私は版画を彫って、刷って、30年以上毎年約100枚の年賀状を出し続けている。
宛名と自分の住所、氏名はパソコンで印刷するが、年一度だけの創作活動で図案を考え、色別に数枚の木版を彫り、絵具を塗り、バレンでこすって一枚一枚版画年賀状を仕上げる。
今年はどんな版画にするか、図案を考えるのは楽しい。題材は、かっては本などの絵を基にすることもあったが、近年は自分で適当に書いたり、撮った写真をもとにアレンジしたりする。
しかし、なかなか思い浮かばないときはここで時間が経ち、年末になだれ込んで、追い詰められてからの作業が厳しくなる。
最初のころは干支の動物の図案だったが、2巡もすると飽きて来て最近は風景版画が多い。年一度で、しかも手抜きなので技量は向上しないが、いろいろ新機軸を考え試みるのも楽しいものだ。
今年は題材を求めて、井の頭公園へ行った。人ごみの中で写生するのもためらわれるので、版画の画面を想定して何枚か写真を撮った。撮った写真をパソコンで眺めながら、井之頭弁才天の前の池に噴水がシャンパングラスのように踊る光景に決めた。
年賀状の大きさの絵を描いて、4色の色彩を想定した。いざ4枚の板別に絵を書き出す段になって、噴水にぼかしを入れないとさまにならないことに気がついた。ぼかしは色の境目がはっきりしないように徐々に変わっていくようにする技術で、かって一回だけ成功したが、ほとんど失敗している私には難しい技術だ。ここで、その日の作業を中断した。
翌日の朝、半分目覚めながら、「そうだ、夏に行ったスイスの逆さマッターホルンにしよう」と思いついた。奥さまの賛同を得て、パソコンでスイス山歩きの写真から適当な2,3枚を参考にしながら、半透明の紙に絵を描いた。絵の2隅に位置あわせのための見当を描く。
色数を3色以下に減らそうとあれこれ工夫したが上手くいかず、結局4色刷りになってしまった。いかなる地図も、隣接する領域が異なる色になるように塗るには最大で4色あれば十分だという四色定理があるので、なんとか3色に収めたかったのだが。
つぎに、半透明の紙を裏返しにして、下にカーボン紙を敷く。版木にその色の部分の絵を写す。これを色ごとに4回繰り返す。
4枚の版木を彫る。各版木に絵のほかに見当も彫りつける。
あとは、版画用の絵の具を溶いて糊を混ぜ、版木に筆で塗る。すぐに賀状を置いて、上からバレンで満遍なくこする。刷られた賀状を並べて乾かす。
部屋一杯に賀状が並ぶ。これを色を変えて4回繰り返す。今年は90枚だから、4×90で360回繰り返す。
刷ったものをスキャナーで読み取ってからパソコンで印刷すれば楽なのだが、今のところはあくまで年賀状へ一枚一枚、手刷りにこだわっている。
あとは何か一言書くだけで、作業終了だ。
年賀状はプライベートなものと考えていたので、会社関係でも個人的に近しい人以外には年賀状は出さなかったが、40年の会社員生活の中で徐々に増えて200枚ほどになってしまった。おかしなもので、今年はこちらからは出さないでいると、元旦に相手から来て、次の年にこちらから先に出すと、相手から多分元旦に出しただろう返事の年賀状が来たりして、ギッタンバッコンとなかなか互いに止められない。
勤めていた時は、12月の最後の週に帰宅後、版を彫り、翌日帰宅後、夜2時ごろまでかかって200枚くらい刷り上げていた。
友人を思い浮かべながら、必ず2,3行は何か手書きするようにしているので、これも時間がかかり、出すのは年末ぎりぎりになっていた。退職すると時間は有り余っていて、はじめるのは早くなるが、途中休んだりして、結局正味時間はあまり変わらない。
退職してからは、生活、お付き合いをシンプルにしようと、不義理承知で100枚以下に絞った。こちらの好き勝手で、年一度の状況ご報告のつもりで出しているので、返事はもらわなくても良いのだが、相手の負担になっているとしたら申し訳ない。とくにかなりなお年寄りにはもう字を書くのも大変なのでと言う方もいるのだから。
しかし、年賀状だけでつながっているお付き合いも悪いものではない。幼い子どもの写真付きでしばらく来ていたのが、夫婦二人だけの旅行の写真になっていたりして、年賀状だけからでも相手の世界が想像で垣間見られて、心が温かくなる。
いまや簡単にパソコンでお気に入りの年賀状ができる時代だからこそ、いつまで続くかわからないが、無理しない範囲で手作りの下手な版画の年賀状は続けて行こうと思っている。
以上、2008年1月4日のこのブログ「版画の年賀状」と2006年12月24日の「年賀状を彫り、刷り、書く」を改変した。
年賀状もそうだが、このブログもなんとか続いている。2006年3月4日からはじめているので、あと2ヶ月ほどで3ヵ年になろうとしている。暇にまかせて我ながら良く続いていると思う。
一日100人か150人程度だが、カウンターは延べ13万7千人がアクセスしたことを示している。この数字は、同じ人が一日に何回も、何ページもアクセスしても1回と数えるそうだから、大した数字だ。無駄な時間をすごさせているだけでなければよいのだが。
阿川佐和子,石田衣良,角田光代,熊谷達也,小池真理子,重松清,朱川湊人,高樹のぶ子による短編小説集「あなたに、大切な香りの記憶はありますか?」2008年10月、文藝春秋発行を読んだ。
いずれ劣らぬストーリーテラーである人気作家8人がイメージが沸きやすい「香り」をテーマにした短編で腕を競っている。
キーコーヒー株式会社のWEBサイト「書茶」で2007年9月14日から2008年10月30日にわたり公開された作品を単行本化したもので、ふとした香りが呼び起こすちょっと切なく、懐かしい思いを8人の人気作家がのびのびと楽しげに書いている。
夢の香り(石田衣良):昔、夢の中に出てきた男性の匂いを追い続けている35歳の女性が狂言回しの友達の紹介で男性とついに出会う嬉しい予感のある話。
父とガムと彼女(角田光代)
いちば童子(朱川湊人)
アンタさん(阿川佐和子):自分のガラに合わない男ばかり追いかけていた女性が木の香りが好きな宮大工見習いを好きになり、ハラハラする話
ロックとブルースに還る夜(熊谷達也)
スワン・レイク(小池真理子)
コーヒーもう一杯(重松清):19歳の彼がまもなく卒業の女子大生からコーヒーの淹れ方を教えられる哀しみを予感させる話。
何も起きなかった(高樹のぶ子)
私の評価としては、★★★☆☆(三つ星:お好みで)
気楽に、スイスイと読める。短編とは、こう書くものというお手本が並んでいる。いずれも、なるほどと思わせるところがワンポイントある。逆に言えば、わざとらしさを感じる人もいるだろう。
私のお気に入りは、石田衣良の夢の香り、阿川佐和子のアンタさん、重松清のコーヒーもう一杯。
ご近所をプラプラしていたら、消防署の前に出た。中をのぞくと、子供があっちへチョロチョロ、こっちへチョロチョロ。幼稚園児の見学らしい。可愛くて、構図も考えず、思わずパチリ。

