hiyamizu's blog

読書記録をメインに、散歩など退職者の日常生活記録、たまの旅行記など

重松清「十字架」を読む

2010年03月29日 | 読書2


重松清著「十字架」2009年12月、講談社発行を読んだ。


講談社HPの書下ろし100冊の内容紹介は以下。

あいつの人生が終わり、僕たちの長い旅が始まった。
背負った重荷をどう受け止めればよいのだろう。
悩み、迷い、傷つきながら手探りで進んだ二十年間の物語。
中学二年でいじめを苦に自殺したあいつ。遺書には四人の同級生の名前が書かれていた。
遺書で<親友>と名指しをされた僕と、<ごめんなさい>と謝られた彼女。
進学して世界が広がり、新しい思い出が増えても、あいつの影が消え去ることはなかった。
大学を卒業して、就職をして、結婚をした。息子が生まれて、父親になった。
「どんなふうに、きみはおとなになったんだ。教えてくれ」
あいつの自殺から二十年、僕たちをけっしてゆるさず、ずっと遠いままだった、
“あのひと”との約束を僕はもうすぐ果たす――。
著者が生んだ数多の感動作の集大成であり、大きな覚悟をもって書き切った最高傑作!




本書は書下ろし作品。


私の評価としては、★★★★☆(四つ星:お勧め)

重松さんの家族ものの一つの記念塔だろう。父親の息子に対する思いが芯になっていて、主人公の少年が父親になって初めて多くのことを実感として思い至るという筋道だ。

自分で自分に言い訳して、いじめに見て見ぬふりをするあたりはよく書けている。60年近く経った今でも私の心を後悔で痛める思い出がよみがえる。しかし、あの卑怯な振る舞いのトラウマがあったからこそ、その後何かの時に不利であっても信じる道を進む選択を私にさせたのだ。
二人が十字架を背負いながら歩いていくところも理解はできるが、いずれ明らかになるのだから数年といわず、勇気をもってもっと早く事実をはっきりさせればよかったと思う。

「人間って、死にたくなるほどつらい目に遭ったときに絶望するのかな。それとも、死にたくなるほどつらい目に遭って、それを誰にも助けてもらえないときに、絶望するのかな」



私は、なんとなく死にたくなったことはあるが、死にたくなるほど絶望したことはないので、そうかも知れないとは思うが、この気持は実感としてよく分からない。
しかし、以下の寂しさについては、そのとおりだと思う。

「寂しさってのは、両方で分かち合うものじゃないんだ。自分は寂しがってても向こうはそうでもなかったり、その逆のパターンだったり・・・。片思いみたいなものだよ。だから、寂しいっていうのは、相手がそばにいないのが寂しいんじゃなくて、なんていうか、そばにいない相手が、自分が思うほどには自分のことを思ってくれていないんじゃないか、っていうのが寂しいっていうか・・・その寂しさがさびしいっていうか・・・」



息子が独立して家を出て行ってからの連れ合いを見ていると、寂しさというものが、自分が何かしてやれないことも加わって、上のとおりのような気がしてくる。私から見ていると、男性としては、というか私と比べて、気が尽くし、気持ちも優しい息子はけしてそんなことはないのだが。

私自身は、息子の心の中の父親像として、それが例え理想化されていても、まだつながっていると感じている。もともと男同士で日常的に絆があったわけでもなく、いざという時にはと思っていて、離れていてもそれほどギャップは感じないのだろう。
息子にときどき説教じみたことを言われた連れ合いは、「なによ、泣きながらトイレの中までついてきたくせに。ひとりで大きくなったようなこと言って」とつぶやく。母親はつらい。


重松清の略歴と既読本リスト


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

村上春樹「めくらやなぎと眠る女」を読む

2010年03月26日 | 読書2

村上春樹著「めくらやなぎと眠る女」2009年11月、新潮社発行を読んだ。

新潮社HPでの宣伝は以下。


短篇作家・村上春樹の手腕がフルに発揮された粒ぞろいの24篇を、英語版と同じ作品構成・シンプルな造本でお届けします。「野球場」(1984年発表)の作中小説を、実際の作品として書き上げた衝撃的な短篇「蟹」、短篇と長篇の愉しみを語ったイントロダクションなど、本邦初公開の話題が満載!


この『Blind Willow, Sleeping Woman(めくらやなぎと眠る女)』は、1993年の『象の消滅』(英語版は1991年)に続いて外国の読者に向けて編まれた第2短編集だ。それを日本版とする際に、いくつかは書き直されているし、未発表の「蟹」を追加している。

英語版のための序文で著者はいう。

長編小説を書くことは「挑戦」であり、短編小説を書くことは「喜び」である。
僕が小説家としてデビューしたのは1979年のことだが、それ以来ほぼ一貫して、長編小説と短編小説を交互に書き続けてきた。集中して長編小説を完成させてしまうと、短編小説がまとめて書きたくなり、短編小説をワンセット書いてしまうと、今度は集中して長編小説が書きたくなる。・・・
通常の長さの短編小説の場合、だいたい1週間あればひとつの作品をかたちとして完成させることができる。


私でも、幾つかは既に読んだことがあるものだったが、どの短編も例外なく楽しめた。
村上春樹は文章が上手いとよく聞く。パラパラめくって適当に拾い、「貧乏な叔母さんの話」のはじまりをご紹介する。
そもそもの始まりは、文句のつけようもなく見事に晴れあがった、7月の日曜日の午後だった。7月の最初の日曜日だ。小さな雲の塊が2つか3つ、よく吟味された品の良い句読点みたいに、ずっと遠くの空に浮かんでいた。太陽の光は何物にも遮られずに、心おきなく世界に降り注いでいた。芝生の上に誇らし気に光り輝いていた、じっと見ていると、箱の中に箱がある仕掛けのように、光の中にもうひとつ別の光があることがわかった。・・・


サラリと読めて、しかも晴れた日の光が見える。村上さんはあまり風景描写はしない方だと思うが、見事なものだ。こんな光景を実際に見ながらでなく、頭に浮かべるだけで書けるとしたら、やはり天才なのだろう。描写が的確で無駄がなく、しかも、滑らかだ。



私の評価としては、★★★★☆(四つ星:お勧め)

村上春樹の自薦の短編がまとめて24も読めるのだから、村上ファンにはお勧めだ。
私は村上さんのあまりにも長い小説は敬遠するが、普通の長編小説は好きだ。とくに短編は、ゴツゴツしたところが少しもなくサラリと読めるし、寂しげで、軽く思いを残すその後味が快い。突然の場面展開やありえない話も、短編ではシラけることもない。本質的ではないのだろうが、気の利いたセリフや、マニアックなジャズの話などおしゃれな雰囲気も好きだ。
とくに、村上さんは比喩が上手い。

まったくのところ、それはおそろしく葬式の多い年だった。僕のまわりでは、友人たちやかっての友人たちが次々の死んでいった。まるで日照りの夏のとうもろこし畑みたいな眺めだった。


