~2011年2月号、2011年7月集英社より刊行

 

 

私の評価としては、★★★★(四つ星:お勧め)(最大は五つ星)

 

 どこにでもあるような、ちょっとした問題を持つ家族の物語を穏やかに語る。離婚を扱った「絵里のエイプリル」以外は、読者が期待する心温まる結末が待っている。

 奥田さんは、軽妙洒脱な空中ブランコ」、ミステリーと言える「オリンピックの身代金沈黙の町で』『噂の女』『ナオミとカナコ』など幅広いジャンルの小説を書いているが、もっとも気楽に楽しんで書いているのが、「家日和」、本書『我が家の問題』、『我が家のヒミツ』と続く我が家シリーズではないだろうか。

 

裏表紙に著者は「人間ドラマの名手」とあったが、本書の刊行記念インタビューで、奥田さんはこう語っている。

僕はひとり暮らしだから、家族のことはよくわからないんですよ。自分にはないものだからこそ、一生懸命想像するというか。

奥田さんは独り者らしい。それでよく夫婦の機敏が書けるものだ。

 

 

奥田英朗(おくだ・ひでお)
1959年岐阜市出身。雑誌編集者、プランナー、コピーライターを経て、
1997年「ウランバーナの森」で作家デビュー。第2作の「最悪」がベストセラーになる。
2002年「邪魔」で大藪春彦賞
2004年「空中ブランコ」で直木賞
2007年「家日和」で柴田錬三郎賞
2009年「「オリンピックの身代金で吉川英治文学賞受賞
その他、「イン・ザ・プール」「町長選挙」「マドンナ」「ガール」「サウスバウンド」『沈黙の町で』『噂の女』『ナオミとカナコ』『我が家のヒミツ』『向田理髪店』など。

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秋のある日に思う

2017年03月13日 | 個人的記録

 

キンモクセイの香りに誘われて

 

 秋のある日のことでした。夏の異常な暑さも去り、散歩に出ると、どこからかキンモクセイの甘い香りがただよってきます。あたりを見渡すと、小さなオレンジ色の花が一面に地面に散っているところがあります。茂った葉の間にオレンジの房になった花を持つキンモクセイが、「ここだよ、ここだよ!」と、教えてくれます。

 いつも通っている道のそんなところにキンモクセイがあるなんて気づきもしませんでした。キンモクセイはこの季節だけ一斉に豊香を広くただよわせ、華やかにオレンジの敷毛布を広げて、散っていくのです。そして、あとはひっそりと目立たない庭木になって、また来年のこの季節まで、じっと風景の中に埋もれているのです。

  

 真っ直ぐ伸びる住宅街のいつもの道をのんびり歩いていくと、整地された空地がありました。手前のクリーム色に塗られたコンクリートの塀と、角の小さな家との間のそれほど広くはない土地ですが、前に何があったのか、まったく思い出せません。何もなくなった平地の方が目立つのも哀しいものがあります。無くなって初めて存在を主張しているようです。

  

 いつも曲がる角を、今日は気まぐれでそのまままっすぐ歩いてみました。右手のシャレた洋館の玄関先の駐車場が、何か変なのです。しばらく立ち止まっていてわかりました。駐車場の右手にあった桜の老木が根元だけを残して切り倒されていたのです。春先にあんなに見事に豊満な花を咲かせていたのにと、残念でなりません。たしかにそれほど広くはない駐車場に、太い幹、横に伸びた枝はじゃまに違い有りません。たまに通る者が何を言えるものでもありません。せめてあの桜の老木を思い出し、密かに目に焼きつけておくことにしましょう。

 

 

 帰り道、ふと考えてしまいました。

 私は、それなりに楽しく家族仲良い人生に満足しています。そして、私が居なくなった後も世の中は何事もなく進んでいくでしょう。私が消え去った直後は近辺に波が立ち、さざ波が多少の広がりを見せるでしょうが、すぐに元の静けさに戻るでしょう。私は、この世に生きた痕跡を残したいとも思わないので、それこそが私の望と言えるのです。しかし、そもそも私に、他人を楽しませた、あるいは、感動を与えた季節がわずかでもあったのだろかと、ふと考えてしまいました。