サザンカが満開。こんな生垣は歓迎だ。童謡「たきび」のように、「サザンカ、サザンカ、咲いた道」だ。

先端のとがった柿が庭先にいくつか残っている。

塀ぎわにシュロがそびえていた。こんなに生育するのは珍しいのでは。

きちんと直角に刈り込まれた生垣。

と思ったら、コンクリートの塀にびっしりツタ?がはっているらしい。

この家の屋根の上にあるのは何だ?物干し台ではないし、物見櫓?
路上観察学会のトマソン物件だ。

クリスマス・リースのような生垣。

やや!侵入者あり!最近の家は煙突がないから、サンタさんも大変だ。

おばさんが、「なんで私がいつまでもこんなことやらなきゃいけないのよ」とぼやきながら、クリスマス飾りを付けていた。

でも、できあがると、やっぱりなかなかいける。良く見ると、ここにもサンタがはしごで侵入。

最後にご近所で評判のイルミネーション。なんとここにもサンタさんがはしごで。某タレントの家だそうだ。

松永和紀著「メディア・バイアス-あやしい健康情報とニセ科学」2007年4月、光文社発行、光文社新書298を読んだ。
表紙裏にはこうある。
―――
世間に氾濫するトンデモ科学報道。・・・テレビを批判する新聞や週刊誌にも、あやしい健康情報が山ほどある、そこには、センセーショナルな情報に引っ張られるメディアの構造、記者・取材者の不勉強や勘違い、思い込み、そして、それを利用する企業や市民団体…。本書では、さまざまな具体例をもとにメディア・バイアスの構造を解き明かし、科学情報の真贋の見極め方、リスク評価の視点を解説する。
―――
第1章 健康情報番組のウソ
第2章 黒か白かは単純すぎる
第3章 フードファディズムの世界へようこそ
第4章 警鐘報道をしたがる人びと
第5章 添加物バッシングの罪
第6章 自然志向の罠
第7章 「昔はよかった」の過ち
第8章 ニセ科学に騙されるな
第9章 ウソつき科学者を見破れ
第10章 政治経済に翻弄される科学
第11章 科学報道を見破る十カ条
著者は、1963年長崎市生まれ。京都大学大学院農学研究科修士課程修了。毎日新聞社の記者として10年勤めた後に退職し、フリーの科学ライターとして活動を開始。得意分野は農業、食品、環境など。
女性。
私はこの本の内容には全面的に賛成だ。いくつか抜き出す。
「多様な食物を過不足なく食べることの重要性を無視する食の情報には虚偽や誇張、フードファディズムが紛れ込む」
「『危険ですよ』『要注意ですよ』と警鐘を打ち鳴らす。これが、マスメディアの直腸です。『○○には気を配らなくていいですよ』では、読者は興味を持ってくれません。だから・・・センセーショナルな話を前面に出すのでしょう」
「(食品添加物の)代替物の効果は、ソルビン酸(食品添加物)には太刀打ちできませんので、保存期間が短くなり、食中毒を避けるために食品の廃棄率が高まります。・・・どちらが本当に消費者のためになるのか、ここでは科学的思考が欠落しています」
「無添加の方が健康にいいという誤解を与えて売っている。・・これは詐欺商法に近い」
「自然はイメージがとてもいいですが、現実にはかなり怖いのです」
おおよその著者の主張はわかってもらえるだろうが、こう断片だけ取り出すと、まるでマスメディアのようになってしまうので、このくらいにする。
私の評価としては、★★★★☆(四つ星:お勧め)
みのもんたファンの人、健康フェチで健康のためなら死んでもよいとおもっている人には是非読んでもらいたい。
都合のよい部分だけ取り出して決め付ける話には注意が必要だ。要するに、週刊誌はもとより、TV、新聞の言うことは、まず疑ってかかった方がよいということだ。
それにしても、○○ダイエットなどが一気に流行り、エセ科学やスピリチュアルが公共の電波で流されるとは!学校教育で、科学的考え方や、マスコミ情報の受取り方を教育してもらいたい。真面目な話と、血液型占いなど半分冗談やお楽しみとが区別できなくなっているのでは。
上野千鶴子著「老いる準備―介護することされること」2005年2月、学陽書房発行を読んだ。