「日々移動する腎臓のかたちをした石」には男女のしゃれたセリフが多くでてくる。
女性の職業を小説家である主人公が当てることになる場面での会話。
「ヒントはない。むずかしいかしら?でも、観察して判断するのがあなたの仕事でしょう?」
「それは違うね。観察して、観察して、更に観察して、判断をできるだけあとまわしにするのが、正しい小説家のあり方なんだ」


ただし、その回答は最後の方にでてくるのだが、「私とても、ついていかれません」

24編の短編題名は以下。
「めくらやなぎと、眠る女」
「バースデイ・ガール」
「ニューヨーク炭鉱の悲劇」
「飛行機-あるいは彼はいかにして詩を読むようにひとりごとを言ったか」
「鏡」
「我らの時代のフォークロア-高度資本主義前史」
「ハンティング・ナイフ」
「カンガルー日和」
「かいつぶり」
「人喰い猫」
「貧乏な叔母さんの話」
「嘔吐1979」
「七番目の男」
「スパゲティーの年に」
「トニー滝谷」
「とんがり焼の盛衰」
「氷男」
「蟹」
「螢」
「偶然の旅人」
「ハナレイ・ベイ」
「どこであれそれが見つかりそうな場所で」
「日々移動する腎臓のかたちをした石」
「品川猿」



村上春樹は、1949年京都市生まれ、まもなく西宮市へ。
1968年早稲田大学第一文学部入学
1971年高橋陽子と学生結婚
1974年喫茶で夜はバーの「ピーター・キャット」を開店。
1979年 「風の歌を聴け」で群像新人文学賞
1982年「羊をめぐる冒険」で野間文芸新人賞
1985年「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」で谷崎潤一郎賞
1986年約3年間ヨーロッパ滞在
1991年米国のプリンストン大学客員研究員、客員講師
1993年タフツ大学
1996年「ねじまき鳥クロニクル」で読売文学賞
1999年「約束された場所で―underground 2」で桑原武夫学芸賞
2006年フランツ・カフカ賞、フランク・オコナー国際短編賞、世界幻想文学大賞
2007年朝日賞、早稲田大学坪内逍遥大賞受賞
2008年プリンストン大学より名誉博士号(文学)、カリフォルニア大学バークレー校よりバークレー日本賞
2009年エルサレム賞、毎日出版文化賞を受賞。
その他、『蛍・納屋を焼く・その他の短編』、『若い読者のための短編小説案内




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山スキーと温泉

2010年03月24日 | 個人的記録

若い頃親しんだスポーツと言えば、夏はテニス、冬はスキー、春秋はゴルフだった。とくにスキーにははまり、シーズンになるのを待ちきれず、当時所沢にあった室内スキー場の開場日、11月1日に毎年駆けつけた。冬になると会社の階段を、ストックをついてスキーで滑る格好で降りて、イメージトレーニングしたものだ。スキー場でも朝早くからナイターまで滑りまくった。あのころは、シーズン中、合計20日以上、上越、志賀、蔵王や、八方などのスキー場で過ごした。

30歳も近くなり、どんな急なところでも、それなりに滑り降りることができるようになると、さすがにガツガツ滑らなくなった。朝遅く宿を出て、昼休みをたっぷり取り、3時ごろにはゲレンデ下の喫茶でのんびりするようになった。

そして、36年前、5月の連休の八甲田山での山スキーが独身最後のスキーとなった。友人と2人で八甲田山の麓の酸ヶ湯温泉に宿泊した。
朝9時ごろ宿を出て、スキーを担いで登り口から5月上旬でもまだ一面の雪景色の八甲田山へ登る。2時間くらい登ったところで、適当にこのあたりでよかろうとスキーを履いて滑り出す。ところどころにある立ち木を避けながら、滑る。表面だけが硬くウインドクラストしていて、強く踏込まないとテール(スキー板の後ろの部分)が落ちず、曲がれない。ジャンプしてドスンとばかり、雪を踏みつけて曲がる。2時間かけて登って、20分たらずで降りてきてしまうのだから、山登りのご褒美にスキーがついているようなものだ。午前中1本、午後1本がせいぜいで、4時ごろにはもう宿の温泉に入った。

江戸時代から湯治場として有名な酸ヶ湯温泉には、総ヒバ造り、160畳の広さの千人風呂があり、木造の高い天井の建物の中には、5種類の湯船がある。一番大きいのが、入口を入ってすぐのところの「ねつの湯」だ。当時は時間分けもない混浴だったのだが、女性は地元のお年寄りばかりで、たまに湯船の端の方に中年の女性が居ても、ガーゼ生地のじゅばんのようなものをはおっていた。

混浴とは言ってもどうせそんなものだろうと思っていたら、突然、女性の明るい声がした。振り返ると、長髪の男性と話しながら若い女性が湯船に近づいてくる。2人とも当時はやりのヒッピー風だった。女性は前をまったく隠さずあっけらかんと歩いてきて、湯船の縁に腰掛ける。ねつの湯の男性が一瞬凍りついた。
私はたまたま湯船の入口側に居たのだが、向こう側の湯船のへりにずらりと並ぶ男性陣がびっくりまなこで入ってくる女性を見た後、あわてて目をそらす。そして、だれもかれも、左右に目を泳がせてから、一瞬途中で女性を見て、またあわてて目をそらし、無関心をよそおう。私は、女性を見るより、向こう側の男性たちがそろって同じしぐさをするのを眺める方が面白かった。しかし、私も向こう側に居たならば、きっと彼らと同じことをしたと思う。そして、齢をかさね70に近づいた今だったら、「ウーン、やっぱり変わらないかな」。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤田紘一郎「血液型の科学」を読む

2010年03月22日 | 読書2

藤田紘一郎著「血液型の科学 かかる病気、かからない病気」祥伝社新書、2010年2月、祥伝社発行を読んだ。

裏表紙にはこうある。

日本人は「血液型」の話が大好きだ。一方で、学者たちは「血液型診断に科学的根拠はまったくない」という。
 もちろん、血液型によって人の性格や運命がすべて決まるわけはない。けれども、血液型を決めている「血液型物質」は、血液のみならず、腸や骨などの体中の組織に含まれている。
そのことから、血液型ごとの免疫力の差、ひいては、血液型によってかかりやすい病気・かかりにくい病気や、合う食物・合わない食物があることを証明できるのだ。
「血液型」が生まれた歴史から、血液型別の病気対策まで――これまでにない「科学的」な血液型の世界。



血液型が科学的でないと言われる遠因は、1924年ドイツの学者が「知識人にはA型が多く、犯罪者にはB型が多く、猿や羊もB型が多い。B型の少ない白人は多いインド人より優位であると発表し、人種差別の一因となったことにある。(ちなみに、私はB型です)

国、地域によって血液型の分布は異なる。日本ではA型38%、O型31%、B型22%、AB型9%だが、韓国はABが13%、ボリビアはOが93%、インドはBが40%。アメリカ人(白人)の45%がO、41%がAなので、アメリカでは血液型占いは流行らない。

血液型は血液自体の型ではなく、血液に付着する糖鎖と呼ばれる「血液型物質」であり、細胞や、胃、腸などにある物質だそうだ。

植物も、細菌もABO式血液型を持っている。

(ここらあたりまでは、信頼できるのだが、これ以降はだんだん著者の独断が強くなる。)

