hiyamizu's blog

読書記録をメインに、散歩など退職者の日常生活記録、たまの旅行記など

米澤穂信「ボトルネック」を読む

2010年07月30日 | 読書2
米澤穂信著「ボトルネック」2006年8月、新潮社発行、を読んだ。

表紙裏にはこうある。
恋人を弔うため東尋坊に来ていた僕は、強い眩暈に襲われ、そのまま崖下へ落ちてしまった。―はずだった。ところが、気づけば見慣れた金沢の街中にいる。不可解な想いを胸に自宅へ戻ると、存在しないはずの「姉」に出迎えられた。どうやらここは、「僕の産まれなかった世界」らしい。


パラレルワールドに迷いこむ話で、自分のいた世界と存在しなかった世界の違いを次々と探っていき、そこから秘密が明らかになっていく。この部分は興味を惹かれる。
ただ、出だしから好きな人が死に、植物状態の兄も亡くなり、父と母には別に恋人がいるという暗く暗い話が始まる。しかも、主人公は高校1年生なのだが、感情を無くしていて、しょぼくれた中年男のようにまったく覇気がない。

姉が脳天気で救われるし、舞台は、米澤さんが大学時代を過ごした金沢市内で、多少知っている道なども出てきて暗い空の北陸の雰囲気がよく出ている。



米澤 穂信(よねざわ ほのぶ)1978年岐阜県生まれ。岐阜県立斐太高等学校、金沢大学文学部卒業。大学卒業後も、2年間だけという約束で書店員をしながら執筆を続ける。
2001年、『氷菓』で第5回角川学園小説大賞奨励賞(ヤングミステリー&ホラー部門)受賞てデビュー。
その他、『遠まわりする雛』『さよなら妖精』『春期限定いちごタルト事件』『愚者のエンドロール』など。
「このミステリーがすごい! 2010年度版」で作家別投票第1位を獲得。09年度版の第1位は道尾秀介氏。



私の評価としては、★★★☆☆(三つ星:お好みで)

自分が生れず代わりに生まれた姉の世界が、自分のいた世界よりすべての面で良い状態になっていることに気づく。家庭は悲惨で、すべてに消極的で、なんでもそのまま受け入れてしまう高校1年生が、「自分なんて生まれてこなければよかった」とどんどん追いつめられる話だ。
といってもめっぽう暗いわけではなく、自分が存在した世界としなかった世界が徐々に比較され、姉や好きだった彼女の謎が明らかになっていくミステリアスな部分は面白い。

ネタバレとも言えないが、以下ラストシーンに触れるので、白文字とする。
父が、母が、そして兄がどうしようもないと思っていたのに、実は自分がボトルネックだったという話では、やりきれない。
ラストで2つの道が示され、結論は読者に委ねられるのだが、
真っ暗な海と、曲がりくねった道。それは失望のままに終わらせるか、絶望しながら続けるかの二者択一。そのどちらもが、重い罰であるように思われてならなかった。
とあくまで暗い。ただ最後に届く姉からの携帯メールに救われる。


以上

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オーストラリアでの食卓

2010年07月29日 | パース(3)
パソコンの中をのぞいていたら、毎日の食卓の写真がゾロゾロ出てきた。2006年3月初めから4月の中にかけてオーストラリアのパースに滞在したときの写真だ。南半球だから夏から秋の初めだろう。

脂っこいものがこれでもかとばかり大量に出てくるレストランを避けて、調理道具や、食器類は一応そろっているコンドミニアムで、ほとんどの日は自炊していた。夕16食、朝12食の食卓の写真が丹念に撮ってある。

朝はパンで、夕飯の主食はご飯だが、オーストラリア産のコシヒカリは、けっこうおいしくて、メチャクチャ安い。

夕飯のメインは、牛のステーキが七食、魚五食、鶏三食、野菜一食だった。私たちは、日本ではほとんと肉は食べないのだが、なにしろオーストラリアは牛肉が安く、びっくりしてついつい買ってしまう。しかし、スーパーの棚には、小さな肉が少なく、しかも、肩だか“すね”だかわからないが、やたらと牛肉の種類が多く、選ぶのが大変だ。薄切り肉がないし、こった料理は出来ないのでついついステーキになってしまう。






魚は種類が少ないし、肉に比べ高く、切り身しかない。鮮度が不明で、鯛もどきの煮魚か、サーモンのムニエルになってしまう。スーパーでも生カキは売っているのでたまには夕食に並んだ。





ときどき、日本人の店員さんのいる魚屋に行き、刺身や、アラの煮付け、それに大きな茹でロブスターを買うのが楽しみだった。







昼飯はカフェなどで食べることが多いので、朝も、夜も、サラダや、野菜の煮物を食べるようにしていた。野菜は日本と変わらないものも多いが、安く大きい。旬をはずれた野菜はほとんど見かけないので、露地ものしかないのだろう。





安くて美味しいマンゴーが季節はずれだったが、果物は、豊富で安い。



トマトは日本の方が美味しいが、野菜というより果物なのだろう。日本のイチゴもはるかに甘く美味しいが、これも果物というよりお菓子になっているのだろう。オーストラリアのほとんどの野菜、果物が日本のものより桁外れに大きいのだが、リンゴだけははるかに小さい。想像するに、オーストラリアでは間引かずに手をかけないが、日本では間引いて、一つ一つを大きく育てるのだろう。