上野千鶴子が、老いた人の自立、介護、家族、市民事業体(NPO)などについて分かりやすく語lっている。
読んでいて、「どこかで読んだ話だな。いろいろなところに同じようなことを書いているだろうからな」と自分で納得して読み進め。しかし、どうもおかしいと思って、つくづく表紙を眺めると、赤い葉の写真に見覚えがある。私は、文章より、イメージの方が記憶に残りやすい。念のため、このブログの左の欄の下にある「検索」の欄に、「老いる準備」と入力して、検索をクリックすると、出た!
「上野千鶴子「老いる準備」を読む」
つまり、このブログのタイトルに(2)とあるのは、この本を既に読んでいて、2007年11月に感想「上野千鶴子「老いる準備―介護することされること」を読む」をブログにも載せていたためだ。昨日の夕飯に何を食べたかも思い出せないのだから、1年前のことを忘れていても仕方がない。
私は、荷物を増やさないために本は図書館で借りることにしている。したがって、記憶力の衰えた最近ではときどき既に読んだ本を再び手にとり、読み始めてしまうことがある。興味のある著者は限られているし、なぜか私が気になるタイトルや装丁には限りがあるようで、よく同じ本をなんどでも手にしてしまう。
なお、上野千鶴子さんの「おひとりさまの老後」がベストセラーになったからだろう、その背景となったこの本は、同じ題名で、2008年11月に朝日文庫化された。
私の評価としては、★★★★☆(四つ星:お勧め)
一部、研究成果など詳細すぎる部分もあるが、上野さんの主張のもとになっている考え方が素直に語られているような気がする。NPO、市民運動を進める人にはとくにお勧めだ。
ダブりにならない範囲で内容を一部ご紹介。( )は私のコメント
50歳を越えて「わたしの人生は下り坂である」と、率直に認める著者。その上野さんが向老学、介護、市民事業体、ニューシルバーなどについて、わかりやすく本音で語る。
(現役東大教授で「下り坂」とはとりようによってはいやみにも聞こえるが。)
「恍惚の人」に関する対談で、有吉佐和子さんは、「たとえ痴呆になっても、私はとことん生き延びてやろうと思います。おぎゃーと生まれたときには寝たきりでした。人の手にかかって依存的な存在として生まれてきたのだから、やはり人様の手にお委ねして、依存的な存在として死んでいきとうございます」と答えている。
(すご過ぎる。女性の根源力に畏れ、有吉さんの透徹した考えにひれ伏すのみ。
筋が違うが、関連で思い出した話をひとつ。
アメリカンネイティブの言い伝え
『周囲の笑顔の中、泣きながら生まれ、周囲の涙の中、笑顔で死ぬ』これが幸せ
趣旨はこんな事だと思った。以前このブログに書いたと思ったが。
利益を目的としない団体の進め方の三原則が紹介されている。
その一、やりたい人がやる。やりたくない人はやらない。
その二、やりたい人はやりたくない人を強制しない。
その三、やりたくない人はやりたい人の足を引っ張らない。
上野さんは「『他人のため』より『自分のため』」とも述べている。
(私も慈善という言葉は嫌いだ。若いころボランティアをしていて、自分が楽しいので続けていたし、そうでなければ、信仰もたいした信念もない私には続くものではなかった。『情けは人のためならず』とはいずれ回って自分の利益につながるという意味ではなく、行為が自分の楽しみで、少しは自分の糧になるという意味だと思う)
今や還暦に到達しつつある団塊の世代を著者はニューシルバーと名づける。その指針として四つあげる。
一、わがままに生きよう。
二、住みなれた土地で、親しい仲間たちと一緒に
三、気の合うネットワークづくりを
四、最後は一人と覚悟する
(一は、誤解かもしれないがわがまま一杯な上野さんに言われたくないと思う。四が「おひとりさまの老後」につながったのだろう)
上野千鶴子の略歴と既読本リスト
前回ご報告の井の頭池西から南側に続き、東側と北側を歩いた。
井之頭池の東端に、「ここが神田川の源流です、神田川は善福寺川、妙正寺川と合流して隅田川に注いでいます」との看板がある。あの名曲「神田川」のはじまりがここだ。