人類の直接の祖先ホモ・サピエンスは10万年前にアフリカで誕生し、全員がO型だった。農耕民族となりA型が生れ、遊牧民族となりB型が生まれた。AB型はごく最近の1000年前に生まれた。

私達の食べる食べ物にも血液型物質がある。

例えば、A型物質だけであるブタ肉をB型の人が食べたとします。ブタ肉のタンパク質は、十分消化しきれないでおおきなペプチドの固まりのままで体内に侵入してきます。B型の人は血清中に抗A抗体をもっていますから、抗A抗体とブタ肉のペプチド中のA型物質は当然「抗原・抗体反応」を起こすはずです。



このように、著者は、「B型の人は、A型物質を多く含むブタ肉が体に合わない可能性があるのです」と主張する。
(私ももちろん、その可能性はないわけではないと思うが、直接的証拠はない現状で、こんなとんでもない事を本に書くのはいかがなものかと思う。)
さらに、著者は、AB型の人は、梅毒にかかりやすいと、一冊の本を挙げただけで結論し、血液型によりかかりやすい病気をあげていく。



私の評価としては、★★☆☆☆(二つ星:読めば)

前半はまともだが、後半は推測の上に推測を重ねていく。もちろん、著者の言うような傾向はあるのかもしれない。しかし、例えば

「A型の人は一般的に免疫力が弱いので、感染症全般にかかりやすく、がんに対しても抵抗力が弱くなります。」


と結論づけるのは、おかしい。その根拠もさることながら、血液型によりどのくらいの差があるのか、など数値を示さないでセンセーショナルに決めつけるのでは、「ドンデモ本」と決めつけられてもしかたない。

根拠についても、著者は、「AOB式血液型を決定する遺伝子は、乳がんになりやすくする遺伝子の近くにあり、不安や覚醒をもたらす酵素の遺伝子もその近くにある」という。このことから、血液型が病気になりやすさや性格に関係すると著者は推定している。乱暴な話だ。



藤田紘一郎は、1939年、中国・旧満州生まれ。東京医科歯科大学医学部卒業。
東京大学医学系大学院修了。医学博士。東京医科歯科大学医学部名誉教授。
人間総合科学大学人間科学部教授。専門は寄生虫学、熱帯医学、感染免疫学。
『笑うカイチュウ』(講談社)、『原始人健康学』(新潮社)、
『日本人の清潔がアブナイ!』(小学館)、『免疫力を高める 快腸生活』(中経文庫)
など著書多数。



著者は、かって、体内に回虫を飼っていて、その毒素でアレルギーが防げると主張し、清潔すぎる環境は人類のためにならないと警告していたが、あのときは、確かにそんな可能性もあるなと思い、ユニークで貴重な先生だと思っていた。しかし、今回は論旨がかなり乱暴すぎる。

私も子どもの頃はお腹の中に回虫を飼っていた。今でも、虫下しを飲んだら、トイレに15cmくらいの白い回虫が出てきた光景を思い出す。回虫が懐かしい方、回虫なんて知らないという方は、世界で唯一の寄生虫専門博物館「公益財団法人目黒寄生虫館」をごらんあれ。入館料無料で、最近は隠れたデートスポットになっているという。

財団法人でありながら、設立以来、50年余り、国や自治体などの補助は受けず独立採算制による運営を維持している。私は以前訪れたときは、「褒めてとらす」とばかり、募金箱に大枚を入れてきた。天下り、税金無駄遣いの財団法人が多いなか、立派だと思う方は、ご寄付を!


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤原真理のチェロ・リサイタルを聴く

2010年03月20日 | 趣味

武蔵野市民文化会館での藤原真理のチェロ・リサイタルを聴いた。
毎度お金の話で恐縮だが、1700円の絵本付きで、藤原真理のリサイタルが会員価格1900円とは破格の低料金だ。しかも、前から2列目で、美人の誉れ高い藤原さんを間近で拝めた。
いただいたのは、宮沢賢治の「セロ弾きのゴーシュ」と佐藤国男の版画が一体化した(株)さんこう社発行の絵本だ。



一曲目は「セロ弾きのゴーシュ」。この曲は、宮沢賢治生誕100年(1996年)記念で林光さんがオーケストラ版を作曲し、その後オペラとして創り、サントリー音楽賞を受賞した。その序奏をチェロの独奏で演奏した。
藤原さんが、文を数行読み上げ、その後、チェロを弾く。
藤原さんが楽しそうに、幾分恥ずかしそうに宮沢賢治の一節を読み上げるのが微笑ましい。
そして、あらためてチェロの音は深い響きだと思う。まさに哲学的だ。

林光さんは、「コンサート自由の風の歌」に行ったときに演奏を聴いたことがある作曲家で、有名な方だ。日本のうたごえ運動の創成期の頃から活躍されている方で、うたごえ運動では、林さん作曲の歌が多く歌われていた。サントリー音楽賞受賞のオペラ「セロ弾きのゴーシュ」、モスクワ音楽祭・作曲賞受賞の映画音楽「裸の島」や、合唱組曲「原爆小景」が有名で、著書も多い。



休憩をはさんで、フランクの「ヴァイオリン・ソナタ イ長調(チェロ編曲版)」。ピアノは倉戸テル。フランクの曲の中では、一番有名な曲だそうだが、私はオルガニストじゃなかったかという記憶だけで、フランク自体をよく知らない。あまりに美しく、哲学的な音にこっくり、こっくりしてしまった。


次は、グリーグ作曲(寺嶋陸也編曲)の「ペール・ギュント第2組曲より『ソルヴェイグの歌』。良く聞く美しいメロディーに思わず身体が揺れる。

最後は、ファリャの「7つのスペイン民謡から『ムーア人の織物』『ナナ』『ホタ』を勢力的に弾く。

アンコールは、まだ東京は桜には少し早いがと言いながら、グリーク?の「桜」を演奏し、鳴り止まない拍手に早めに応えて、サン・サーンス組曲「動物の謝肉祭」から「白鳥」で最後となった。

廊下には、CDを買って藤原真理さんにサインを貰おうと並ぶ人の列がずらり。相変わらずの人気だ。



藤原真理(チェロ)
1949年大阪生まれ。1959年に桐朋学園「子供のための音楽教室」に入学し、以後15年間、斎藤秀雄に師事する。
1971年日本音楽コンクール・チェロ部門第1位および大賞受賞。
1975年デビュー・リサイタルで芸術選奨文部大臣新人賞受賞。
1978年チャイコフスキー国際コンクール第2位。
以後、ベートーヴェン・チェロソナタ全曲演奏会、バッハ無伴奏チェロ組曲全曲演奏会、など日本を代表するチェリストとして国内外で活躍。
特にDENONレーベルで多数リリースしたアルバムは、無伴奏作品やソナタ集はもちろん、
最新CDは、2008年4月「ベートーヴェン『街の歌』~クラリネット・チェロ・ピアノで奏でる5つの詩~」(オクタヴィア・レコード/OVCX-00042)をリリース。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奥田英朗「オリンピックの身代金」を読む

2010年03月19日 | 読書2

角川書店のHPの宣伝文句はこうだ。

昭和39年夏、オリンピック開催に沸きかえる東京で警察を狙った爆発事件が発生した。しかし、そのことが国民に伝わることはなかった。これは一人の若者が国に挑んだ反逆の狼煙だった。著者渾身のサスペンス大作!