スイーツは、甘さ控えめなどという考えはなく、ただただ甘く大きく、デリカシーのかけらもない。

こまかい心遣いがなく、素材で勝負するオーストラリアと違って、日本では野菜、果物などにも手をかけて、自然のままの状態を抜け出して、食べやすく、より美味しくしている。しかし、一方では値段が高くなってしまっているし、逆に高くするため、あれこれ品を変えていらぬ工夫をしているとも思えてくる。


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「老後に本当はいくら必要か」を読む

2010年07月26日 | 読書2

津田倫男著「老後に本当はいくら必要か」祥伝社新書192、2010年2月、祥伝社発行を読んだ。

「タイトルに偽りあり」だ。
老後の危機をあおって高リスクの商品を買わせていると銀行や証券会社の批判をし、老後の資産管理については、安全第一と当たり前のことをいうだけだ。そして、老後に必要な金額についても、過ごし方などによってさまざまだと言う。

表紙裏にはこうある。
もう、老後を思いわずらうことはない
老後の不安が世の中を被(おお)っている。何億円必要だとか、どれだけの保険に入らなければとか、さまざまな情報が飛びかう。だが、本当にそんな大金が必要なのだろうか。
そこに、金融商品を売り込む側が付け込む余地が生じる。虎の子の退職金を金融商品に注ぎ込んで、無くしてしまった人がいかに多いか。金融商品のカラクリを熟知する著者は、けっして手を出してはいけないと、警鐘を鳴らす。
大きな経済成長が見込めない日本において、資産を増やすなど無謀な話だと見極めることが大切。年金プラス月に二万円?もあれば充分に自足できることを、さまざまな角度から検証する。


証券会社は、大金持ちが損した場合には、さまざまな方法で取り戻すように手を打ってくれる。現金資産100億円以上が大金持ちで、10億円以上が中金持ちとすると、それ以下の小金持ちは熱心に勧める商品や、分かりにくい商品を買ってはならないし、おいしい特殊市場にはもともと参加させてもらえない。

定年後の心配が要らぬ理由(現実論)
1. 政権交代、つまり政治の変化
2. 高齢者の生活防衛意識の高まり
3. 企業が高齢者を受け入れてくれる希望
(要するに、圧倒的な多数派となる高齢者が立ち行かなくなる社会にはならないという楽観的主張)

定年後の心配が要らぬ理由(精神論)




津田倫男(つだ みちお)は、1957年松江生れ。一橋大学卒業後、都市銀行、外資系投資銀行などに20年勤務後、外資系ベンチャーキャピタル日本代表を経て、企業アドバイザーとして独立。著書に『M&A世界最終戦争』『60歳からのチャレンジ起業』など。



私の評価としては、★★☆☆☆(二つ星:読めば)

この本には老後に必要な金額は分からないと書いてあるだけだ。もちろん、人それぞれの状況により、また今後の社会の変化により、その金額を示すことはできないだろう。ならば、なぜ「老後に本当はいくら必要か」などというタイトルにしたのか。タイトルにひかれて読んでしまう自分も哀しい。
著者が勧める投資の方針も、リーマンショックの大波、といっても世間水準からみればさざ波、を一人前にかぶった私には当然のものに思える。

内容の主要な部分は、老後の生き方、考え方について述べている。哲学者でも、宗教家でもなく、エリートサラリーマンからベンチャーキャピタルに移った人に、人間は諦観が必要などと人生の生き方の講義をしてもらうつもりはない。上を見ずに下を見て生きろ的な底の浅い精神論にはうんざりだし、著者の勧める中高年起業家への道は突飛すぎる。


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ただいま終わった調布花火大会

2010年07月24日 | 日記
今終わったばかりの調布の花火大会を我が家の居間から見ました。
写真のできは悪いですが、ご覧ください。


















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「ルポ 貧困大国アメリカⅡ」を読む

2010年07月23日 | 読書2

堤 未果著「貧困大陸アメリカⅡ」岩波新書1225、2010年1月、岩波書店発行を読んだ。

著者の前著『ルポ 貧困大国アメリカ』(岩波新書)が刊行された2008年秋にリーマンショック、経済危機が起こり、その後希望の星オバマの政権が誕生した。生活現場の声を取材した結果は、教育、年金、医療、そして刑務所までもが企業の論理で商品化され、貧困が拡大し、なにかあると中間層が社会の底辺へ直結し、再び立ち上がれない。それが現在ののアメリカ社会だという。
大企業の高額な政治献金が議員をあやつり、オバマになっても、なんにも社会は変っていないという。

第1章 公教育が借金地獄に変わる
大学も企業経営の利益追求の場となり、有名教授を集めるなど学費を増大させた。公立大学の学費は1995年から10年で59%も上昇した。一方、公的奨学金は企業の学資ローンに押しまくられて縮小する。学資ローン業界が政治家を動かし、学資ローンは消費者保護法からも除外され自己破産もできない。

第2章 崩壊する社会保障が高齢者と若者を襲う
もともと小さな公的年金が企業年金の拡大で縮小した。その企業年金も、最終的な給付額が本人の自己責任になる確定拠出型が主力になり、弱者にますます厳しい。