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奥田英朗『向田理髪店』を読む

2017年03月12日 | 読書2

 

 

奥田英朗著『向田理髪店』(2016年4月20日光文社発行)を読んだ。

 

 かつて炭鉱で栄えた北海道苫沢(とまざわ)町にある向田理髪店の店主の康彦は53歳。札幌の大学へ入り、会社勤めをしたが、辞めて帰郷し、父の後を継いだ。以来、四半世紀、夫婦で理髪店を営んできた。

 夕張市がモデルの苫沢町は衰退を止めようと放漫なハコモノ行政のつけから財政破綻した。かって町に10軒以上あった理髪店も2軒となり、客は馴染みの高齢者ばかりだ。朝の7時に開店して、じっと客を待つ。理髪店は年寄りのたまり場になっている。
 明るい希望が見えない田舎町だが、様々な騒動の中で、登場人物を丁寧に、生き生きと、そしてコミカルに描いている6編の連作短編集

 

「向田理髪店」

 康彦の長男・和昌(かずまさ)は札幌の私立大学を卒業し、中堅の商事会社に就職している。理髪店は自分の代で終わりにしようと思っていたのに、和昌がわずか一年で帰郷。「おれは地元をなんとかしたいわけさ」といきなり理髪店を継ぐと宣言した。心配性の康彦は素直に喜べず、他に何か理由があるのではと疑う。妻の恭子は息子の将来を案じつつも喜んでもいる。和昌はまずは実家から木工所に勤め、学費を貯めて理容学校に入ると言う。

 

「祭りのあと」

 毎年7月に町一番のイベントの夏まつりが開かれ、息子や娘も帰省する。82歳の馬場喜八は風呂場で倒れ、妻の房江が康彦の家に駆けこんできた。帰省中の息子の武司と近所の人たちで病院へ担ぎ込む。回復は難しく、集中治療室での治療が長引き、東京で勤める武司は困難な状況に陥った。町の皆もいずれは我が事と頭を悩ます。

 

「中国からの花嫁」
 中国から嫁をもらった野村大輔は40歳。若い頃は明るく積極的だった大輔は最近人付き合いを避けるようになり、皆への結婚挨拶やお披露目もを避け続ける。何がそうさせているのか、皆は心配する。


「小さなスナック」

 何と、町にスナックが新規開店した。ママは42歳の早苗。町を出て札幌で結婚、離婚した三橋家の娘だ。東京赤坂のクラブでホステスをしていたという早苗に町のオヤジ達はざわめき、ひしめく。

 

「赤い雪」

 映画のロケ地になり、町を売り出す絶好の機会で、しかも有名女優の大原涼子が来るというので町をあげての大騒ぎになる。ただ、映画の内容は・・・。

 

「逃亡者」

 苫沢町出身の広岡秀平が、被害者に自殺者を出した詐欺グループの主犯として全国指名手配された。東京の私立大学に入った息子を広岡はことあるごとに自慢していた。町にはマスコミが殺到し、だれかれとなく聞きまわり、実家は長期間張り込み対象となる。そして、・・・。

 

初出:「小説宝石」2013年4月号~2016年2月号

 

 

私の評価としては、★★★★(四つ星:お勧め)(最大は五つ星)

 

 スイスイと安心して楽しく読める。衰退し、希望のない町なのだが、悲観的記述がないせいもあるが、ちょっとした様々な騒動であたふたする人たちがギスギスしていないのでどこか牧歌的に感じる。語り手の康彦が温厚でビビりであるせいもあるだろう。

 

 戦後の復興期に育ち、高度成長期が働き盛りだった私にとっては、常に未来とは広がっていくものだとの考えが抜けない。私には激しい衰亡の炭鉱町は想像ができない。これからの日本が穏やかな衰退期となり、経済は縮小しても、心豊かな生活を送れるように願っている。この本にそんなヒントがあるというのはオーバーだが、余裕とあきらめの気持ちが大切だと思った。(悲観的??)

 

 

奥田英朗(おくだ・ひでお)
1959年岐阜市出身。雑誌編集者、プランナー、コピーライターを経て、
1997年「ウランバーナの森」で作家デビュー。第2作の「最悪」がベストセラーになる。
2002年「邪魔」で大藪春彦賞
2004年「空中ブランコ」で直木賞
2007年「家日和」で柴田錬三郎賞
2009年「「オリンピックの身代金」で吉川英治文学賞受賞
その他、「イン・ザ・プール」「町長選挙」「マドンナ」「ガール」「サウスバウンド」『沈黙の町で』『噂の女』『ナオミとカナコ』『我が家のヒミツ』など。

 

 

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不便で楽しい横須賀生活 

2017年03月10日 | 個人的記録

 

 

 東京に住んで30数年、職場移転でまさかの横須賀住まいになった。

 先発隊として山の上にある10階建ての新しい職場に行ったとき、窓の外の溢れる緑、絵のような富士山や眼下の東京湾ににんまりした。しかし、夜になり、まったく明かりが見えない真っ暗な光景に「ああここは田舎なんだ」と唖然とした。

 

 社宅の最寄り駅も、改札口はあるのだが、みな線路をまたいで直接ホームにあがるような寂れた駅で、駅前にはよろずやが一軒あるだけだった。電車も単線で20分に一本。駅に行けばすぐ電車が来るものと思っていた私には、家に時刻表を貼っておいて、時間を見て駅に行く生活になかなかなじめなかった。

 

 それでも10分も歩けばハイキングコースがあり、季節がくれば、筍掘り、みかん狩りなどが楽しめる。散歩や子供を遊ばせるのによい海岸も歩いて数分の距離にある。これらの環境は自然に親しむ楽しみを教えてくれた。広々としたスイカ畑の一角を借りて野菜つくりも始めた。一方で、デパートや美術館などへ行くのは不便でおっくうになった。まさに、「自然が近くなると文化が遠くなる」である。

 

 十分ほど車で行くと、三浦海岸や、油壺マリンパークがあり、夏の土日には東京から子どもたちを連れた親戚が入れ代わり立ち代わりやってきて、大忙しだった。海辺の別荘を持つのが夢だったが、自宅となると、潮風や干した魚網のにおいなど悩まされることも多かった。

 

 横須賀商店街には、かってのような猥雑さはなくなったが独特の雰囲気を持つ「どぶ板通り」がある。また、横須賀には猿島、記念艦三笠、ペリー公園など歴史を感じさせる場所も多い。

 

 不便もあったが、都会では味わえなかった18年の横須賀生活は夫婦と成長期の子供にとって貴重な宝物になった。

 今、横須賀は過疎化が進展しているという。東京、横浜から適当な距離にあり、リゾート地とも言える横須賀の素晴らしさをもっと色々な人に知って欲しい。

 

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目玉の松ちゃん

2017年03月08日 | 日記

 

                                                

 寒風の中、吉祥寺に出て歩き回りくたびれて、帰りはコミュニティーバスのムーバスに乗った。

 

 向かいの席に若い夫婦が座っていて、2歳位の男の子が父親の膝の上に座っていた。頭を叩くと、目玉が飛び出しそうな大きな目に、「床屋で刈って来いよ」と言いたくなるほど長くカールしたまつ毛だった。男の子は気むずかしく眉毛を寄せ、迫力ある大きな目をぎょろっとさせてバスの中を眺めていた。まるで海老蔵か、無声映画の目玉の松ちゃんが見得を切るように。

 

 隣に座っていたおばさんが父親に「次降りますから坊やにボタン押させてください」とでも言ったのだろう、父親は礼を言った。男の子を膝の上に立ち上がらせて、傍のボタンを指さした。男の子は振り返って父親の顔を見て確認してから、指を伸ばし、そしてちょっとためらってからボタンを押した。車内に停車ブザーが響き、男の子は、顔を一気にクシャクシャして笑った。母親も、父親もニコニコ、ニコニコ。乗客もニコニコ、ニコニコ。北風の中を走るムーバス車内はいっぺんにホカホカになった。

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八幡様のお祭り

2017年03月06日 | 昔の話2

 

 

 子どもの頃住んでいた所は、代々木八幡宮の近くだった。木々がうっそうとしたちょっとした山になっていて、境内の林の中には、復元された縄文時代の堅穴式住居があった。作家の平岩弓枝の父親が宮司だった。

 

 9月にはお祭りがあり、八幡様の階段の登り口から、お社まで出店がずらりと並ぶ。小学生の頃は、お祭りのときだけもらうお小遣いを握り締めて、出店を端から一つずつのぞき込んでいくのが楽しみだった。居並ぶお店の大半はお菓子やお面などの店だが、なにしろまだ戦後の匂いの残る昭和20年代である、ちっと変わった、というか、いかがわしく、いんちきくさい店も多かった。

 

 先に針をたらした棒が円盤の上で回転するルーレットのようなゲームがあった。針が止まったところに書いてある商品がもらえる。もう少しですばらしい商品のところで止まりそうになるのに、いつもわずか行き過ぎたり、手前で止まったりする。何人もの子供が失敗するのをじっと見ていて、友達と、「あれはきっと板の下に磁石があって、おじさんが当たらないようにしているんだぜ」「インチキだ。止めだ、止めだ」と言いながら、今度こそとついつい見とれてしまう。

 

 実際にがまの油売りもいた。林の中のちょっとした広場で、竹棒で地面に円を書いて、「この線から入っちゃだめよ」と言ってから、「さあさ、お立会い、御用とお急ぎのないかたは、」と、あの有名な口上をはじめる。日本刀を構えて、紙を何枚も切って切れ味を示し、高く放り上げて落下の舞とのたまう。そして自分の腕を切って赤く血が出るのを示す。次に、缶から指にがまの油を取って腕につけ、手拭いでふき取ると、あら不思議、傷口もなくなっている。そしていよいよ、がまの油を入れた小さなカンを売る。最初は「千円だよ、千円!」と言ってもお客さんが互いに顔を見合わせているだけなのだが、取り囲んだ輪の外側から誰かが「一つ頂戴」と言って買うと、何人かが争うように買い始める。一度すべてが終わってからもう一回見ていると、また同じ人が最初に買う。「ほらあれを“さくら”って言うんだぜ」と友達が得意げに解説する。

 

 望遠鏡のような筒状のおもちゃを売っていた。おじさんが言う。「これで見ると、なんでも透けて見えちゃうんだよ」。手の指を広げて、このおもちゃでのぞいて、「ほら、骨が透けて見える」。覗かせてもらうと、確かに手のひらが骨と肉に見える。おじさんが私の耳元でささやいて追い討ちをかける。「女の子を見れば、洋服が透けて見えるよ」。色気が付いた中学に入ってからだったと思う。握り締めて汗をかいた百円玉2枚を渡して、さっそく買った。家まで待ちきれず、帰りがけに「物」を見てみる。なんだか、スカートの周りがぼやけて見えるだけだった。
家へ帰って、腹立ち紛れにすぐにばらしてしまった。目を当てるところに鳥の羽が一枚入っていて、物がずれて二重に見え、周辺がぼやけるだけのものだった。

絶対に騙されまいと思っていたのに、あっさりなけなしの小遣いを巻き上げられて、悔しかった。しかし、考えてみれば、色気づいた中学生の男子をだますのは簡単だ。約60年経った今でも悔しいが、なんだかその悔しさも甘酸っぱくなってきてしまった。

 

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トイレの今昔物語

2017年03月04日 | 昔の話2

    

 

  昭和二十年代、住んでいたのは東京の山の手だが、我家のトイレは和式で汲み取り式だった。トイレのドアを開けると男性用トイレがある。前の窓の下には「しずく垂らすな今一歩」と書いた紙が貼ってあった。右手の扉を開けると和式便器がある。臭くないように使用後は、板につまみのついた木製のカバーを便器にかぶせる。

 ときどき裏口から人が来て、裏庭にある汲取り口の蓋を開け、ひしゃくで汲み取っていった。この蓋のわきになぜかミョウガが生えていたので、いまだにミョウガを食べる気になれない。

 

 やがて、石油のタンクローリーのようなバキュームカーが来て象の鼻のような太い管を汲み取り口に差し込み、ポンプで汲み取っていくようになった。

 

 トイレには竹で編んだ籠があり、中に二十センチ位に切った新聞紙が積み重ねてあった。そのままでは硬いので、これをよく揉んでから拭くのであるが、揉みすぎると破れてしまう。今考えると、多分お尻は黒くなっていたのだろう。

 

 やがて、トイレが水洗になった。といっても天井に近いところに水のタンクがあり、そこから垂れている鎖を引いて水を便器に流す水洗式和式トイレである。その頃だろうか、新聞紙がちり紙に代わった。

 ちり紙とは、鼻をかんだり、お尻を拭いたりするための専用の紙で、薄くいかにも安そうな粗末な紙で、あらかじめ裁断して売られていた。柔らかくするためにただ単に薄くしたようで、密度が均一でなく、ところどころ向こう側が透けて見えるものもあった。やがて、薄く柔らかいものや、はじめからシワシワになっていて、より柔らかい化粧紙と呼ばれるものも登場した。

 

 庶民の家でも多くのトイレが洋式になる頃、紙はロールになりトイレからちり紙とハエが消えていった。箱からティッシュペーパーをパッと取ると、次のティッシュペーパーが顔を出し、次々、パッパッと紙を取り出すTVCМが有名になり、あっというまにティッシュが普及し、家庭からちり紙が消えた。

 

 1980年に温水洗浄便座が発売され、82年には、「おしりだって洗ってほしい」のCМが話題となり普及が進んだ。現在普及率は6割に達するという。ただし、熱風で乾燥させるには時間がかかり、依然トイレットペーパーも利用されている。なお、私は海外滞在用に電池で動く携帯型のトラベル・ウォシュレットを購入したが、いちいち面倒でほとんど使っていない。

 

さらに余談を一つ。

 大正天皇の別荘を見学したときに、畳の部屋の真ん中に木製の椅子があった。お尻のところに穴が開いていて、天皇陛下のトイレだった。椅子の下に箱があり、毎日使用後に医者が成果物を調べて健康診断すると聞いた。さすが天皇陛下。

 

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空を見るのが好き

2017年03月02日 | 昔の話2

 

 

 空の雲を黙って見ているのが後期高齢者に近づいた今でも好きだ。

 小学生の頃、よく廊下に寝転んで雲が流れていくのをながめていた。変わった形の雲を見つけてじっと見つめる。あまりに変化が遅いので、ボーっと考え事をしていると、そのうち雲は動いていて形も変わってしまっている。吸い込まれるような青空に引きちぎった綿のような雲がゆっくり流れていく。

 

 高校のとき、毎朝、神宮外苑の、当時一面の芝生だった広場を横切って学校へ通っていた。始業時刻までまだ余裕があり、空がさわやかに晴れている朝には、よく芝生に寝転んで空と雲を眺めていた。時々は、寝転んだままで一時間目をサボることもあった。いや、学期の三分の一遅刻していたのだから、時々とは言えない。

 

不来方*の お城の草に寝ころびて 空に吸われし十五の心    石川啄木

 

 長いこと天体観察に興味を持ったことはなかった。ずっと東京近郊に住んでいて、しかも近眼なので、夜空の星をじっと眺めたことがなかった。六十歳を過ぎて、オーストラリアに旅行したとき、大陸南端の昔捕鯨で知られたアルバニーという町に行った。車を飛ばして、夜、宿について駐車場から南極の方向の暗い海を眺めた。ふと夜空を見上げたら、一面、星、星、星だった。まさに降るような満天の星だ。「空にはこんなに星があるんだ」と思った。子供の頃からあんなにしじゅう空を眺めていたのに、あの空の奥にこんなにもたくさんの星があったなんて!

 

 さっそく、現地で求めた星座表を出して照らし合わせると、「あった!」南十字星が。星座なんて人間が勝手に星たちに合わせて物語を作っただけだと思っていたが、じっと見ていると、ほかの星は消えて確かに十字だけが浮かび上がってくる。

 

 星座表をもう一度見ると、ミルキー・ウエイと書いてある。「う?天の川?」首を回して夜空を眺め渡すと、「あった。あれが天の川だ。そうに違いない」

 はじめて見る天の川は、明るい星や、かすかに煙る星が一面に並び、まさにミルクのように埋め尽くす帯のような星の川だった。

しばし、夜空に見とれてたたずんだ。

 

 

*不来方(こずかた)は岩手県盛岡市を指し示す言葉

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