1964年アジアで初めて開催されるオリンピックに向け、東京は大変身しつつあった。千駄ヶ谷から青山にかけては別世界になった。そして、新幹線、モノレール、高速道路(名神、首都高??)が出来つつあった。日本国民のだれもが、敗戦から立ち上がり、未来への希望としてオリンピックに期待し、熱烈に支持した。
そして、この物語では、警察を狙った爆破事件が起こり、「東京オリンピックを妨害する」という脅迫状が届く。日本でのオリンピックに対し不安を抱かれることを極度に恐れた警察はこの事実をひた隠しにしたまま、大規模な捜査を続ける。そして、色白で歌舞伎役者のような東大院生が捜査線上に浮かぶ。

本書は、「野性時代」2006年7月号―2008年10月号の連載作品に加筆・修正したものだ。



私の評価としては、★★★☆☆(三つ星:お好みで)

本を開くと、いきなり昭和39年当時の国立競技場、神宮野球場などの地図がある。私の高校はこのあたりにあったので土地勘があり、冒頭から懐かしく引き込まれてしまった。1959年生れの奥田英朗が、日本が未来に向けて盛り上がっていた60年代をえがく。巻末の参考文献リストを見ると、かっての東京を懐かしんだ本や写真集が並ぶ。60年代や昭和30年代は今や勉強して知る時代になってしまったのだ。
それにしても、「・・・何たべようか」・・・「不二家?資生堂パーラー?」とか、「シャボン玉ホリデー」「若大将」など懐かしい事柄が出てくるが、なんとなくわざとらしく思える。

主人公は秋田の貧しい農家から、金と人を集め発展していく東京に出てくる。その東京の中でも、未来都市めいた千駄ヶ谷周辺と、主人公が飛び込む飯場の悲惨な環境が交互に描かれる。主人公はこれらの光と影に引き裂かれる。
東京にしか住んだことのない私は、あの時代の東京と地方の差がそんなにも大きかったのかと思う。当時、私は東京で浮かれていたが、身近にあった空地や古めかしい家がどんどんなくなって、人工的なコンクリート環境になっていくのを見て何か漠然とした不安を持った。

この小説では、起こったことをそのまま、あるいは警察の側から描き、あとの方で時間をさかのぼって、同じ事柄を犯人の側から描いていく。日付が書かれているのだがタイムラグが素直に頭に入らずに混乱する。見る視座によって大きく事実がことなるなら、そんな書き方も面白いが、冗長になっている。
意外性のある展開がなく、しっかりとしてはいるが、淡々と話は進むので、520ページは正直長い。奥田英朗の本領は、『重力ピエロ』のような軽妙洒脱な短編小説にあるのではないかと思ってしまう。



奥田英朗(おくだひでお)は、1959年岐阜県生まれ。雑誌編集者、プランナー、コピーライターを経て、1997年「ウランバーナの森」で作家デビュー。第2作の「最悪」がベストセラーになる。2002年「邪魔」で大藪春彦賞、2004年「空中ブランコ」で直木賞、2007年本書「家日和」で柴田錬三郎賞、2009年「オリンピックの身代金」で吉川英治文学賞受賞。その他、「イン・ザ・プール」「町長選挙」「マドンナ」「ガール」「サウスバウンド」など。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

吉祥寺伊勢丹閉店

2010年03月16日 | 日記

3月14日、吉祥寺の伊勢丹が閉店した。だいぶ前から連日閉店セール中だったが、今日こそ最後だ。近くへ行ったので1階を通り抜けようと思っただけなのだが、すごい人ごみの中、連れはスイスイと2階へ上がっていく。あわててついていくと、2階も大売出しで大混雑だ。ただ、どこにでもある普通の大売出しと違うのは、ぎゅうぎゅう詰めのお客に負けないくらいの店員さんがいることだ。

スーパーなどでは商品について聞こうとしても、店員さんが見つからないことが多い。これにくらべ、デパートはお客さんより店員さんが多いくらいだ。ブランド毎に売場が細かく分かれていて、ブランドからの派遣店員は、自分の島にお客の望むものがなくても、すぐとなりの島の他のブランド商品を勧めることはけしてしない。結局、お客は店員の人件費をたっぷりのせた高額商品を買うことになる。

かってデパートは、外商部に担当者がいて、行くと望みのいくつかの売場を案内してくれるようなお大尽のお客が年間数億円も買い物していたと聞いた。今や、メーカやブランドからの派遣店員だらけのデパートは自壊への道を走っていると思う。

近鉄、その後に入った三越もすぐ撤退し、今はヨドバシカメラとユニクロになっている。これで伊勢丹が撤退したら、吉祥寺に残るデパートは東急と駅南側のちいさな丸井だけだ。サンロードの三浦屋も撤退し、住みたい街と言われても、地元の人の危機感は強い。
伊勢丹の土地の賃借権と建物は武蔵野市の所有のようで、跡利用はどうなるかと思っていたが、どうやらファッションなどの複合店になるようだ。南北通路をすっきりさせるために、駅ビルが立て直し中で、ロンロンも名前は変っても再び出店し、ユザワヤもここを基幹店にするようなので、一息つくと思いたい。

井の頭公園、量販店、駅前のハーモニカ横丁、仲道・大正・昭和通りの小さな趣味の店と遊びにくる若い人には面白い街でも、その周りに広がる高齢者度の高い住宅群の人々にはけして暮らしやすくない。異なる世代、訪れる人と住む人がほどよく共存する街が吉祥寺ではなかったのか。やり手の女性市長のいる三鷹市に比べ、武蔵野市にダイナミズムは感じられない。早稲田の都市計画出身で元都市計画コンサルタントの武蔵野市長には、街づくりのビジョンを語るなどもっと頑張って欲しい。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白石一文『ほかならぬ人へ』を読む

2010年03月15日 | 読書2

白石一文著『ほかならぬ人へ』2009年11月、祥伝社発行を読んだ。

祥伝社のHPにはこうある。
第142回直木賞受賞作品
愛の本質に挑む 純粋な恋愛小説
愛するべき真の相手は、どこにいるのだろう?
「恋愛の本質」を克明に描きさらなる高みへ昇華した文芸作品
第22回山本周五郎賞受賞第一作!