第3章 医療改革vs.医産複合体
貧乏人はますますひどい医療しか受けられなくなってきた。オバマの目指した単一支払い皆保険は、医療保険業界と製薬会社により潰されて、公的保険+民間保険にすりかわった。貧困層だけでなく中間層へも危険が迫っている。

第4章 刑務所という名の巨大労働市場
刑務所での労働の時給は40セントで、部屋代と医療費が一日2ドル引かれて赤字がたちまり返済不能な額まで膨れ上がった。企業も第三世界よりもローリスク・ハイリターンの囚人労働者に目をつけている。民営刑務所は軍需産業やIT産業と並んで人気上昇中の投資先だ。利益を増大させるために、ホームレスがどんどん刑務所に送られている。



堤 未果(つつみ・みか)は、東京生まれ。
ニューヨーク市立大学大学院国際関係論学科修士号取得。
国連婦人開発基金(UNIFEM)、アムネスティ・インターナショナル・NY支局員を経て、米国野村證券に勤務中、9・11同時多発テロに遭遇。
以後、ジャーナリストとして各種メディアで発言。執筆・講演活動を続けている。
著書に、本書の前編である『ルポ 貧困大国アメリカ』(日本エッセイストクラブ賞、新書大賞2009受賞)
『グラウンド・ゼロがくれた希望』、『報道が教えてくれないアメリカ弱者革命』(黒田清・日本ジャーナリスト会議新人賞)、『アメリカは変われるか?』など。



私の評価としては、★★★★☆(四つ星:お勧め)

アメリカの負の情報はよく聞こえてくるようになったが、これほどひどいとは思わなかった。意見がほぼ自由に言えるアメリカがこんな状態のままで進むはずかないとも思う。ひどい話だけ集めたのではないかとの疑いも残る。
ルポという形なので、個別の例だけで,統計などマクロに見たデータも同時に示してもらわないと、全体像が見えない。
いずれにしても、日本でも福祉重視の声の一方で、いぜん市場原理、グルーバリゼーションが叫ばれている現在、豊かなアメリカの一断面を是非知るべきだろう。

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「コンサート自由の風の歌」を聞く

2010年07月21日 | 趣味
「コンサート自由の風の歌」を四谷区民ホールで聞いた。7月17日のことだ。
このコンサートの入場料は破格の2000円だが、卒業式などで国家斉唱のとき起立しなかったり、ピアノの伴奏をしなかったため処分された教職員の裁判を支援するために使われる。*1

昨年も開催されて、ブログを書いたのが6月15日で、「これで最後になりそうだという。残念だ。」とあるが、今年も開催された。
今年の会場は四谷区民ホール。新宿御苑入口のすぐそばにある。





9階に上がると、新宿御苑が一望だ。代々木のドコモのビル(塔)も見える。



今回も、集まった人は50歳以上と思われる女性が圧倒的で、いかにも教師といった地味な服装の人が多い。

今回のサブタイトルは、「百年の氷、溶けよ!」で、今年が日韓併合100年にあたるためだ。*2 このため、演奏曲も朝鮮のものが多かった。

オープニングは林光さん*3 のピアノでバッハの「前奏曲とフーガ ハ長調」。
林さんは、パンフレットに、
バッハはなにかの感情を表そうとしなかった。ただ、すべての音があるべき秩序で並べられるように努力しただけだった。けれども、そのようなバッハの音楽が、わたしたちをあるいはなぐさめ、あるいは励ます力を持っている。

と書いている。バッハは単調で、堅苦しく、私もけして好きとはいえない。しかし、のんびり、静かに聞いていると、いつのまにかぴったりきている。この曲は明るく、コンサートの序曲としてふさわしい曲で、演奏だった。

次は、崔善愛(チェ・ソンエ)さん*4 のピアノと、三宅進さん*5 のチェロで、林さんがこのコンサートのために作曲した「序奏、<トラジのために>」の初演だった。
崔さんは、「私たちはクラシック奏者なので、作曲者ははるか昔に亡くなっていて、自由に演奏できる。しかし、今朝、作曲者の林さんの前で、二人で演奏して、やりにくかった」と話していた。
この他、どこかで聞いたような朝鮮民謡「故郷の春」と、尹伊桑(ユン・イサン)*6作曲の「ノレ」(歌)。

第1部最後が、ユニークな風貌でニコニコ顔の吉村安見子さん*7と、林さんの歌とピアノ。

休憩をはさんで、第二部は、崔善愛さんによる今年生誕200年のショパンで始まった。遺作となった「夜想曲 嬰ハ短調」は激しい曲で、ショパンにもこんな曲があるのかと驚いた。また、彼女の在日としての悩みなどの話しは深く考えていることを思わせた。変な言い方だが、日本人であることを何にも考えない私などは、恵まれているのか、そうでないのか。

次に、橋爪恵一さんのクラリネットと林さんのピアノで尹伊桑の曲、沖縄童歌があり、最後に
教職員と市民有志による「自由な風の歌5合唱団」の、カタルーニャ民謡鳥の歌、スペイン民謡ラ・タララなどで盛り上がって終了となった。