池の南側には、許可を受けて出店やパーフォーマンスをするART-MRTアートマーケッツが並ぶ。

週日で人もそれほど集まらないのに、ノリノリで楽器を奏でるグループがいた。

無我の境地のこのおじさんは昨年4月に来たときにも売店のそばの同じ場所に居た。

七井橋から見た池は静で、乗るとカップルは別れてしまうというボートも少ない。

池には鯉と鳥(キクロハジロ?)が。


池の東側には巨大なマンションがそびえている。左から、井之頭第2パークサイドマンション、メゾン井の頭、井之頭パークサイドマンションだ。
1970年ごろ建ったときは、景観を壊すと反対運動が起こったと記憶しているが、今やヴィンテージマンションらしい。

築35年で、外観はいまどきのマンションのようにお洒落ではない。しかし、公園にぴったりと近接していて眺めは最高だろう。
なんでも、建築当時の坪単価48万円が、今では304万円に跳ね上がっているという。武蔵野市にはこんな高層のマンションはないので、抜群の立地もあって人気がでるのだろう。

三鷹駅徒歩2分で、31階建てと28階建てと、この地域始めての高層ツインタワー武蔵野タワーズの販売開始が待ち遠しい(もちろん、野次馬として)。
井の頭公園は、井の頭池とその周辺がもっとも人が多いが、吉祥寺通りをはさんだ井の頭自然文化園、さらに400mトラック、三鷹の森ジブリ美術館のある西園、西園の南東の第二公園の4区域に分かれている。
井の頭公園というともっとも近い吉祥寺駅を思い描くが、地図を見ると、ほとんど三鷹市に属していることがわかる。
幾つも入口があるが、吉祥寺通りから入った公園口がメインの入口だ。

今日は反時計回りに池を回ってみる。週日の午後だが、たいていのベンチにはゆったりと座っている人がいる。

池の西端から見ると、遠くに池を二分する七井橋があり、中央に鳥がいる。

鵜(う)だろうか、羽を乾かしている。

西端に湧水がある。看板には、「その昔、当地方へ狩りに来た徳川家康がこの湧水の良質を愛してよくお茶をたてました。以来この水はお茶の水と呼ばれています。東京都」とある。この水が井の頭公園池を作り、神田川の水源になる。

井之頭弁財天、シャンパングラスのような噴水、紅葉を映し、さざ波たつ池。

週日で人が少ないので落ち着ける。

日本庭園にはクロマツに雪吊りと、冬支度が整えられている。

池の南側は池の淵すぐのところに道があるが、倒れこんだ桜の木の下をかがんで潜り抜けないと通れない。

池に覆い被さるように張り出した桜が咲くとそれは見事だ。

今は落ち葉が道を覆う。

池の北側を回ってから帰ったが、つづきは次回。
若いミュージシャンは「生んでくれてありがとう」と叫ぶ。「家族は恋人」キャンペーンが行われる。幸せそうな家庭で家庭内殺人事件が起こる。児童虐待が増加する。親が憎いが家を離れられない子供がいる。
「“親子”という古くて新しい問題をあらためて考えてみた」というのがこの本だ。
出生の秘密に過剰にこだわり、現実に問題が起きるたびに、「どうして生んだんだ」「望まれていなかったなら生まれなければよかった」と考える人が多くなった。
「親には必ず母性愛があるはずなのに、その親に愛されなかったのは私が悪いから」と考える娘たちは、せめて「役に立つ私、必要とされる私」になることで自分の存在根拠を獲得しようとする。だから、「母親の支配を逃れる」とは「母親の役に立たない自分になる」ことと同じであり、それはさらに「存在価値のない私」になってしまう、ということでもある」
第1章 親を殺す子どもたち
第2章 「なぜ生まれたのか」と問い続ける子どもたち
第3章 母に依存する娘、娘を支配する母親
第4章 母の愛は無償なのか
第5章 母性が加害性を持つとき
第6章 理想の家族にひそむワナ
第7章 「親子という致命的な病」への処方箋
第8章 親子という病のために「まだできること」
こんな調子で親子のさまざまな問題と、その心理分析が語られる。そして最終章で、あらゆる親子関係は病的で、永遠に治療不可能な病気だと結論される。
一つの処方箋、「母親に対する怒りを自覚し、親の押し付けにNOと言う。そのときに罪悪感は必要経費を割り切る」を主張する人がいる。また、「母親もそうならざるを得なかったことを自覚し、意図的に距離を置く」ことを主張する人もいる。
しかし、これらの処方箋は、実際には実行不可として、著者自身の処方箋が以下のように語られる。
酸欠状態の密室化した家庭では問題がより深刻になる。親子という病はもう治らないのだから、家族から少しでも目をそらし、社会へ目をやり、身をおくことが対処療法として最善だ。
著者の香山リカは、1960年北海道生まれ。東京医科大学卒。精神科医。立教大学現代心理学部映像身体学科教授。臨床経験を生かして、新聞、雑誌などの各メディアで、社会批評、文化批評、書評など幅広く活躍。
私の評価としては、★★★☆☆(三つ星:お好みで)
幸せそうに見える家族、親子にさまざまな問題が存在することは分かった。しかし、当然ながら、あらゆる親子間の問題に適用できる明解な処方箋はない。
私には、ごくたまに、幼い頃の光景がふと浮かぶことがある。
母に連れられてデパートを歩いている。心細くて、母の着物の袖をしっかりとつかんでいる。母がいくぶんじゃけんに言う。
「そんなにひっぱったら歩きにくいでしょう」
びっくりして、あわてて手を放す。
ただそれだけの光景だが、いまだに心に焼き付いている。
私は、兄が亡くなった直後に生まれた一人っ子であったから、愛情に十分恵まれて育った。そんな私でも、こんな些細なことが60年経った後でも、かすかな心の傷になっている。
ましてや、虐待された子供の傷はいかばかりのものなのか。
11月に引越したマンションは駅までバスで10分以上かかる。通勤しなくなると、朝早く駅に行かなくてはならないことは少なくなる。たまに駅前まで出る用事があっても、雨が降っていれば、翌日に延ばすことが多い。毎日でなく、きっちり決められた時刻もなければ、バスも苦にならない。
引越から1ヶ月たち、駅前に出かけるときは快適にムーバスを利用している。
ムーバス(Moo-Bus/MOVE US)は、一般バスルートから遠い地域を巡る小さなバスで、100円と安い。東京都武蔵野市が運営するコミュニティバスだ。

1995年当初は吉祥寺駅北口を起点に駅の東側を周回するコースのみで運行されていたが、後に北西ルートも運行を開始し、現在ではさらに三鷹駅、武蔵境駅を起点とする7ルート・9コースに拡大されている。
武蔵野市は計画当初、バス会社3社に運営委託を打診したが、関東バスだけが、赤字の全額補填を条件に引き受けた。当初は計算通りの赤字だったが、乗客は増え続け、2000年度には遂に黒字に転じた。現在も黒字だという。自治体事業で珍しい話だ。
ムーバス車両は住宅街の6m未満の狭い道を走行するため、全幅約2m、全長約7m、全高約3m、乗車定員約30名の日野自動車製小型ディーゼルバスを使用。

バスの乗降口には地上高15cmの電動補助ステップがあるバスも数台導入済みだ。
以下、同様のバス、オーストラリアのCAT( Central Area Transit)バスと比べてみる。
長らく更新していない私のホームページ「ロングステイのための パース事始」の「交通」 「CATバス」 参照
CATバスは、パースの中心地域内、つまり大通りを循環運行する。
パース駅から赤、黄、青色で区別される3ルートある。
車両はムーバスより一回り大きい。

席はすべて前方を向いており、横向きの席はない。また、もともと床が低くなっているが、歩くのが不自由なお年寄りや車椅子の人が乗り降りする時は、運転手がさらに車体ごと車を傾け、段差を少なくする。社内にベビーカーや、車椅子用のスペースもある。
CATにはけっこう車椅子の人が乗ってくるが、ムーバスでは車椅子の人を見たことがない。

バス停には、次のバスが来るまでの時間(分)が表示され、ボタンを押せば、残念ながら英語だが、音声で時間を教えてくれる。もちろん、オーストラリアのことだから、ときどき無表示になったり、常時18分と表示されたりする。

祝日は運休する。土日は本数が少なくなる上、終了時間になるとルートの途中でもそこで止まり、乗客は降ろされるらしい。
オーストラリアではシステムで出来る限りのサービスはするが、乗務員の労働強化になることは絶対にしないという考え方なのだろう。
利用する人も違う。CATでは、大部分の人が「Thank you!」と運転手さんに言ってCATを降りる。ムーバスでは「ありがとう」と言って降りる人はほんのたまたまいるだけだ。奥さんは乗るときに「お願いします」と言うようだが、降車口から運転手さんに大きな声で「ありがとう!」と言うのは恥ずかしい。
そして、なにより違うのは、料金。ムーバスも一般バスが210円のところ100円(回数券買えば91円)で安いのだが、CATは無料だ。
オーストラリアは、税金は高いが、高度な医療を除き、また長い期間待たされることをいとわなければ、医療費は無料で、老後の施設なども心配ない。金持ちだけが高い金を払い、高度な医療を受け、優雅な老後を過ごす。この考え方は合理的だと思う。
ムーバスを便利に使わせてもらっているが、ぜいたく言えば、無料にならないだろうか。武蔵野市も大企業があるためか、財政は豊かそうだが、それでもムーバスを無料にするという考え方はそもそもないのだろう。
ちなみに、今月の市報によれば、職員平均給与(給料+手当)が年739万円。例えば、清掃職員や、学校給食員は、民間の2倍の860万円をもらっている。
さもしいようだが、出所が税金であることを考えれば、同じような仕事していて2倍はないだろう。米国なら抗議殺到だ。
ムーバスの便利さを書くつもりが、市報を見たために話が混乱してしまった。
私は、週刊誌は買わないと決めている。40年ほど前にアクセサリーとして朝日ジャーナルを1冊買っただけだ。図書館の近くに住んでいるので、奥さまがときどき東洋経済、週刊朝日などを借りてくる。
今回は、読売ウィークリーの「団塊の仕事・家庭・生き方」という記事から、仕事の部分だけを紹介して、私の場合を付け加える。
30年以上民間企業で勤務経験のある58歳-61歳の200人に、定年後の生き方について実施したアンケート結果の紹介がある。
仕事を続けているか? 会社勤め:63 % 、起業など:9.5 %
なぜ、仕事を続けているか?
お金が必要:57 % 、技術やノウハウを生かす:20 % 、生きがい: 14 %
仕事上の不満は?
仕事は同じで給料が非常に少なくなった。
会社の評価が低い
主体的に仕事できない、権限がない
私は50歳代のときは、65歳まで働くつもりでいた。働くこと以外はいつでも逃げられる遊びで、一生懸命になれないような気がしていた。
60歳の定年後は、ラインを離れて、支援する仕事にまわった。サボればサボれる仕事だった。自律しなければ自分自身がだめになると思い、テーマを絞り、深く仕事することにした。例えば、データ投入、グラフ書きなど細かい仕事も全部自分でやり、狭い範囲だが自己満足できる程度まで深く仕事した。もはや会社の評価は気にしなくなったが、グループの売上、利益に直接貢献していない仕事を長く続ける気持ちにはなれなかった。
若いときは給料のために仕事しているんじゃないと思っていたし、それなりの給料をもらっていたからだろうが、金額は気にしなかった。いや、そんなに神経質にはならなかった。
50代後半から給料が伸び悩み、わずか下がりだすと、ちょっと考えが変化した。定年後、給料が1/3になると、さすがにやる気を出すのが難しくなった。
結局、既に年金をもらい始めていたこともあり、62歳で会社をやめた。その後、のんびり海外旅行、ロングステイなどを楽しんで3年以上経過した。
80歳まで生きると、定年後の自由時間は会社で過ごした総労働時間と同程度の約8万時間になるそうだ。これ以上、奥さんにうっとうしがられないためにそろそろ何か始めるか。さて何を?

入口を入ると、諏訪大社の勇壮なお祭り、御柱大祭で使われた綱が展示されていた。

ガレの作品
ガラス作品を芸術の域に高め、同時に産業としても成り立たせた。しかし、製作年限は短く、家族、弟子が継いだ。何層も重ねるなどガラスの扱いに優れている。
花形ランプ(1902年-1904年、ガレ)
傘状に下向きに花が開く園芸植物のアプチロンをかたどった電気スタンド。

クレマチス文ランプ(1894年-1931年、ガレ工房)
ガレの銘が入っている。


フランスの薔薇(1902年頃、ガレ)
ガレはフランス東部のナンシーで生まれた。1870年の普仏戦争でフランスはドイツに敗れ、ナンシーも含めたアルザス・ロレーヌ地方がドイツに割譲された。
ガレは語る。「“フランスの薔薇”は、ロレーヌのサン・カンタン山でしか流血を象徴するような赤い花を咲かせません」そして、この花がドイツ領となったサン・カンタン山でも赤い花を咲かせ続けたことを訴えて、この「フランスの薔薇」という作品を作った。

蝶文ランプ(1900年-1910年、ガレ)
なんと複雑な文様。

ドーム兄弟の作品
ガレに刺激されて美術作品を作成し始めた同郷のドーム兄弟は、繊細で可憐な作品が多く、色使いに特徴がある。
菫(スミレ)文ランプ(1909年頃、ドーム)

ロレーヌ十時文香水瓶(1895年、ドーム)
香水瓶にしては大きいが、ガラスもこんな色になるのだ。

ラリックの作品
置時計 二人の人物(1926年、ラリック)
ラリックはアール・デコと呼ばれる装飾美術の巨匠で、洗練されたデザインの透明なガラスが特徴。透明なガラスの表面は平らなままで、裏側を掘って、エッチングしてやわらかな白色にしている。

ワルターの作品
松笠文鉢(1920年代、ワルター)
色ガラスの粉を石膏の型に詰め、型ごと窯に入れる。

新館付属のガラスショップで、北川宏幸という人の作品展・販売会をやっていた。なかなか手の込んだ陶器で、複雑な色合いだ。いつもお茶を飲むぐい飲みを新しいものに替えたかったので、8400円なりでご購入。手の中へのおさまりも良く、ご機嫌。

奥さまはショップの中を、ガレ風のランプを求めて見て回ったが、本物を見たあとではどれもチャチで結局何もご購入にならず。なんかまずい雰囲気。
帰り道、せめてもと、奥さまの好きな平山郁夫の絵がある平山郁夫シルクロード美術館へ寄った。小淵沢ICで降りて、甲斐小泉駅に隣接する場所にある。平山郁夫の新作とガンダーラの仏像、古代の金貨などが展示されている。
平山郁夫の作品は、夜は必ず満月が、日中の砂漠には夕陽が輝き、まとめてみると飽きてしまう。
激しい雨の中央高速を120kmから130kmと安定した走行で東京へ帰った。

好きな作家を2点だけ。
東山魁夷の「月影」

母が好きだった山本丘人の「青い海」

喫茶室で一休み。大きなガラス窓の外は雨。イチョウの葉はすっかり落ちて、くねる生垣を一面に覆っている。


道路の向こう側は土手になっていて、その向こうに諏訪湖が見える。
かすむ諏訪湖、風にゆれる柳、まばらに立つ木々、枯葉が敷き詰められた土手、雨で光る道。なんでもない風景だが、まったり見ていると、絵になりそう。
しかし、僕には絵筆がない。絵を描く腕もない。心を打つ文章も書けない。ただ、デジカメがあるだけだ。そこでパチリ。

この景色がすばらしいというより、見ている私の心がそぎ落とされて、寂しげな初冬のこの景色がしみわたるのだろう。
心地良い作品、絵を見た後で、賞を受賞したという美味しいチーズケーキ、薄めのエスプレッソ、そしてガレを見てご満悦の奥様を目の前にすれば、幾分寂しげなこの景色が、涼しく、透き通り、私の原風景とも思え、少しずつすがすがしい満足感が満ちてきた。
隣にあるサンリツ服部美術館にも寄ろうと思ったら、展示替えのため休館だった。
次回は北澤美術館新館。
諏訪湖畔の北澤美術館を訪ねた。
エミール・ガレに代表されるフランス・アール・ヌーヴォー期のガラス工芸700点と、現代日本画200点を持つ美術館で、車で10分程度離れたところに北澤美術館新館がある。

暗い部屋でフラッシュ禁止だったが、写真撮影可能だったので、まずはいくつかご覧あれ。
エントランスホールに面したブロンズの扉を押し開けると、オレンジ色の光を放つエミール・ガレの代表作「ひとよ茸ランプ」がある。お土産やで小さな模造品を売っているが、実物は高さ83cmとけっこう大きなものだ。実際はもっとあざやかなオレンジ色だ。

1階の部屋の中には、照明を落とした暗がりの中に、壁沿いの展示ケースと、中央部のガラスケースにガレの作品を中心として常時40点前後が展示されている。

矢車文花瓶(1895年-1900年、ガレ製作)
実物を見ているだけで心がおだやかになっていく。

かまきり文エマイユ彩月光色鉢(1884年-1904年、ガレ製作)
月光色ガラスと銘銘された鉢に菊とカマキリを描いてある。

トンボの絵のある淡い色のランプ。実際はもっとほのかで甘くやわらかい。

石楠花文ランプ(1918年-1931年、ガレ製作)
ガレ工房作の大量販売用作品で、派手すぎる。お土産屋にあるのはこの手の作品の粗悪なコピーが多い。

蜻蛉文鶴頸霜瓶(1889年頃、ガレ製作)
水面に落ちていくトンボ。ガレはなぜか、死にゆく昆虫や枯れた花を描くことが多い。

双魚形花瓶(1890年頃、ガレ製作)
鯉は葛飾北斎の北斎漫画からの引用。

ガレはガラス作品のデザイナーで、ガラス工房の経営者でもあった。彼自身がガラスを製造することはなかったという。ガレ自身がデザインした作品の製作期間は数年に過ぎず、技術を継承した工房や、弟子の作品にもガレの名前がつけられ、ガレ・ブランドで大量に作品が販売されている。
多くの署名は以下で、

中には縦書きのものもある。

長くなったので、2階の現代日本画、喫茶店は次回。
ともかく話しだけでもと、店に入り、ご主人の話を聞く。話しているうちに、ご主人も奥さんものってきて、話が終わらない。さんざ講釈を聞かされたあと、ともかくと、私がおそるおそる値段を聞くと、220万円という。まったく縁のない世界の話だと、私はそうそうに店を出たが、奥さんはいつまでも話し込んでいて出てこない。
まさかとは思うが、だんだんやばくなってきたので、私も再び店に入り話しに加わった。周りの電気を消して、淡く光るランプの光だけにしてさかんにアッピールしたりする。ご主人が「近くのデパートでアンテーク・ガラス工芸展をやっているが、そこと比べてもらえば、こんな良い物がこの値段で買えないことがわかりますよ」という。これ幸いと、ともかくそこも一度見てみようと、その場を収め、デパートへ向かった。
デパートの方は、数十万から百数十万円といった値段の品が並んでいたが、幸いこれといったランプはなく、そのまま、骨董屋への道は避けて自宅へ戻った。
しばらくして、急に、明日は結婚記念日だから熱海のこの宿と、このレンタカー屋に予約して、箱根に行きましょうと言い出した。箱根の宿は満杯だったらしい。
例年は、結婚記念日や誕生日の翌日に、「昨日は何の日だったか分かりますか?」と聞いてくるのが慣わしなのだが。25周年の銀婚式も何もやらなかったし、たしか今年は35周年だ。
そういえば、だいぶ前から箱根に行きたいと言っていたような気がする。それなら箱根ガラスの森美術館かなと調べてみると、ガラスのアンティークは諏訪の北澤美術館の方が多いらしい。ちょうど新館でアール・ヌーヴォー、アール・デコの「らんぷの明かり展」を開催している。そこで、前日に熱海をキャンセルし、諏訪の宿を予約した。
翌日、いつものようにのんびりと午後から出かけ、レンタカー屋でマツダのデミオを借りる。中央高速は相模湖あたりまでは混んでいて思うように走れない。山梨に入ると空いてきた。ともかく今日こそは80kmでおとなしくと思っていたが、あまりにも遅い車を追い抜いて走行車線に一度出ると、あとは120-130kmでひた走り。それでも2時間ほどかかって諏訪インターで降りる。
湖畔を少し走って、宿に入る。白鳥型の遊覧船のまつげが長い。

宿の窓から見える、小島は、花火の打ち上げ場として作られた人口島の初島だ。

小雨が降っていることもあり、宿から一歩も出ずに夕食を待つ。
北澤美術館については次回。
表紙の裏には、
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資産価値あるマンションや一戸建ての定義を、勘違いしている人が多い。どんなに耐震性能が高くても、どのなに眺望がよくても、どんなにリビングが広くても、衰退することが運命づけられた街の住宅を買ってしまったら、すべては水の泡である。
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以下、主張のいくつかをご紹介。( )は私のコメント
衰退する街と繁栄する街の分岐点
都心にあるだけでは土地の価値は決まらない
渋谷区広尾を超高級マンション「広尾ガーデンヒルズ」は築20年以上だが、売買取引価格は下がらないどころか、上昇基調にある。一方、上野駅周辺の住宅地は新築マンションの価格は安いし、中古の値下がり率も大きい。
千代田区、港区は昔の武家屋敷で、高級住宅地だ。町人が住んでいた浅草、上野など下町エリアは人気がない。
(東京に長く住んでいると、なんとなく地域ブランド価値は分かってくる。しかし、ブランド価値がなんににより高まるのかは、この本からもはっきり読み取れなかった。江戸時代にさかのぼるほど地域のブランドを高めるのには長年かかるのだろうか?
もちろん、このブランド価値は、個人的なじみ、親しみに基づく価値とは別物で、他人に売るときの金銭的価値だ。ちなみに、この本のタイトルにある「幸せか」は適切ではない。本の内容は「儲かるか」に限られている)
短期間で大規模開発されたニュータウンほど、街の衰退が著しい
子育てを控えた地方出身のサラリーマンが大挙して入居する。しかし、20年も経つと、子供は出て行き、商業施設も撤退が始まり、街は衰退していく。
(私が住んでいた団地でも、15年経つと、子供の声が聞こえなくなり、散歩する老人はゆっくり歩き、連れられた犬もよたよた歩くようになる)
不動産価格算定法
不動産を買う前に立地を買い、立地を買う前に街を買え。急成長している街を選ぶと、自動的に衰退する街を選ぶことになる
世田谷区、杉並区、目黒区など人気エリアは築30年のマンション価格は約30 % 減価する。一方、隅田川や荒川流域周辺の築30年のマンションは60 % 減価する。
不動産の価値は貸したらいくら儲かるかで決まる。この収益還元法での不動産の資産価値計算式は以下だ。
不動産の資産価値=月額賃料(純収益)*12ヶ月/期待収益率(期待利回り)
月額賃料の純収益は税、修理費などを差し引いて計算するが、おおざっぱには賃料の80%とすることでよい。期待利回りは、品質良好なら6 % から8 % だ。ただし、金利が低く東京なら5 % が妥当とされる。
都内55エリアのデータ
後半に、都内55エリアの特徴とファミリータイプ中古マンションの標準価格と賃料が書かれている。著者によれば、価格と賃料について、約2万件のマンションの成約事例をベースに「重回帰分析」という統計的手法で将来傾向を分析したものという。
私の評価としては、★★☆☆☆(二つ星:読めば)
街の衰退する様子が書かれてある部分は面白く読んだ。不動産の資産価値計算法も、みじかな例で計算してみて、ほぼ納得いくものだった。
しかし、一般的な不動産の評価方法の話題として読むのは良いが、具体的に不動産を探したり、借りたり、売ったりするための情報としては偏りがある。なにしろ、記述地域が我々には縁のない都心の一等地が中心だ。