ほかならぬ人へ
宇津木明生は、名家に生まれ、大学教授の父、学者への道を進む二人の兄を持ち、元麻布に広大な屋敷に住んでいる。しかし、家族と比べ、とくに優れたところのない彼は小さい時から「俺はきっと生まれそこなったんだ」と思ってきた。
明生はスポーツ用品メーカーに就職し、キャバクラで美人のなずなと出会い結婚した。
しかし、なずなは過去の男が忘れられないと言い出す。一方、失意の明生は職場のできるが醜い女性の先輩東海に相談、慰められる。やがて、・・・。

かけがえのない人へ
みはるは、出世頭の水鳥と婚約を控えているが、かつての上司黒木とも切れていない。会社は業績不振で合併話が進行し社内抗争の中で黒木は・・・。



私の評価としては、★★★☆☆(三つ星:お好みで)

私の好みで言えば、「ほかならぬ人へ」は共感できるが、「かけがえのない人へ」は本物の愛というより、必ずしも悪いことではないのだが、単に肉欲ではないのではないかと思える。恋愛への障壁が少ない現代では、真の愛を描くのが大変で、ご苦労さまと言いたくなる。
もちろん、私なぞが言うのも何だが、「ほかならぬ人へ」は良く書けている。いいところのお坊ちゃん明生の劣等感もそうだが、ブスと言われて毎度傷つきながら、凛として跳ね返す大人の東海さんが魅力的で良く書けている。


二つの小説ともに、表面的な愛と(本物の?)芯からの愛が対比され、表面的な愛を知ることによって逆に、自分は困難であってもかけがえのない愛を貫くしかないと知るが、覚悟したときにはその愛は失われてしまったという話だ。
子どもっぽい議論になるが、理屈で考える私には、直感的な本物の愛というものが必ずしも真実であるとは思えない。肉付きの仮面のように穏やかに始まり、かけがえのない愛になっていく、二人で作り上げていく愛もあるだろう。むしろその方が私には真の愛に思える。



白石一文(しらいし・かずふみ)は、1958年福岡県生れ。早稲田大学経済学部卒業。文藝春秋勤務を経て、2000年『一瞬の光』でデビュー。2009年『この胸に深々と突き刺さる矢を抜け』で山本周五郎賞、本書で直木賞受賞。




祥伝社のHPには冒頭にあげた宣伝文句につづき、題名の由来がわかる試読部分がある。長いが引用しよう。

「だけどさ、アキちゃんの奥さんって偉いよね。ちゃんと戻って来たんだから。いまだってきっといろんなぐちゃぐちゃした思いはあるんじゃない。それでもやっぱり自分にとってアキちゃんがベストの相手だって気づいたから帰ってきたのかな」
そう言われると「そんなことはないだろう」と明生は当たり前に思う。明生自身もなずながベストの相手だとは思えなくなっていた。
「何か証拠があるんだよ」
気づくと明生はそう口にしていた。
「証拠?」
渚が訊き返してくる。
「うん。ベストの相手が見つかったときは、この人に間違いないっていう明らかな証拠があるんだ」
「それ本当?」
「たぶんね。だってそうじゃなきゃ誰がその相手か分からないじゃないか」
「だからみんな相手を間違えてるんじゃないの」
「そうじゃないよ。みんな徹底的に探してないだけだよ。ベストの相手を見つけた人は全員そういう証拠を手に入れてるんだ」
「そうかなあ」
渚が再び疑問を呈する。
「渚には靖生兄貴が必要な人だけど、靖生兄貴には麻里さんが必要なんだ。でも、そういうときには両方とも間違っているんだよ。ほんとは2人ともベストの相手がほかにいるんだ。その人と出会ったときは、はっきりとした証拠が必ず見つかるんだよ」
いままで思ってもみなかったことが口からすらすら出てきて、明生は内心びっくりしていた。
「ふーん」
「だからさ、人間の人生は、死ぬ前最後の1日でもいいから、そういうベストを見つけられたら成功なんだよ。言ってみれば宝探しとおんなじなんだ」


ベストな相手はどこかに居るんじゃなくて、互いに作り上げていくんじゃないかと思う冷水でした。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「新 物理の散歩道3」を読む

2010年03月14日 | 読書2

ロゲルギスト著「新 物理の散歩道3」ちくま学芸文庫、2009年11月筑摩書房発行を読んだ。

裏表紙にはこうある。
熱したアイロンを布地に当てれば、熱さは裏側に伝わる。もし服地に霧を吹けば温度はより下がり、肩など丸みのある箇所も裏から手で直接支えられるのでは?ロゲルギスト少年のその推論は大きくはずれた。あやうく参事になりかねない出来事を通し、高熱水蒸気の威力をまさに肌で学習した「しみ抜きとアイロンかけ」。ほかに、魚が銀色に輝く仕組み、コマが首振りから起ちあがり直立する過程の力学、サーフィンの話題から消波・発電のアイデアなどなど。実験をまじえながら常識的な予想を小気味よく履していく。楽しみながら議論が深まっていく科学エッセイ。 解説 米沢富美子


私は、昔、岩波書店の『物理の散歩道』シリーズでロゲルギストの本を面白く読んだ記憶がある。物理の教科書には、理想化した条件での動作の解析例があるが、これは物理法則を説明するためのものにすぎない。この本のように日常の出来事の物理的解析例は教科書、参考書にはほとんどなかった。しかも、雲の上の偉い先生方が、下世話な日常現象を議論するというギャップも面白かった。
本書は、1978年に中央公論社から刊行された本の文庫版だ。

筑摩書房のHPのこの本の紹介から引用する。

ロゲルギスト
物理学者のグループペンネーム。メンバーは磯部孝、今井功、大川章哉、木下是雄、近藤正夫、高橋秀俊、近角聰信の7人。雑誌「自然」に1959年より毎月、科学エッセイを連載。専攻はさまざまだがいずれも議論好き。日常のできごとから興味深いテーマを取り上げ、物理学者ならではの視点で問題を解きほぐした。その エレガントな思考法に魅せられた文系ファンも多い。


目次
眼の中にただようゴミ/大根おろし/松を伐る/しみ抜きとアイロンかけ/水面に立つ奇妙な波/波のりの力学/魚はなぜ銀色か/モーターはなぜまわる/結晶の形はどうしてきまるか/二重生活/コマはなぜ起き上がる

波乗りの力学
海の波を構成する水は、海岸の方に動いていくのではなく、一点で上下運動しているだけと習ったような気がする。実際は、表面に近いところでは小さな円運動して表面の山のところに水を集めている。そして、サーフボードは、水を切る抵抗と波でできた坂を下る力とが釣り合いながら長い距離を進むという。後記には、ボールでもサーフボードと同じことが可能かどうか、水槽を使って実験した結果が書いてある。さすが偉い先生がた。結論は転がりまさつが大きくて波のりはできないということだったのだが。

しみ抜きとアイロンかけ
アイロンの下の濡れタオルは高温水蒸気になって1000倍以上の容積になり、上はアイロンなので下の衣類の中を通り抜けて行く。したがって、アイロン台には通気性が求められる。しみ抜きの原理も同じように説明される。

コマはなぜ起き上がる
コマがなぜ倒れずに回るのか、力学の本にジャイロ効果の説明のなかで解説してあったと思う。安定にいたるまでなどもっと複雑な運動を主に実験によって問題を一歩一歩解決して行く。



私の評価としては、★★★★☆(四つ星:お勧め)

大学での物理の基本ぐらいは知っている理工系の人、あるいはとくに物理に興味のある人でないと、内容は理解できないだろう。しかし、細かい分析の話は飛ばして読んでも、十分面白い。なにげなく見過ごしている日常の出来事を何故かと問いかけられると、「そう言われると不思議」ということがいろいろあり、その秘密をあかしてくれる。細かい理屈の説明は読み飛ばして、筋道だけ拾っても面白い。数式は出てこないので安心して欲しい。

じっくりと落ち着いて物事を正しく考える姿勢の大切さを思い知らされる。そして、それはとても楽しいことだと思う。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊坂幸太郎「陽気なギャングの日常と襲撃」を読む

2010年03月12日 | 読書2

伊坂幸太郎著「陽気なギャングの日常と襲撃」祥伝社文庫、2009年9月発行を読んだ。

裏表紙にはこうある。

嘘を見抜く名人は刃物男騒動に、演説の達人は「幻の女」探し、精確な体内時計を持つ女は謎の招待券の真意を追う。そして天才スリは殴打される中年男に遭遇―天才強盗4人組が巻き込まれた4つの奇妙な事件。しかも、華麗なる銀行襲撃の裏に「社長令嬢誘拐事件」がなぜか連鎖する。知的で小粋で贅沢な軽快サスペンス!
文庫版記念ボーナス短編付き!