*1:私は君が代も、日の丸も好きでないが、国歌と決められているので、歌われるときには起立するのが当然だと思う。しかし、どうしても起立したくない人にどうして強制するのだろうか。処分までするのは、そういう人を排除したくて、そのための踏み絵として国歌を利用しているとしか思えない。

*2:多くの日本人は、もはや韓国を圧迫しているなどと思っていないし、逆にその勢いに危機を感じているだろう。だから、「日韓併合」については、昔の話しで、とくに関心もない人が大部分と思う。しかし、朝鮮半島の人にとって、目の上のこぶ、日本に征服され、従わされた屈辱の経験として忘れられないのだと思う。とくに、在日の人には未だに現実の大きな問題なのだろう。

*3 :林光は1931年生れの作曲家。うたごえ運動では、林さん作曲の歌が多く歌われていた。サントリー音楽賞受賞のオペラ「セロ弾きのゴーシュ」、モスクワ音楽祭・作曲賞受賞の映画音楽「裸の島」や、合唱組曲「原爆小景」が有名で、著書も多い。

*4 :崔善愛(チェ ソンエ)は、北九州出身。愛知県立芸術大学、および大学院修士課程修了。後に米国インディアナ大学大学院に3年間留学。ピアニストとしての演奏活動のかたわら、全国各地で「平和と人権」をテーマに講演をおこなっている。著書に「自分の国を問いつづけて―ある指紋押捺拒否の波紋」

*5: 三宅進は、チェリスト。桐朋学園、インディアナ大学で学ぶ。群馬交響楽団首席チェロ奏者を経て、現在はソロ、室内楽、主要オーケストラへ首席奏者などとして活躍している。崔善愛さんの夫。

*6 尹伊桑(ユン・イサン、1917年 - 1995年)は、朝鮮(現韓国)生れで、おもにドイツで活動した作曲家。

*7 吉村安見子は、フリーのピアニスト、歌手。国立音大を途中でやめて、小コンサート活動を開始。日本各地を巡って幅広く歌い、演奏している。さまざまな劇団と共演して舞台ピアノの演奏も行う。



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空を見るのが好き   

2010年07月18日 | 個人的記録
空の雲を黙って見ているのが七十歳に近づいた今でも好きだ。

小学生の頃、よく廊下に寝転んで雲が流れていくのをながめていた。変わった形の雲を見つけてじっと見つめる。あまりに変化が遅いので、ボーっと考え事をしていて注意が飛ぶと、いつの間にか雲は動いていて形も変わってしまっている。吸い込まれるような青空に引きちぎった綿のような雲がゆっくり流れていく。

高校のとき、毎朝、神宮外苑の、当時一面の芝生だった広場を横切って学校へ通っていた。始業時刻までまだ余裕があり、空がさわやかに晴れている朝には、よく芝生に寝転んで空と雲を眺めていた。時々は、寝転んだままで一時間目をサボることもあった。いや、学期の3分の1遅刻していたのだから、時々とは言えない。

不来方(*)の お城の草に寝ころびて 空に吸われし十五の心    石川啄木



長いこと天体観察に興味を持ったことはなかった。ずっと東京近郊に住んでいて、しかも近眼なので、夜空の星をじっと眺めたことがなかった。六十歳を過ぎて、オーストラリアを旅行したとき、大陸南端の昔捕鯨で知られたアルバニーという町に行った。車を飛ばして、夜、宿について駐車場から南極の方向の暗い海を眺めた。ふと顔を上げて夜空を見上げたら、一面、星、星、星だった。まさに降るような満天の星だ。「空にはこんなに星があるんだ」と思った。子供の頃からあんなにしじゅう空を眺めていたのに、あの空の奥にこんなにもたくさんの星があったなんて!

さっそく、荷物から、星座表を出して照らし合わせると、「あった!」南十字星が。星座なんて人間が勝手に星たちに合わせて物語を作っただけだと思っていたが、じっと見ていると、ほかの星は消えて確かに十字だけが浮かび上がってくる。
星座表をもう一度見ると、ミルキー・ウエイと書いてある。「う?天の川?」首を回して夜空を眺め渡すと、「あった。あれが天の川だ。そうに違いない」
はじめて見る天の川は、明るい星や、かすかに煙る星がまさにミルクのように埋め尽くす帯のような星の川だった。
しばし、夜空に見とれてたたずんだ。



*不来方(こずかた)は岩手県盛岡市を指し示す言葉


  
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今年の(例年の)墓参り

2010年07月16日 | 行楽

墓参りで麻布十番に行った。
ブログ内検索してみると、墓参り関連の記事が出てく、出てくる。毎年同じことを書いていることをあらためて思い知り、いやになる。日記であり、自分のためのメモなのでしかたないが、発想が完全に固定されてしまっている。
以下、「*」で注を付け、過去ブログを引用する形とする。

南北線「麻布十番駅」からパティオ通りを行くと、小さな公園のパティオ十番があり、一番上にきみちゃんの像*1がある。横浜の港の見える丘公園にある赤い靴を履いた女の子のモデルになった女の子の像だ。



お寺の入口は急坂だ。子どもの頃は「すごい坂」で、大人になって「なんてことない坂」になり、今、年取って、「けっこうきつい坂」になった。*2



小山の上のお寺は木々に囲まれた荘厳な墓地だったが、今や頭でっかちの元麻布ヒルズで景観台無しだ。*2



ブログによれば、約10ヶ月ぶりの墓参りになるらしい。信仰心に欠けた私だが、この墓への思いはある。*3
墓参りの後、七面坂を降りて麻布十番大通りとの角にある魚可津で昼飯とした。