映画化された『陽気なギャングが地球を回す』の続編で、2006年新書版で刊行されたものの文庫版だ。なお、“A bonus track”とある巻末の「海には、逃したのと同じだけの良い魚がいる」は、新書版にはなく、映画の公式ガイドブックに載せたものをこの文庫版に収録した。

主人公を4人組の一人づつ換えて作った4つの短編を基にして、この長編の第一章を書いたという。そこで、前作を読んでいない私は、最初の方は状況がつかみにくかった。「新書刊行時あとがき」で著者が言うように、できることなら、前作から順番に読んだ方がよいだろう。



私の評価としては、★★★★☆(四つ星:お勧め)

主人公4人組が風変わりで魅力的なキャラクターだ。軽快にスピーディーに語り、ユーモアを散りばめた良質のエンターテイメント小説だ。日本にもこんな作家が現れ始めたのかと思う。

ミステリーではあるが、ウエイトは痛快コメディにある。伊坂ワールドともいうべき軽やかで笑える会話は見事だ。
私は、なんといっても、おしゃべりで演説好きな中年男の響野氏がいい。見当違いに突っ走り、すべての人をうんざりさせるがどことなく憎めない。

「今の日本で公衆電話を探すのは至難の業だぞ。・・・私も相当苦労したからな、そうそう簡単にはみつからないはずだ。こういうのは、おそらくその人間の持っている、人間力のようなものが影響してくるからな」
(すぐに、女性が言う。)「あ、あそこにありました」



苦情を言ってきた客の家に代理で響野が行く。翌日、係に客から「あの件はもういいから、あの騒がしい社員だけは寄越さないでくれ」と電話がある。響野の妻が言う。「うちの旦那でも役に立つんだね」



伊坂幸太郎&既読本リスト

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

すさまじきかな天災    

2010年03月10日 | 昔の話2

幸いなことに今まで特に大きな災害に会わずにきた。しかし、身近に感じた災害もいくつかある。

1959年9月、潮岬に上陸した伊勢湾台風は、死者・行方不明者5千人と大きな被害をもたらした。私は、高校の卒業旅行で直後に名古屋を通った。列車の窓から見た名古屋港は倒木でうずまり、市内には破壊された家々が限りなく広がっていた。その中で蟻のように小さく見える人びとが懸命に後片付けしていた。そんななかで旅行など申し訳ないと思った。半世紀ほど経った今でも倒木の海の間にうごめく人々の姿が目に焼きついている。


1978年1月14日の昼時に突然やってきた伊豆大島近海地震は、マグニチュード7.0、当時住んでいた横須賀で震度5と大きな地震だった。
いきなりドンと大きな縦揺れが来て、酔いそうになるほど横揺れが続いた。結局、自宅の被害はそれほどでもなかったが、山の上にある職場の建物は大きな被害を受けた。当日は土曜日で人はほとんどいなかったのが幸いしたが、月曜日に出社すると、天井の羽目板は室内に散乱し、物品をしまった壁際の棚は倒れ、キャスター付きの台はとんでもないところに移動していて、上にあった測定器は床に落ちていた。しばらくは、片付けと転倒防止策で、仕事にならなかった。自宅でも、家具を壁に固定したりしたが、10年も経つと、すっかり忘却のかなたになってしまった。

伊豆の旅館が観光客のキャンセルで困っているとの新聞情報があり、これはサービスの良い宿に泊まるチャンスとばかり余震が続く、伊豆へ車を走らせた。海岸線を走り、熱海を過ぎると、ところどころ山側の崖が崩れている。果たして、伊東の近くで道路封鎖になっていた。少し戻って、伊豆スカイラインに入ろうとしたが、これも封鎖。係員に道を聞いたが、「こんなときに観光?」と、相手にしてもらえない。やむなく、戻って熱海で宿泊した。確かに、どこへ行ってもガラガラだったが、人影まばらな観光地は寂しく、楽しめない。ひねくれたお調子者の失敗談になってしまった。


1986年11月の三原山大噴火では、大音響が聞こえ、横須賀の住宅団地は大騒ぎになった。直接大島は見えないのだが、三浦半島先端部の向こう側から空に吹き上げる花火のような噴火が夜になっても続いた。三浦半島の向う側に大島があったとはついぞ気付かなかった。全島民約1万人の避難をTVに釘付けで見た。自然の猛威の桁外れさをあらためて思い知った。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桐島洋子「バンクーバーに恋をする」を読む

2010年03月07日 | 読書2

桐島洋子著「毎日が発見ブックス-バンクーバーに恋をする-大人の旅案内」、2010年2月、角川SSコミュニケーションズ発行を読んだ。

桐島洋子が、惚れ込んでついに家まで買ってしまい20年以上も通い続けているバンクーバーを紹介する。といっても、彼女のことだからどのガイド本にもある名所などではない。心落ち着く森、浜辺や洗練された街並みの散歩道、オーガニック・ショップ、友人の豪華な家などお気に入りの場所やライフスタイルの紹介だ。そして、バンクーバーからの小旅行先として、アーティストが住むソルトスプリング島、隠れ小島の島コルテス島、バンクーバー島、夏のウィスラーや、ワインの里オカナガンバレーなどを紹介する。バンクーバーの魅力を堪能できる写真が豊富にある(高木昭仁撮影)。

目次
バンクーバー
私の家/散歩道/バンクーバーらしい買い物/グランビルアイランド/友人のお宅拝見/気楽な食べ歩きガイド
島へ山へ
ソルトスプリング島/コルテス島/バンクーバー島/ウィスラー/オカナガン/注目のワイン産地



私の評価としては、★★★★☆(四つ星:お勧め)

バンクーバーに既に一度行った人は是非この本を読んで欲しい。一度目はツアーに含まれている名所めぐりで良いだろう。しかし、2度目以降は、この本にあるような、海、川、山、森、島、お屋敷、レストランなどバンクーバーの奥深い魅力を知り、自然と同時に便利な都会があるバンクーバー生活の一部でも味わって欲しい。さらに、足を延ばして近郊や、バンクーバー島など周辺の島々を訪ね、できれば住人と知りあって欲しい。



桐島洋子
1937年東京生まれ。作家。1972年『淋しいアメリカ人』で大宅壮一ノンフィクション賞受賞。以来著作・テレビ・講演などで活躍しながら、かれん、ノエル、ローランドの3児を育て上げる。50代で子育てを了えてからは、“林住期”を宣言。仕事を絞り、年の数カ月はカナダで人生の成熟の秋を穏やかに愉しむ。東京の自宅にオトナの寺子屋「森羅塾」を開き、セカンドライフの活性化に努める。



かくゆう私は、2006年に2週間、2007年は2ヶ月滞在したが、その後も何度も計画、予約したのに事情で中止になって結局2回行っただけだ。その間、バンクーバーで著者と知り合う機会を得て、お菓子の家のような桐島宅を訪問したり、古希の祝いのパーティに参加したりした。知り合った何人もの人もこの本に出てくる。東京の森羅塾にも一度お邪魔した。歳を感じさせないパワーと早口には驚かされる。



2006年の「バンクーバー・ロングステイ下見



2007年のバンクーバー訪問記6月7月(ただし、gooブログは20までしか表示できない)





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加賀乙彦「悪魔のささやき」を読む

2010年03月06日 | 読書2

加賀乙彦著「悪魔のささやき」集英社新書0354C、2006年8月集英社発行を読んだ。

表紙裏にはこうある。
人は意識と無意識の間の、ふわふわとした心理状態にあるときに、犯罪を犯したり、自殺をしようとしたり、扇動されて一斉に同じ行動に走ってしまったりする。その実行への後押しをするのが、「自分ではない者の意志」のような力、すなわち「悪魔のささやき」である―。精神科医、心理学者、そして作家として半世紀以上にわたり日本人の心を見つめてきた著者が、戦前の軍国主義、六〇年代の学園闘争、オウム真理教事件、世間を震撼させた殺人事件など数々の実例をもとに、その正体を分析。拝金主義に翻弄され、想像を超えた凶悪な犯罪が次々と起きる現代日本の危うい状況に、警鐘を鳴らす。


精神科医、作家である著者は、東京拘置所医務技官のとき、多くの犯罪者が幾度となく「どうしてあんなことをしたのか、・・・本当に悪魔にささやかれたとしか思えません」と言うのを聞いた。

ならばどうすれば内なる「悪魔のささやき」に押し出されずにすむのか。著者が勧めるのは以下だ。
和を重んじ個を育てない日本人は流されやすい。自分の頭で考え確固とした人生に対する考え方を持つ。
狭い世界にしか興味を持たない人は悪魔につけこまれやすい。視野を広げる努力をする。世界の代表的な宗教について理解を深める。
死のむごさ、醜さをさけずに向き合う。
著者は、そのためにまず読書を勧めている。


はじめに 二十一世紀の日本を蝕む悪魔のささやき
第1章 悪魔はいかにして人を惑わすか
第2章 日本人はなぜ悪魔のささやかに弱いのか
第3章 人間を嘲笑い破滅させる、ささやきの正体
第4章 豊かさを餌に太り続ける現代の悪魔
第5章 いかにして悪魔のささやきを避けるか



私の評価としては、★★★☆☆(三つ星:お好みで)

この本は、著者が自由連想風に日本人の心性の特徴について語ったのをライターがまとめてできたそうで、寄り道が多く、話の流れがまっすぐでない。個別の話には納得できることが多いし、興味あるエピソードも豊富なのだが。

例えば、麻原彰晃こと松本智津夫と接見したときの様子は興味深い。著者は、彼の目の前でいきなり両手をおもいっきり打ち鳴らしたがまったく反応がないことなどから、強制的に自由を奪われた状態で生ずる拘禁反応で混迷状態にあると結論づけている。



加賀乙彦は、1929年東京生れ。東京大学医学部卒。東京拘置所医務技官、フランス留学。東京医科歯科大学助教授、上智大学教授。
1968年『フランドルの冬』芸術選奨文部大臣新人賞、1973年『帰らざる夏』 谷崎潤一郎賞、1979年『宣告』日本文学大賞、1986年『湿原』大佛次郎賞、1998年『永遠の都』芸術選奨文部大臣賞受賞。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加賀乙彦「不幸な国の幸福論」を読む

2010年03月05日 | 読書2

加賀乙彦著「不幸な国の幸福論」集英社新書0522C、2009年12月発行を読んだ。

裏表紙にはこうある。
経済は破綻し格差は拡大する一方、将来への希望を持つことが難しい日本にあって、「幸せ」は遠のくばかりと感じている人は多い。しかし、実は日本人は自ら不幸の種まきをし、幸福に背を向ける国民性を有しているのではないか―。
精神科医、心理学者でもある作家が「幸せになれない日本人」の秘密を解き明かし、幸福になるための発想の転換法を伝授する。追い求めている間は決して手にいれることのできない「幸福」の真の意味を問う、不幸な時代に必読の書。


前半では、人目を気にしすぎる日本人の不幸、経済発展だけを追い求めた日本の問題を指摘する。後半ではどのように考え、行動すべきかについて、著者の考えが披露される。



私の評価としては、★★★★☆(四つ星:お勧め)



著者の考え方には賛同できる。日本人は、狭い集団の中に閉じこもり、その中に同化することに気を使うあまり、集団外に無関心となりがちだ。世界が狭いので、一度駄目だと思うとそのまま一気に落ち込んでしまう。騙されたと思って、ちょっとだけでも足を踏み出し、手を伸ばしてみると、今まで属していた世界がすべてでないことに気づき、世界が違って見える。あなたを必要としている新しい世界で、新しい自分になろう。

私は、1年以上前から地域の老人のコミュニティーハウスのようなものに出入している。先日、ある講座を受けていて、メンバーの年齢の話になった。88歳を筆頭に、後期高齢者ばかりの中で、私が67歳と言うと、一斉に「若い!」と声があがった。最近はどこに行っても図抜けた年寄りだったのに。思わず、「その言葉、久しぶり!」と叫んでしまった。



加賀 乙彦(かが おとひこ)
1929年、東京生まれ。東京大学医学部医学科卒業。東京拘置所医務技官を務めた後、精神医学および犯罪学研究のためフランス留学。帰国後、東京医科歯科大学助教授、上智大学教授。日本芸術院会員。『小説家が読むドストエフスキー』『悪魔のささやき』『宣告』『永遠の都』『死刑囚の記録』『フランドルの冬』など著書多数。



以下、いくつか抜粋する。

第1章 幸福を阻む考え方・生き方(「考えない」習性が生み出す不幸、
他者を意識しすぎる不幸)。

・・・視覚を中心とする情報の洪水のなかで生きている現代人は、どうしても外見にとらわれ、「見られる自分」に対する意識を強めてしまう。・・・問題に直面したときに、それをどう解決していくかという内省力、しっかりと悩み抜く力に欠けているという現代人特有の問題が潜んでいる。

地べたに座ってものを食べたり、電車のなかで化粧したりする若者たちは、傍若無人で一見、人の目などまるで気にしていないように見えます。しかし、彼らが気にしないのは自分とは無関係な存在だと思っている第三者。自分の属する集団のなかでは、仲間からどう思われているかを互いに過剰なほど意識しあい、空気を読み合い、仲間うちで浮いてしまうことのないよう気をつかっているのだと思います。