魚可津定食は1000円で、10種類の魚を選べる。
金目鯛の煮付と、



銀むつの味噌漬焼



魚が美味しく、大きく、満足、満腹。みそ汁の具には、滅多に見ないほど大きいアサリが6個も入っていた。

昔から墓参りは一種の行楽なのだ。


*1:きみちゃんの像

 像の下の石にはこうある。
赤い靴はいてた女の子は
今、この街に眠っています。

野口雨情の童謡「赤い靴」の詩にはモデルがありました。
その女の子の名前は「きみちゃん」。
きみちゃんは赤ちゃんの時、いろいろな事情でアメリカ人宣教師の養女に出されます。母 かよさんはきみちゃんがアメリカに行って幸せに暮らしていると信じて雨情にこのことを話し、この詩が生れました。しかし、きみちゃんは病気のためアメリカには行けませんでした。
明治44年9月、当時麻布永坂町、今の十番稲荷神社のあるところにあった孤児院で、ひとり寂しく亡くなったのです。まだ、9歳でした。
母と子の愛の絆を、この「きみちゃん」の像に託して、今、みなさまの幸せを祈ってやみません。

詳しい話しはこのブログ「日本の歌百選+赤い靴の女の子の話」に書いた。



*2:景観台無し
墓参りへ


*3:私の墓への思い
自らの死に方と残された家族の思い


*4:魚可津で昼飯
麻布十番へ






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阿川佐和子「会えばドキドキ この人に会いたい7」を読む

2010年07月15日 | 読書2

阿川佐和子著「会えばドキドキ この人に会いたい7」2009年11月、文春文庫、文藝春秋発行を読んだ。

「週刊文春」の連載「阿川佐和子のこの人に会いたい」の第7集(文庫本)。

堀北真希、岡林信康、薬丸裕英、立川談春、児玉清、布施明、ジェロ、内館牧子、石原良純、中村メイコ、鈴木敏文、中曽根康弘との対談は部分読み。

角田光代
エッセイ等読むと、けっこういいかげんな性格のようなこと書いているが、前日泥酔しても朝6時に起きて仕事場へ向かい、4時45分に片付けをはじめて、5時に仕事場を出るという。なにしろ連載を20個ぐらいもっているというからすごい。18歳以降彼氏が一番長くいなかったのが3か月で、彼氏が社会に向けた窓で、窓がないと何にも興味もない自分だけの世界になってしまうという。恋愛を栄養に書いているらしい。

戸田奈津子
小学4,5年のとき外国映画を見て、あの素敵な連中が喋っている言葉を知りたいと思い、津田塾大に進んだ。当時、字幕の仕事は10人で足りてしまうので、とてもなれず、翻訳や通訳で食べていた。そして、「地獄の黙示録」撮影のコッポラ監督の通訳、世話役をして、彼が、「この映画を良く知っている彼女に字幕を」と言ってくれて、大学卒業後20年でやっとやりたかった字幕の仕事にたどり着いた。
トム・クルーズは仕事の鬼で、百万遍聞かれた質問にも笑顔で「君、いい質問するねっ」と言う。三越からチーズや缶詰を送って来て、熨斗に「お歳暮 トム・クルーズ」とあった。

福岡伸一
大部分の話は、「動的平衡」などのエッセイで読んだ内容だった。しかし、質問への答えは難しくなく、的確、簡潔で要領を得ている。本当に頭の良い人だ。


井上紀子
井上さんは、城山三郎の次女で、「父でもなく、城山三郎でもなく」を書いた人だ。

城山三郎「どうせ、あちらへは手ぶらで行く『そうか、もう君はいないのか』日録」に書いてあったように、城山は極端に誠実、一途な人柄だったようだ。

中嶋常幸
ゴルフを教え育ててくれた猛烈主義の父親に反発し、そしてやがて理解するようになる。タイガー・ウッズを、「運動能力の高さ、試合への準備、勝利への意思、どれひとつとっても世界一でしょう」と言って絶賛しているのが、哀しい。

その他、特別付録として、亡くなった忌野清志郎、筑紫哲也との対談を収録。思い出してみれが、阿川佐和子はかって筑紫さんのサブキャスターだったのだ。



私の評価としては、★★★☆☆(三つ星:お好みで)

幅広い人が登場し、佐和子さんがどんな人にもひょうひょうと遠慮無く聞き、話すのが人気の秘密だろう。寝転がって読むのには、簡単でスラスラ読めるので丁度良い。

阿川佐和子は、1953年東京生れ。作家・エッセイスト。
1999年、檀ふみ氏との往復エッセイ「ああ言えばこう食う」で講談社エッセイ賞
2000年「ウメ子」で坪田譲治文学賞
2008年「婚約のあとで」で島清恋愛文学賞を受賞
「週刊文春」の対談「阿川佐和子のこの人に会いたい」は連載800回を超えた。


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小川糸「食堂かたつむり」を読む

2010年07月13日 | 読書2

小川糸著「食堂かたつむり」2008年1月、ポプラ社発行を読んだ。

25歳の倫子(りんこ)は、突然、恋人に家財道具一式を持ち逃げされ、失語症となる。失意のまま大嫌いな母の住む実家に戻る。祖母に習った料理しかできることがない倫子は、実家の離れで食堂「食堂かたつむり」を開業する。客は一日一組で、面接した客に合わせたメニューを提供する。やがて訪れた客は願いが叶うと噂になり、・・・。失意の倫子がお客を元気にし、倫子も楽しく過ごすようになるが、最後の方で母・・・。

二つだけ引用する。

私は思うのだけど、女系家族の気質というのは、必ず隔世遺伝するのではないだろうか? つまり、おかんは貞淑すぎる実の母親に反発してそれとは正反対な波乱万丈な生き方を選択し、その母に育てられた私は、そうはなるまいと反発し、また、それとは正反対の地道な生き方を選択する。永遠のオセロゲームをしているようなもので、母親が白に塗り替えたところを、娘は必死に黒に塗り替え、それをまた、孫は白に塗り替えようと努力する。


題名、食堂名、「食堂かたつむり」の由来は、
あの、小さな空間をランドセルみたいに背中にせおって、私はこれからゆっくりと前に進んでいくのだ。
私と食堂は一心同体。




小川糸は、1973年生れ。山形市出身。
2007年、絵本『ちょうちょう』
2008年、本書小説『食堂かたつむり』はベストセラーとなり映画化。
2009年『喋々喃々(ちょうちょうなんなん)』
2009年『ファミリーツリー』。
fairlifeという音楽集団で、作詞を担当。編曲はご主人のミュージシャン水谷公生。
ホームページは「糸通信」。




私の評価としては、★★★☆☆(三つ星:お好みで)

夢見る乙女か、のんびり・温かに憧れる女性、あるいは自分だけの特別料理を作りたい人にはお勧め。情景が眼に浮かぶので、映画化したくなる小説だと思う。

吉祥寺の仲道、昭和、大正通りには女性が自分な好きなものだけを並べた、何屋さんだかわからない小さな店がいくつも並んでいる。おなじように、料理好きな女性は、自分だけの小さな食堂を開く夢を持つ人が多いのだろう。失意の中で本当にやりたいことを、自分の手元だけで実現するという物語は多くの女性の理想であり、共感を呼ぶのだろう。

最後の方の劇的な展開は、それまでの静かな流れを乱し、付いて行きにくくする。

また、食事のメニュー、料理法がよくでてくるのも、食べたり作ったりに興味ない私には乗れない。



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だまされて楽しい八幡様のお祭り

2010年07月12日 | 個人的記録

子どもの頃住んでいた町は、代々木八幡宮の近くだった。木々がうっそうとしたちょっとした山になっていて、境内の林の中には、復元された縄文時代の堅穴式住居がある。作家の平岩弓枝の父親が当時宮司だった。

九月にはお祭りがあり、八幡様の階段の登り口から、お社まで出店がずらりと並ぶ。小学生の頃は、お祭りのときだけもらうお小遣いを握り締めて、出店を端から一つずつのぞき込んでいくのが楽しみだった。居並ぶお店の大半はお菓子やお面などの店だが、なにしろまだ戦後の匂いの残る昭和二十年代である、ちっと変わった、というか、いかがわしく、いんちきくさい店も多かった。

先に針をたらした棒が円盤の上で回転するルーレットのようなゲームがあった。針が止まったところに書いてある商品がもらえる。もう少しですばらしい商品のところで止まりそうになるのに、いつもわずか行き過ぎたり、手前で止まったりする。何人もの子供が失敗するのをじっと見ていて、友達と、
「あれはきっと板の下に磁石があって、おじさんが当たらないようにしているんだぜ」
「インチキだ。止めだ、止めだ」と言いながら、
今度こそとついつい見とれてしまう。

望遠鏡のような筒状のおもちゃを売っていた。おじさんが言う。
「これで見ると、なんでも透けて見えちゃうんだよ」
手の指を広げて、このおもちゃでのぞいて、
「ほら、骨が透けて見える」
覗かせてもらうと、確かに手のひらが骨と肉に見える。おじさんが追い討ちをかける。
「女の子を見れば、洋服が透けて見えるよ」
色気が付いた中学に入ってからだったと思う。握り締めて汗をかいた百円玉を渡して、さっそく買った。家まで待ちきれず、さっそく、「物」を見てみる。なんだか、スカートの周りがぼやけて見えるだけだった。
家へ帰って、腹立ち紛れにばらしてしまった。目を当てるところに鳥の羽が一枚入っていて、物がずれて二重に見え、周辺がぼやけるだけのものだった。

実際にがまの油売りもいた。林の中のちょっとした広場で、竹棒で地面に円を書いて、
「この線から入っちゃだめよ」と言ってから、
「さあさ、お立会い、御用とお急ぎのないかたは、」と、
あの有名な口上をはじめる。日本刀を構えて、紙を何枚も切って切れ味を示し、そして自分の腕を切って血が出るのを示す。そして、がまの油をつけると、あら不思議、傷口もなくなっている。そして、がまの油を入れた小さなカンを売る。
最初はお客さんが互いに顔を見合わせているだけなのだが、取り囲んだ輪の外側から誰かがお金を出して買うと、何人かが争うように買い始める。一度すべてが終わってからもう一回見ていると、また同じ人が最初に買う。“さくら”だった。

八幡様のお祭りは、なにか怪しげで、怖いもの見たさの楽しみもあった。そして、今になって思うと、なんだかいんちきも今のようにギスギスしていないで、どこかユーモラスで、だまされることも楽しむ雰囲気もあったと思えてくる。


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川上未映子「ヘブン」を読む

2010年07月11日 | 読書2

川上未映子著「ヘブン」2009年9月、講談社発行を読んだ。

主人公の僕は、斜視が原因で手ひどいイジメを受けている。同じクラスの女子のコジマは、別れた父親を忘れないようにするためあえて不潔な格好をしていて、彼女もイジメられている。二人は隠れて逢ったり、手紙を交換したりする。

「僕」は自分自身で斜視にこだわり、イジメにただ耐えるだけだ。コジマはイジメる側がそのうち気づくに違いない、むしろ彼らがかわいそうと言わんばかりだ。そして、私たちが守りながら立ち向かっているのは、美しい弱さだと考える。
イジメグループの百瀬は「したいことをやってるだけ」、たまたま「僕」で、斜視は関係ないと言う。「他人は別の世界にいるので、イジメられる側のことなど分からないし、罪悪感もない」という。さめた百瀬は、今の多くの中学生のような気がしてくる。

初出:「群像」2009年8月号



私の評価としては、★★★☆☆(三つ星:お好みで)

ただただ、主人公の僕は、イジメを受け続け、抵抗することも、大人にに訴えることもしない。コジマと気持ちを通わせることで切れそうな気持ちに毎日耐えているだけだ。同じような事件の連続に単純な私はイライラしてしまい、読んでいて楽しくない。

コジマや、百瀬の考えは、「僕」との話し合い、議論の中で、はっきりと示され、イジメに関する被害者と加害者の一つの明快な考え方が示されている。中学生では無理もないが、社会との関係に気づいていないので、狭く閉じた範囲内ではどんな考え方でもできてしまうということだと私は思うのだが。

「僕」とコジマが、美術館に「ヘヴン」という絵を見に行き、そして帰る夏の一日の描写は、陰惨なイジメの話の中で、すがすがしくオアシスのように際立っている。また、ラストの「僕」が並木道でたたずむ場面は、光り輝く木々の葉が目に浮かび、秀悦だ。川上さんは詩人だけあっていくつかの場面の描写力はすばらしい。



川上未映子の略歴と既読本リスト



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道尾秀介「カラスの親指」を読む

2010年07月08日 | 読書2


道尾秀介著「カラスの親指 by rule of CROW’s thumb」2008年8月、講談社発行を読んだ。

主人公の「タケさん」こと武沢竹夫は、機械工具メーカーの営業マンで妻と娘の三人で暮らしていた。ところが、妻と娘の不幸な死と同僚の借金の肩代わりから闇金融に巻き込まれ、自身もアコギなことをして心に傷を負う。いまはケチな詐欺師に落ちぶれた彼のアパートへ、これも借金から悲惨な運命に落ち込んだ鍵屋のテツさんが転がり込む。そこに一人の少女が舞い込み、やがてさらに同居人が2名加わり、奇妙な共同生活が始まる。復讐し、過去と訣別するため、彼らは大計画をたてる。

日本推理作家協会賞(長編及び連作短編集部門)を受賞した作品で、作者の道尾秀介は『光媒の花』で山本周五郎賞受賞し、今直木賞候補にあげられていて売り出し中の有望新人だ。

初出:小説現代特別増刊号「メフィスト」2007年9月号―2008年5月号



私の評価としては、★★★★☆(四つ星:お勧め)

闇金にどんどん追い詰められていく描写がリアルで読んでいるだけで息苦しくなる。さらに、キャラが立った5人の変わった共同生活が面白い。初めて知り合ったような他人同士のお互いの関係が微妙で、それでいてバランスが取れている。

後半は漫画のように強引な筋立てで、面白いのだが荒っぽさが目立つ。そして、最後の30ページほどで、都合の良すぎる偶然の出会いなどの謎が明かされ、大どんでん返しになる。この仕掛を何となく予想していた私でも、なかった方が良かったとの思いも残る。

私は、道尾秀介のどうでも良いような小道具が好きだ。
「テツさんの偽名、石霞英吾は、isigasmi。逆さから英語で読んで、アイム・サギシ」
「テツさんが、質屋を騙したときに名乗った名前は小野無斉ONOMUSAY。やすもの」
「鍵屋のテツさんが開錠を頼まれた家に行き、美しい女性に一目惚れし、生まれて初めて女性に声をかけた。『お住まいはどちらなんですか?』」
「親指がお父さん指、人差し指がお母さん、中指はお兄さん、薬指はお姉さん、小指は赤ちゃん。お母さん指は赤ちゃん指とだけ、くっつきにくい。しかし、お父さん指とお母さん指を付けて、赤ちゃん指にくっつけると、簡単につく。両親そろっているのが一番」



道尾秀介の略歴と既読本リスト




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道尾秀介「鬼の跫音」を読む

2010年07月07日 | 読書2

道尾秀介著「鬼の跫音(あしおと)」2009年1月、角川書店発行を読んだ。

webKADOKAWAにはこうある。

・・・2008年各種ミステリランキングで驚異の「二作同時ベストテン入り」を果たし、年末年始の読書界で最も注目を集める作家・道尾秀介。このベストなタイミングで、著者自らが「自信作」と語る新作が刊行されます。
 本書『鬼の跫音』は、道尾秀介初の短編集。・・・


著者は動画インタビューの中で、長編は登場人物間の関係で制約を受けるが、短編はやりたい放題にできると語っている。

初出:野性時代(角川書店)2006年12月号~2008年5月号に不定期掲載されたものに加筆・修正を加えました。

狂気に基づく猟奇的な6つの短編。怪談話のように恐怖をあおる演出、狂気がいや増す男や女。確かに、著者が言うように、短編だからこそ一つのトリックが鮮やかに光る。

鈴虫:妻の元恋人Sが崖の下に落ちて(落とされて)死ぬ。そして死体を埋めたのは・・・。その時侘しげに鳴いていた鈴虫の声が思わぬところで聞こえる。完全犯罪をよそおった不完全犯罪。

犭(ケモノ):家族の中で一人惨めな立場にある青年が偶然椅子を壊す。受刑者が作った椅子の足に書いてあったメッセージの謎を解こうと、かって猟奇事件が起こった福島の村を訪ねる。惨めな上に悲惨となる最後は必要なのだろうか。

よいぎつね:よい狐の祭りの夜に悪友にそそのかされて殺人を犯した私は、20年ぶりに戻った現地で、死体を埋めたのは誰か、夢か現実かも分からなくなる。

箱詰めの文字:作家の家に泥棒に入ったという青年が返しに来たのは、見たことない招き猫だった。その中には作家を破滅に追いこむメッセージが。

冬の鬼:1月8日から始まり1月1日に終わる日記を過去に遡りながらたどる。愛し、愛される人と幸せに暮らしているが、一つだけ違和感があり、その解消を1日に図る。

悪意の顔:陰湿ないじめを繰り返す同級生。人をその中に取り込むというキャンバスを持つあやしい女性。二転三転し、結局ハッピーエンドかと思いきや。



私の評価としては、★★★☆☆(三つ星:お好みで)

意外性にあふれたサスペンスでミステリー。ストーリーのひねり方は見事で面白いが、あまりにも暗い結末ばかりだ。こうだろうと思う話を途中でひっくり返して驚かせる。作者の思うがままに操られているようで、6編も続くといやになる。伏線を入れておけば、いくらでも意外な展開にできるんじゃないのかと負け惜しみを言いたくなる。
また、ハッピーエンドとはいかなくとも、なんで最後で必ず暗く悲惨な結末にもっていくのか。



道尾秀介の略歴と既読本リスト






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辻村深月「ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。」を読む

2010年07月06日 | 読書2

辻村深月著「ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。」

育った地元の企業で契約社員になったチエミは、地味で合コンでも目立つことなく未婚のまま両親と暮らす。一家はいまどき奇妙なくらい仲が良い。
幼馴染のみずほは、勉強もできて東京の大学に行き、一度故郷に帰るが、再び東京に出てフリーライターとして頑張っている。理解ある夫と結ばれたが、幼い頃厳しかった母親との確執から実家に帰ることがない。
都会で結婚したみずほと地元で未婚のチエミ、二人はいつのまにか離れた道を歩くことになっていた。しかし、警察の手を逃れ失踪することになったチエミの居所を、みずほは地元のかっての合コン仲間を訪ね、チエミに何が起きたのかを探り続ける。

講談社の本書宣伝のHP
辻村さんへのインタビュー(動画)


酒井順子さんの「負け犬の遠吠え」を読んだんです。・・・文庫版には林真理子さんが解説を書いているんですが、それを読んで「あっ」と思ったんです。「ワイドショーで、チャリンコにのったボサボサ髪の主婦が、『私たち勝ち犬は』と言うのを聞き、それこそヒッと叫んだことがある。」と。酒井さんが考える勝ち犬はそうした主婦たちではない、ここで書かれている「負け犬」とは地方で事務服を着て仕事している女子たちではない、と。私は昨年まで兼業作家で、地方(山梨)でまさに制服を着て事務職をしていたので、この言葉はとてもしっくりきました。・・・
女子の息苦しさ。特に「地方負け犬」という観点で考えるうちに、女として切実な「格差」の存在にぶつかりました。東京と地方、モテる、モテない。それと無視できなかったのが「母娘」の関係です。・・・私は小説としての結論を書きたかった。で、「母親殺し」の物語を書こう、と一年かけていろいろ試行錯誤しました。





私の評価としては、★★★★☆(四つ星:お勧め)

地方の田舎住いで、婚活に必死になり、母親との関係で悩む女性たちの気持ちがよくかけており、縁のない私にはなるほどと面白かった。いつのまにか拓いていく差、女性の見栄、狭い世界、そして仲が良すぎてべったりした母娘、逆に厳しすぎて溝が深くなる母娘。

失踪したチエミをたどりながら、疎遠になった何年間の空白を解いていく経緯は、多少冗長だったが、わけの分からないタイトルの意味が解ったときは、衝撃だった。


辻村深月(つじむら・みづき)の略歴と既読本リスト






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