第2章 「不幸増幅装置」ニッポンをつくったもの(経済最優先で奪われた「安心」と「つながり」、
流され続けた日本人)。

第3章 幸福は「しなやか」な生に宿る(不幸を幸福に変える心の技術、
幸せを追求する人生から、幸福を生み・担う生き方へ)。


生きがいは意外と簡単に持ちうる。すばらしい、特別なものが見つからなければ生きがいを感じられないのではない。
「自分の悩みでいっぱいいっぱいで他人のことなど考えている余裕がないときこそ、ささやかなことでいいから人のために体を動かしてみるのです。」

人のために何かをするということ。それこそが、「私は必要とされている」「私には生きる意味があるのだ」と実感できる最も簡単な、そして誰にでも可能な方法です。

人間には、生活の主となっている場のなかだけで物事をとらえ、考える傾向があります。そして、職場や学校といった一つの場に依存する率の高い人ほど、この「場の心理学」に影響されやすい。・・・こうゆう人は何かトラブルが生じると脆い。・・・一方、逆境に強い人はというと、・・・さまざまな生活環境、生活スタイル、価値観の人たちと触れ合ってきています。

世界と自分自身をしっかり見つめて、本当に大切で必要なものとそれほど必要でもないもの、・・・、努力すればなんとかなることと努力してもどうにもならないこととを見極めていく。そのうえで、断念すべきことは潔く思い切り、自分なりの目標や夢に向かっていく。そういう広い意味での「あきらめ力」を磨くことが、幸せな人生につながっていくのだと思います。

第4章 幸せに生きるための「老い」と「死」(人生八十五年時代の「豊かな老い」の過ごし方、死を思うことは、よく生きること)。

「豊かな老い」の過ごし方では、著者は、「老い」を受け入れる/「初めてのこと」に挑戦し、脳を刺激する/待つこと、ゆっくり歩くことを楽しむ/などを勧める。

細胞のなかには、生きるための遺伝子情報と死ぬための情報がペアで入っています。私たちの体内では今この瞬間も、生きるために害となる細胞や役目を終えた細胞が猛烈な勢いいで死んでいる。・・・死んだ細胞の数だけ、新しい細胞が細胞分裂の形でうまれています。言うなれば、無数の細胞の死が、あなたや私の生を支えてくれているのです。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

多和田葉子「溶ける街 透ける路」を読む

2010年03月03日 | 読書2

多和田葉子著「溶ける街 透ける路」2007年5月日本経済新聞出版社発行を読んだ。

2005年春から2006年末まで多和田葉子が実際に行った街のエッセイ集だ。ヨーロッパが中心だがアメリカ、カナダ、中東も少々。ドイツに住んで30年近く、小説や詩をドイツ語でも書く彼女が、見知らぬ街へ行き、皮膚感覚で感じ、人と触れ、そして自作を朗読し、読者と話す。日本では情報が少ない東欧の話に興味がわく。

初出は、日経新聞朝刊(土曜日)に、2006年1月から12月。

例によってどんな話か、いくつか書き出そう。( )は私が追加。

ブダペストで、
(体制が変わった直後は)
啓蒙主義、アバンギャルド、社会主義など、これまでいろいろなアイディアがあったのに、結局キリスト教ひとつに戻っていってしまうのかと思うと寂しい気がして、・・・。(案内の人も言う。)「・・・自分にとって一番大切なのは家族、次は神、なんて言う子がたくさんいて驚かされる。時代は逆流していくのだろうか。」


仏・トゥールーズで、
私をこの町に招待してくれたのは、「白い影」という地元では有名な本屋だった。ここでは毎日、講演や朗読や討論が行われ、本屋というだけではなく、町の大切な文化施設としての役割も果たしている。

(本屋さんが町の文化施設とはすばらしい。日本では図書館がその役目を果たそうとしているが、作家の方も、もっと読者と触れた方が良いと思う。もっとも、サイン会で握手や、一緒の写真を求めるだけの読者では仕方ないか。)

仏・ボルドーで、
海のあるところは光が違う、銀色の膜をかぶったまぶしい空には、人の心をそわそわさせるものがある。海の広さが共鳴空間を桁はずれに広げてしまうせいか、砂浜で遊ぶ人たちの声が昔見た夢のように遠い。

(光景が浮かび、空気が感じられる。さすが詩人。)

スイスは安全な国だが、腕のいいすりがいる。多額の現金を持った人間が道をあるいている国なので、各国から腕利きのすりが集まってくるのだと、・・・

(私も、スイスや、パリで同じことを注意された。とくに観光シーズンにはすり団が集結するらしい)

プラハとタリン(エストニア)の建築の違いはどこにあるかをくわしく説明してくれる。普段「ヨーロッパの古い家並み」という曖昧な捉え方しかしていないわたしには・・・。こんなに若い人が自分の国や隣国の建築について外国語でくわしく説明できるというのは東欧では普通なのかもしれないが、やはり驚いてしまう。日本の学生で、日本のお寺の建築様式を中国や韓国のそれと比べながら英語でうまく説明できる人がどれくらいいるだろうか。




私の評価としては、★★★☆☆(三つ星:お好みで)

さまざまな国の50を超える町を訪れる。聞いたことない町も多く、それが国、大陸を超えて(時系列に)並んでいるのでわかりにくい。しかし、その町に入っていくときに感じる空気に関する記述は、鋭い感性、表現力を持つ多和田さんならでの見事さだ。

多和田さんの物の見方、姿勢は常に一貫している。また案内してくれる人や、ふれあう人も文学関連の文化人が多く、桁はずれの体験はない。名所旧跡の見学もないが、各国の文化事情は垣間見られる。

多和田さんは、自分でもあとがきで「妙な小説を書く」人と言っているが、私の多和田評は、日本人なのにドイツ語で小説や詩を書き、その内容は、跳んでいてわけの分からないというものだった。しかし、この本を読むと、考え方、行動はごく普通の、まっとうな人で、ただ感性が鋭く、自分の生き方を貫いている人のようだ。

多和田さんは、大学で第二外国語を学ぶことが、英語学習のマイナスではなくプラスになるし、多様さを失ってはならないと言っている。他のところでも常に多様性の確保を主張している。語学については、英語もままならない私は語る資格がないが、日頃から均一なものに収斂していく日本人、とくにマスコミにはウンザリしているので、多様性の尊重には大賛成だ。



多和田 葉子
1960年東京生まれ。早稲田大学第一文学部ロシア文学科卒業。入社後の研修で行ったドイツに惚れ込み、ハンブルク大学修士へ進み、移住。1991年「かかとを失くして」で群像新人文学賞、1993年「犬婿入り」で芥川賞、2000年『ヒナギクのお茶の場合』で泉鏡花文学賞、2002年『球形時間』でBunkamuraドゥマゴ文学賞、2003年『容疑者の夜行列車』で伊藤整文学賞、谷崎潤一郎賞、2009年早稲田大学坪内逍遥大賞を受賞。他の作品に『海に落とした名前』『アメリカ 非道の大陸』、詩集『傘の死体とわたしの妻』など多数。ベルリン在住。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする