hiyamizu's blog

読書記録をメインに、散歩など退職者の日常生活記録、たまの旅行記など

昔話シリーズ(幼かった頃) 母と裁縫箱

2025年02月24日 | 昔の話

 

昔々、我家に裁縫箱があった。和裁用で、上蓋を開けると、針山とはさみなどが入っており、その下には三段くらいの引き出しがついていた。横には穴があり、ものさしが斜めに刺さっている。もちろん鯨尺だ。全体は幅40㎝、高さ30㎝ほどの木の箱で、表面に模様のある木の皮が貼り付けてあった。

 

母は良くこの裁縫箱の蓋をあけ、四角い棒“くけ”を起こして立てて、先端から延びたひもの先の物干しバサミのような“かけはり”に布地の一方を挟んで、針仕事をしていた。小学校に上がる前だろうに私の記憶にこびりついているということは、しょっちゅう内職でもしていたのだろう。

 

私はこの裁縫箱、というより母のまわりでよく遊んでいた。おもちゃらしいおもちゃがない時代だ。裁縫箱をおもちゃにして、引き出しを開け閉めし、針山の針を刺し直し、使われていないときには、“くけ”を起こしたり、寝かせて裁縫箱の蓋をしめたりした。“かけはり”で、こわごわ指を挟んだりもした。すずめの舌をちょん切った「糸きりばさみ」、指ぬき、くじらの骨でできたヘラもおもちゃ道具だった。ちょこまか邪魔をする私を、記憶の中の母は叱ることもなく微笑んでいる。

 

しかし、何と言っても良く遊んだのは、裁縫箱に斜めに刺してあるものさしだ。これを刀にして一人チャンバラするのだ。ズボンのベルトに刺し、するりと抜いて、構えて正面の敵を切り、すぐ振り返って後ろの敵を切る。漫画雑誌でみたエジプト王朝のアメンホテプが大好きで、タオルケットを持ち出して来てマントにし、なぜか刀を差したアメンホテプに成り切ったりもした。そして、飽きると、結局なんだかだと、母のそばに行ってちょっかいを出した。

 

割烹着を着て、針を髪の毛に触れさせてから、針仕事をする若い母の姿がそこにはある。昨日のことのようだが、もうあれから70年以上が過ぎ去った。そして、母が亡くなって20年以上になる。庭に花でもあれば摘んでくるところだが、久しぶりに仏壇に線香でもあげるとしよう。

 

(「裁縫箱と母」2017年2月24日を一部変更して再掲) 

 

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昔話シリーズ(幼かった頃) 母とはぐれる

2025年02月22日 | 昔の話

 

それにしても、あれだけ後ろを見ることが嫌いで割り切っていたつもりの私が、今は何かにつけて昔のことを思い出す。「若者は夢に、年寄りは思い出に生きる」と言うが、これから先のことなど考えたくもない年寄りになってしまったのだからしかたない。

 

 

何歳の頃か、母親の手をしっかり握っていたはずなのに、母だけ電車に乗ったところでドアが閉まってしまい、私はホームに残されたことがあった。小田急線の下北沢駅でのことだ。電車の閉まったドアのガラスの向こうで母が必死に何か言っている。私はただ呆然として突っ立っている。電車はそのまま動き出し、私はホームに残された。

 

下北沢駅には映画好きの母に連れられて何回か行ったと聞いたことがある。私は映画が始まるとぐずることもなく、すぐ寝てしまうので助かったと言っていた。自宅の最寄り駅・代々木上原駅は、下北沢駅の次の東北沢駅の次だ。当時、この事は何となく知っていたような気がするが、もはや記憶はあいましだ。

「ぼく、よその家の子供になっちゃうのかな」
いつも母と一緒だった私は、迷子、尋ね人という言葉を振り払い、大丈夫だと自分に言い聞かせ、心細さを打ち消そうとする。しかし、母がそばに居ないことがあり得ないことで、駅のホームにただ一人立っていることが、何か現実に起こった出来事ではなく夢の中にいるような気がして、足元がフワフワした。

 

すぐに次の電車が来た。しかし、この電車は急行だった。次の東北沢駅に急行は止まらないし、次の次の最寄り駅・代々木上原駅にも当時、実は、急行は止まらなかったのだ。急行停車駅になったのは地下鉄千代田線が乗り入れてからのことだ。代々木上原駅に急行が停まらないこともよく分かっていなかった私は乗るか、乗らぬか、迷い、混乱した。

 

母が乗ったのは各駅停車だったと思い、次の駅で母が待っていれば、急行に乗っては通り過ぎてしまう。しかし、代々木上原駅まで母が行って、そこで待っていれば、この急行に乗るべきなのではと思った。ベルがせきたてるように鳴り、いつもよりずっと大きな音のような気がする。心配している母の顔が浮かび、迷っているうちにドアが閉まり、電車は出て行った。

 

次に来た各駅停車にあわてて乗った。さっき来た急行に乗るべきだったのではと不安になりながら、電車のドアにくっついて背伸びしながら外を見た。「母は、代々木上原駅までは行かず、きっとすぐとなりの駅で待っているだろう」そう思えてきた。東北沢駅のわびしい急行待合せホームに電車が入っていったとき、一人着物を着た人がホームにいるのが一瞬見えた。ホームに降りた。変な顔をして母が駆け寄って来た。

 

「急行に乗ったのかと思って心配したわよ! ごめんね。よく一台待ったわね」

手をぎゅっと握って私を引き寄せた。母の顔がまぶしく、腰の辺りに顔を押し付けた。じわっと台所の匂いがしたような気がした。幼い私に起きた大事件だった。

 

あの母ももういない。遠い、遠い昔の話である。

 

 

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昔話シリーズ(幼かった頃) からかわれて、憤然として反撃した話

2025年02月20日 | 昔の話

幼いころ母に手を引かれて買い物に行った。パン屋さんに入ると、奥から小母さんが真ん中に大きな染みがある前掛けで手を拭きながら出てきた。少しこごんで僕の顔をのぞき込みながらニコニコして言った。

「僕! まだおっぱい飲んでいるんでしょう」

 

憤然として僕は言った。

「ちがうわい! 触るだけだわい」

 

この話、よくは覚えていないのに、母から何回も聞かされているうちに、なんだか情景まで目に浮かぶようになってしまった。

 

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17年前の我がブログ

2025年02月04日 | 昔の話

犬も食わない夫婦喧嘩というものを、してみんとてするなり」(2007年11月24日)

 

何かのときに飛び出してきた昔むかしの我がブログ。「まあ、何て得意そうになって、恥ずかしいことを書いている事か!」

今や、互いに枯れ切って、相方(当時は「奥様」と書いていました)とは喧嘩することもない毎日です。こんな時もあったのだと、以下、そのまま掲載します。

 

11月22日はいい夫婦の日でした。しかし、大小は別にして喧嘩しない夫婦はいないと思います。
「話を聞かない男、地図の読めない女」という本を読んだことがあります。口げんかでは一般的にやはり口が達者な女性が有利でしょう。それでもときには、男性が追い詰めそうになるときもあります。そんな、女性が詰まったときの切り札はこうです。

「あなたはね、○○のとき、○○って言ったのよ! いい! そもそもね、あなたっていう人は、そういう人なのよ!」と直接関係ない昔の話をいきなり持ち出します。
そんな昔のこと覚えていない男性は、反論もできません。そんなときは、尻尾をたれてその場からスゴスゴと立ち去るのが良いでしょう。いや、立ち去るしかありません。ここで、ムカっと来て、何か反論しようとすると、言葉に詰まって大声や手を出すことになります。そして修羅場となり、奥さんの判例集を厚くするだけの結果に終わります。


一昔前の男性は、「いったい、誰のおかげで飯が食えるんだ!」と怒鳴るか、暗示して、戦いに表面上、勝利したものです。
上野千鶴子さんの「おひとりさまの老後」に、寝たきりになっても、棒をもって介護する奥さんを虐待して、「いったい、誰の年金で生活できるんだ!」と怒鳴るおじいさんの話がありました。その満々たる自信、立派です。夢のようです。

といっても、以上の話はもちろん一般論で、我家の話ではありません。

遅れてきた大和撫子の奥様は、昔々の新婚当時、私が何かキツイ言い方をすると、いつの間にかいなくなります。ふと、気が付いて探してみると、台所の隅で、シクシクやっていることがありました。
結婚後35年になろうとしている今は、もちろん、そんなことありません。
逆になりました(??)


おとなしく、我慢強い奥様のいる家庭は以下のようだと想像します。あくまで、想像です。

おとなしい奥様はそもそもキツイいい方で反論はしません。論理的にピシャリと決め付ける夫に対し、無言になります。しかし、納得せず、まだ怒っていることは顔を見れば鈍感な夫にも分かります。いろいろ理を尽くして説得をしますが、変化はありません。
結局、根負けして、「わかった、わかった。そうしましょう」と妥協するしかありません。
そして、下向いて、小声で夫が言います。「弱み握られているから、しょうがない」
「弱みって、なによ?」とびっくりした奥様。
後ろ向いて、立ち去りながら聞こえるように、「ほれた弱みに決まってるだろ」

逆転勝利??

 

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何もかもが待ち遠しかった日々

2023年09月21日 | 昔の話

 

目を細めて子供時代の遠い日を想うと、あの頃は、いつでも何かしら待ち遠しい気持ちで過ごしていたような気がする。

そもそも、毎日何かしら小さなことでもワクワクと過ごしていて、明日はもっと楽しいことが待ち受けているような気がしていた。

 

よそ行きを着て母に連れられて、新宿のデパートにお出かけするのはまさにハレの日だった。とくに何か買ってもらうわけでもないのだが、時として食堂で旗の立ったお子様ランチを食べるのはワクワクだった。
時々は銀座にも私の手を引いて出かけたらしい。突然、進駐軍の兵隊さんが「おお、ベイビー!」とか言って、私を抱き上げて高い高いをしたという。母は焦ってただオロオロするだけだったと聞いた。
小学校の遠足も楽しみだった。前の晩、母が苦労して手に入れたお菓子を詰めたバッグを枕元に置いて、少し早めに布団に入らされた。隣の居間の大人達の会話が聞こえ、いつもと違いなかなか寝付けなかった。行き先は新宿御苑、浜離宮など代々木上原の自宅から近く、とても遠足とは言えなかったのだが。

 

叔母さんに連れられて、いとこ達との海水浴はなによりの楽しみだった。小学校の夏休みの恒例で鎌倉由比ガ浜近くの叔母さんの知人宅へ泊りがけで出かけるのだ。
砂浜に大きなヤマを作り、周囲にらせん状の道を巡らせ、ボールを転がす。夜は、蚊帳の中でいとこ達とふざけっこをする。なんでもないことも一人っ子の私にはとくに楽しみだった。
帰りがけにお世話になったおばさんから「坊や、また来年来てね」と言われて、しばらく考えてから「僕、わかんない」と答えた。「普通、ウンでしょう」といまだにいとこ達にからかわれる。

 

今後に期待することもほとんど無くなった現在、もはや待ち遠しいことはない。このまま少しでも長く、この何事もない平穏な生活が続くことを願うばかりだ。
はるか昔の幼い頃の思い出を、牛の反芻のように時々呼び出しては、しみじみと懐かしんでいる。

 

 

 

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駅といえば別れ 

2023年09月09日 | 昔の話

 

別れでまず思い出すのは1957年のロマンチック・コメディー映画、ビリー・ワイルダー監督の「昼下がりの情事」だ。ゲイリー・クーパーが演じる大金持ちのプレイボーイが純情なパリ娘・オードリー・ヘップバーンと知り合い、互いに惹かれ合う。クーパーはパリを離れる際、女性との別れの修羅場になりがちな列車を避けていつもは飛行機にするのだが、あいにくこの日は欠航で、パリの駅での別れとなる。動き出した列車のデッキに立つクーパーに、世慣れた風を装い、ことありげに男たちのことを必死に言い募るヘップバーン。耐えきれず彼は彼女を列車に抱え上げる。観客の女性たちの溜め息が聞こえるシーンだ。

 

実際に目撃した切ない別れは九州の田舎の駅でのことだった。大学時代の友達数人でユースホステル利用の九州一周旅行中のことだ。停車した小さな駅のホームをデッキに立って眺めていると、詰襟を着た中学生が心細げに立っている。そばにはちょっと背中が丸い母親がいて、「頑張るんだよ」と心配そうに声をかける。たった一人で遠く離れた地に就職するのだろう少年は、いかにも固い顔で、ただ「うん」と不安に震えるような小声で答えた。
今思えば、団塊の世代の中卒の労働者が“金の卵”と呼ばれ、高度成長を支えた、まさにその始まりの頃の光景だったのだ。

 

このシーンを思い出すと今でも胸が詰まる。あの心細げな少年は無事勤め先に定着できただろうか? 今、70歳ぐらいだろうか? いろいろあったにしても、真面目に勤めあげただろうか? 今は子どもや孫たちに囲まれてニコニコと暮らしているのだろうか? いや、そうであるに違いない、そうであるに決まっている。

これと言った才能もなく、たいした努力もしないのに、とくに危機にも襲われることなく、平凡ながら幸せに暮らしてきた私はそう思うのだ。

 

 

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私と計算

2023年08月04日 | 昔の話

 

私は算数も数学も才能はないのですが、好きでした。ロマンがあって、面白いですよね! でも、単純計算は嫌いでした。

小学生の夏休みの宿題で、大量の計算問題が出ました。やり方は分かっているのに同じ事を繰返しても意味がないと単純に考え、答えの欄にでたらめな数値を延々と書いて提出しました。
休み明けに答え合わせがあり、順番で答えを読み、皆が「あってます」と唱和する。私の番になり、でたらめの答えをそのまま読むと、皆が「違ってます」と声をあげる。「いけねえ」と頭を書きながら座りました。

その場はしのぎましたが、罰は社会に出てからやってきました。電卓がどこにでもある時代になっても、手計算、暗算は必要で、私は早くできず、ちょっとしたハンデになっています。

 

 

以下、計算機の話

研究所務めだったので計算機はとくに若いときは良く使ったが、コンピュータの専門家ではないので、以下、利用者からみた計算機の昔話をしたい。

そろばん
子供の頃、母が使っていたそろばんが5つ玉だった。見ていると、下の段の5つ目の玉は動くことが無い。
「その玉はどうしてあるの?」と聞くと、母は困った顔をして、「そうねえ」と言うばかりだった。小学校で買わされたそろばんは4つ玉だった。いまだに、なぜ昔々のそろばんは5つ玉だったのかわからない。

計算尺
最近の人は計算尺なるものをご存知なのだろうか。30cmくらいの長さの板状の計算道具で、桁数は暗算で求め、有効数字3桁ほどの乗除算を素早く求めるのに使う。2つの数の掛け算がlogをとると足し算になることを利用している。工学系の計算に便利で、1970年ぐらいまで良く使った。
もっと有効桁数が必要な場合は、7桁の常用対数表という丸善から出ていた冊子をめくって対数計算で乗除算の答えを求めた。

タイガー計算機
数値をセットして、ハンドルを回すと答えが出る手回し計算機械だ。中味は歯車の固まりで、論理機械の傑作、究極の姿だと思う。加算減算もできるが、乗算は123*456なら、123をセットし、まずハンドルを6回転し、桁送りしてから5回転し、さらに4回転すると答えが得られる。面白いのは除算で、除数をセットしハンドルをマイナス回転していくと、チーンと音がしたら1回転戻す。大学の研究室で、大勢並んで計算していると、あちこちでチーン、チーンと音がしたのを思い出す。
概算を求めるときは計算尺で、正確な値はタイガー計算機を使ったものです。

ファシット計算機
タイガー計算機の歯車をモータで回すような仕組みのもので、AC電源が必要だった。会社に入ったらタイガーがファシットになっていて、やはり金があるところは違うなと思いました。

計算尺、タイガー計算機、ファシット計算機ともに、電卓が出てきてあっと言う間に駆逐されました。

電話機での関数計算
あまり一般的ではなかったと思いますが、電電公社(現NTT)のセンタ(多分、DRESSか、DEMOSといったと思います)に接続し、電話機からダイヤル入力し、音声で回答を得る方法がありました。

具体的には、接続状態で、プッシュホンのダイヤルの組合せで計算したい関数を登録します。あとは計算したい数値を入力すると合成音声で回答が聞こえます。

例えば、実験結果の分散値などを求めるのに便利でした。私は、右に置いたデータ用紙を見ながら、左の電話機ダイヤル上で、左手でブラインドタッチでデータ入力をして、電話機に差込んだイヤホーンで回答を聞いて、右手で結果を用紙に書き込んでいました。
このおかげで、電卓にとって代わったときに、電話機と電卓のキー配置が異なるため、しばらく電卓入力に苦労しました。電話機は当時CCITTという通信関係の国際機関が標準を決め、計算機はISOが標準を決めていたので、両者のキー配置が異なってしまったのです。

電卓
継電器と言われるリレーを用いたリレー式計算機と言うものがあったようですが、私には記憶がありません。1960年代にはトランジスタを使った電子式計算機が登場、普及しました。70年代に入ると、LSIが使われ、AC電源から電池に代わったので一気に普及し、四則演算は電卓と決まりました。

関数電卓
SIN、COS、ルート、指数など関数が使える手の上に乗る電卓がYHP(現HP)から1970年ごろ販売され、手にしたときは驚きでした。今でも端が少し立ち上がった黒っぽい薄いきょう体に、ずらっと並んだ小さなキーと赤いLED表示を思い出します。センタの大型計算機と電話機の組合せが、小さな関数電卓に完全にやられたと思いました。

大型コンピュータ
メインフレームと呼ばれる大型コンピュータはIBM360がもっとも有名です。私の属する研究所にはIBM360を追って開発されたNECのNEACなど(富士通のFACOM、日立のHITAC)があり、専属のオペレータがいる計算機室の棚にプログラムを時間までに置いておくと、夜計算機にかけ、翌日プログラムリストと計算結果が打ち出された紙が棚に置いてあるというシステムになっていました。

プログラムは、FORTRANという数式ほぼそのままのような言語で書きます。FORTRANはBASICとほぼ同じような言語です。コーデイングシートに手書きして、英文タイプライターのような端末から入力すると、確か80カラムの穴が開いたIBMカードが1ライン、1枚できます。このカードをライン数だけ束にしたのがプログラムになります。紙テープに落とすこともできたと思いますが、テープだと順序を入れ替えるなどの訂正が容易でないので使いませんでした。

このカードの束の端面にマジックで斜め線を書いて順序を分かるようにしていました。カードの束を棚に入れておくと、オペレータが計算機にかけて結果のプリントアウトを棚に入れておいてくれる。一日一回の計算依頼しかできない。どこかバグがあれば、一日が無駄になる。

受付時間ぎりぎりで廊下を走り、転んでカードをばらまき、整える時間がなく、だめなのはわかっていたが、そのまま棚に入れた。プログラムリストを紙に打ち出してもらえるので、翌日カードをそろえるのが楽なのであえて「Fatal Error」をもらった覚えがある。
繰り返し計算させてある値の範囲に収束させるプログラムで、収束条件を厳しくしすぎて、と言うか発振条件だったので、数時間計算機を無駄走りさせたこともあります。

μCマイクロ・コンピュータ
1971年、μCマイクロ・コンピュータが登場した。私の場合は、マイコンを主に機器の制御に使ったので、マイクロ・コントローラといった方が良いかもしれない。数式そのもののようなFORTRANを使って数値計算プログラムを作っていた身には、計算機の構造を理解し、アキュムレータだの、レジスターだのを頭においてプログラムを書くのは足し算一つでも大変だった。当時は確か単純な4ビットCPUだったのですが。

プログラマーに作ってもらい、使いながら一部を自分で変更するのがせいぜいでした。しかしながら、実験装置の制御は従来作りこみで固定だったのを、マイコン制御にして、状況にあわせてプログラムで変更できるのはたしかに便利でした。

初期のパソコン
1977年ごろ8ビットCPUを持つトレーニング用組立マイコンキットTK80が販売され、いたずら程度にさわっていました。
1980年ごろ、アタリ社のパーソナルコンピュータで、確か磁気テープからプログラムをロードして、テーブルテニスや、インベーダのゲームで遊んだ覚えがあります。
1983年に8ビット機の統一規格「MSX」が提唱され、各社対応パソコンが販売されました。個人的に購入し、ROMで出来たゲームソフトを買ったり、簡単なゲームを作って遊んだりしたが、すぐあきてしまった。また、この規格も半導体のすさまじい進歩によって、あっという間に時代遅れとなってしまった。

ワープロ
ワープロは、親指でシフトするOASYSキーボードでブラインドタッチで入力していた。不思議と、パソコンに向かい最初の1,2文字打つと、自然にQWERTY配列でブラインドタッチできる。
私の場合、紙に書いたものをワープロで清書するという使い方は少なく、内容や文章を考えながらワープロを打つことが多い。したがって、入力速度はそんなに厳しく要求されないが、ブラインドで打つと、目がディスプレイを見たままになるので、考えが中断されない。

大学で自由選択科目だったが、英文モールス信号を聞き英文タイプを打つ授業をとった。会社に入って、英文で論文を書くとき、下書きの英文を目で見ながら、モールスに直しつぶやく。すると、手が自然と動き、キーと打つ。そんな、英文、モールス、キーを繰り返していると、人間とは不思議なもので、いつのまにか、間が抜けて、英文、キーになっていた。

そして、現在へ
IBM-PCが1981年発売になってから現在までの進展は私には一瞬に思える。
パソコンOSもMS-DOSからWindows3.1、95、2000、XPと複雑で重くなっていったが、ハードの速度、記憶容量が飛躍的に向上して行ったので使い勝手はたしかに良くなっていった。XPで安定性も増した。自宅のパソコンもいったい何代目なのかわからなくなった。

退職した現在では、メール、ブラウザの他は、主にワードを使い、エクセルを時々、会社でよく使ったパワーポイントは使う場がない。あとは、Paint Shop Proで遊び、HTMLでホームページを作るくらいで、プログラムとは縁遠い世界にいる。

 

「想えば遠くに来たもんだ」

 

 

ほとんどが、2006年6月17日の「計算機昔話」の再掲でした。

 

 

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昔の言葉が出てきます

2023年08月02日 | 昔の話

国電を降りると、テクシーで家に向かう。前を行くギャルの柳腰が気になり、追い越して振り向くと、バックシャンだった。「ガチョーン!」

格子戸を開けて、玄関で、こうもり傘を置いて、シャッポを脱ぎ、襟巻きをはずし、ズックを土間に脱ぎ捨てる。居間のちゃぶ台とおひつをチラッと見て、奥の間に入り、国防色のズボンを脱ぎ、股火鉢で暖まりながら、「ああ、俺ってナウイなあ」と思う。


国電:JRが国有鉄道(国鉄)だったので国電という。私の親父は省電と言っていた。鉄道省だったから。
テクシー:タクシーに乗らずテクテク歩くこと。親父はタクシーを円タクと言っていた。1円で乗れたから?
ギャル:軽薄だが元気な若い女性のこと。ギャル曽根って知らない?

バックシャン:後姿だけが美しい人。シャンはドイツ語で美しいこと

ガチョーン:クレージーキャッツの谷敬のお得意のギャグネタ。「えっ!クレージーキャッツを知らないの? ガチョーン!」って使うんだよ。

格子戸:細い木を縦と横に組んだ扉や引き戸。風や光を通すので解放的。
シャッポ:元はフランス語。帽子のこと。
ちゃぶ台:畳に座って食事するとき使う、折りたためる4脚を持つ低いテーブル。怒ったとき、ひっくり返すもの。
おひつ:炊いたご飯の木製の入れ物。保温するため小さな布団でくるむこともある

 

2006年6月の「昔の名前が出てきます」の再掲でした。

 

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幼い私のおもちゃ

2020年04月20日 | 昔の話

貧しい時代の貧しい家に育った私には、おもちゃらしいおもちゃはなかった。

家でよく遊んだのは、風呂敷をマントに、物差しを刀にしたアメンホテプ遊びだ。風呂敷はゴワゴワした木綿地で、紺色だったような気がする。物差しは三尺の竹尺で、持つところの節が少し出っ張っていて色が薄くなっていた。一人っ子なのでチャンバラをするわけでもなく、ただ扮装して貸本漫画に出ていたエジプト王になりきるのだ。

親父の碁石でも遊んだ。畳の上に陣形に並べて白と黒で戦うのだが、勝ち負けのルールがあるわけでもないので、味方と決めた方がどんどん勝って行くだけだ。頭の中の戦いのイメージが遊びの主体で、碁石はその結果を示すのに使うだけだったのではないのだろうか。貝でできた白石は薄く艶があり、黒はくすんでいた。碁石を入れる碁笥(ごけ)の蓋の丸みが何故か懐かしい。


庭では木登りをし、屋根にもよく登った。一人で遠くを眺めていると、自分の狭い世界が広がったような気がしたものだった。


メンコやベーゴマも、ときどき商店街の抜け目ない彼等の所へ出かけ勝負した。しかし、ベーゴマに鉛を盛ったり、角を削って尖らしたりし、勝負にかける意気込みが違う悪童達にのんびりした私が勝てるわけもなく、わずかな持ち物をすぐに巻き上げられてしまった。


小学校に入ってからよく遊んだのは、車がめったに通らない未舗装の裏通りでの三角ベースの野球だ。隣に住む同級生と、その弟がいつも一緒だった。二歳ほど下の弟はまだ下手でよくエラーする。私が「またエラーしたぜ」と友達と笑っていて、さらに「ほんと駄目だよな。どうしよもないよ」と言う。すると、いつも一緒にバカにしていた友達がちょっと変な顔をして、「だけどあいつけっこう打つぜ」と言った。私は「ああ、友達よりやっぱり兄弟なんだ」と黙りこんでしまった。

「いつも結局ひとりだったんだね」と慰めてやりたい。

 

今のような巧みに作られたおもちゃや、ましてコンピュータ内蔵の高度な玩具などなかった時代、子ども達は身近なものを空想でおもちゃ道具に変え、工夫して手を加えて遊んでいた。今となっては懐かしさもあって、結構楽しく遊んでいたように思えてくる。部屋一杯に散らかった孫のさまざまな工夫されたおもちゃを見ていると、本当に幸せなの?と思う。

 

 

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自転車の三角乗り

2007年11月18日 | 昔の話

1950年代だろうか、私の子供のころは子供用の自転車はなかった。家にあったのは当時はごく普通の、黒いペンキを塗りたくったような無骨な大人用の自転車だった。四角い大きな荷台が付いていて、補助輪ももちろんギアチェンジもなかった。

お尻を乗っけるサドルは高くて、子どもは届かない。そこで登場するのが三角乗りだ。

まず、自転車を右側にして両手でハンドルを握り、自転車を向こう側に少し倒し、ペダルに左足を乗せる。右足を後ろにして地面をける。体重のバランスをとりながら、自転車を手前にも、向こう側にも倒れないようにしながら地面をけって前へ進む。この段階をクリアーするのがまず大変だ。なにしろ、自転車とともに向こう側に倒れそうで怖い。この乗り方である程度のスピードが出るようになると次の段階の三角乗りに進める。

前段の片足ペダルで自転車が前に進んだ状態で、自転車の三角フレームの間から、くの字に曲げた右足を突っ込んで右のペダルを漕ぐ。自転車ごと向こう側に倒れそうで、とても怖い。元々不安定な曲乗りなので、何度も倒れ、あちこち痛めながら、自転車を征服できたときは、それは嬉しいものだ。
長時間乗れる乗り方ではないが、今まで上級生が乗る自転車の後を走って追いかけていたのに比べると雲泥の差で、一気に大きくなった気がした。

最近の子どもは、補助輪付きの小さな自転車から徐々に大きなものに乗り換えていき、やがて補助輪をはずして練習し、そのうち大人用に乗り換える。それでも補助輪をはずす段階は今の子どもにとっては大きな壁ではあるのだろう。

子どもは何度も壁を乗り越えて成長するのだと、あらためて思う。



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お祭りの思い出

2007年10月31日 | 昔の話

前回につづき昔話をもう一つ。

子どものころの楽しみの一つに、隣駅近くにある八幡様で行われるお祭りがあった。八幡様の階段の登り口から、登った後の石畳の道の両側にお社まで出店が並ぶ。

小学校低学年の頃、お小遣いをもらいお祭りに行った。手をポケットに入れてしっかりもらった小銭を握ったまま緊張して歩いて行った。八幡様に着いて、出店を見て回り、いざ買おうと思ったら、お金がない。
青くなってそのまま家に帰って、「しっかり握り締めていたのにすられた」と訴えた。母は、「馬鹿ね。ポケットに手を突っ込んだまま歩いていれば、ここにお金を持ってますって教えているようなものでしょ」と冷たく言われてしまった。


居並ぶお店の大半はお菓子やお面などの店だが、ちっと変わった、というか、いんちきな店も多かった。

先に針をたらして回転する棒が円盤の上にあり、ルーレットのように棒を回し、針が止まったところの円盤に書いてある商品がもらえるゲームがあった。1回いくらだったか忘れたが、もう少しですばらしい商品のところで止まるのに、いつもわずか行き過ぎたり、手前で止まったりする。何人もの子供が失敗するのを見ていて、友達と、「あれはきっと板の下に磁石があって、おじさんが当たらないようにしているに違いないぜ」「インチキだ。止めだ、止めだ」と言いながら、ついつい見とれてしまう。


望遠鏡のような筒状のおもちゃもよく売っていた。おじさんが言う。「これで見ると、なんでも透けて見えちゃうんだ」。 指を広げて、のぞいて、「ほら、骨が透けて見える」。覗かしてもらうと、確かに手のひらが骨と肉に見える。
おじさんが追い討ちをかける。「女の子を見れば、洋服が透けて見えるよ」

色気が付いた中学に入ってからだったと思う。100円だか払ってさっそく買った。家まで待ちきれず、さっそく、「物」を見てみる。なんだか、物?の周りがぼやけて見えるだけだ。
家へ帰って、腹立ち紛れにばらしてしまう。目を当てるところに鳥の羽が入っていて、物がずれて二重に見え周辺がぼやけて見えるだけのものだった。

最近では大道芸の一つとしてときどきやっているようだが、がまの油売りもいた。道を外れた林の中のちょっとした広場で、竹棒で地面の円を書いて、「この線から入っちゃだめよ」と言ってから、「さあさ、お立会い、御用とお急ぎのないかたは、」と、あの有名な口上をはじめる。
日本刀を構えて、紙を何枚も切って切れ味を示し、そして自分の腕を切って血が出るのを示す。そして、がまの油をつけると、あら不思議、傷口もなくなっている。

なんだか、いんちきも今のようにギスギスしていないで、半分ユーモラスで楽しかった時代だったと思える。


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紙芝居の思い出

2007年10月30日 | 昔の話
最近、話題が途切れがちで、困ったときの昔話を一つ。

私の子供のころは東京でもザリガニが取れる川や、自由に遊べる空き地があり、車もそう多くなく三角ベースの野球ができる裏道もあった。
しかし、日常の遊び以外の娯楽といえばたまのお祭りと紙芝居くらいだった。

毎週何曜日かに来る紙芝居屋さんは、まず飴などのお菓子を売る。子供達はその飴をなめながら、紙芝居を見る。しかし、貧乏な我家には小遣いなどなく、家の事情が十分わかっている私はおねだりなどできなかった。

あめを買わないで、後ろのほうで目立たぬように紙芝居をそっと見ていると、「ほら、そこの飴を買わない子! 見ちゃだめだ」と、おじさんに怒られた。けっこう大勢いるので判らないと思ったのに、オドオドしているので、すぐ判ったのだろう。
友達から一人だけ遠くに離れて紙芝居を見てみるが、おじさんの声は聞こえるが絵が見えない。未練たらしく、坂の上の方に行きウロチョロ、キョロキョロする幼い私の姿が50年以上経った今でも目に浮かび、いとおしく、切なくなる。

たった一度だけだが、どういうわけか、お金をもらって、飴を買ったことがある。丸い中に何か動物をかたどった模様がある飴が棒についていて、うまく舐めていると、その動物の形がスッポリ取れる。はじめてみた紙芝居の内容は覚えていないが、友達と、クスクス笑いながら、取れかけた飴を見せ合ったことを昨日のように覚えている。

いつも腹がすいていたし、他の家より貧乏だったが、今思うと、幸せな子ども時代だった。そもそも、世の中はだんだん良くなるものと思っていたし、実際そうなって行ったのだ。



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台風の思い出

2007年09月07日 | 昔の話


昨日の台風9号にはまいった。夜中中、雨戸がガタガタし、ガラス戸を激しくたたく雨音が間欠的で、途中で目が覚め、寝付かれず、インターネットの映画を2本も見てしまった。久しぶりに大きな台風が関東地方を直撃したのではないだろうか。

子供のころ台風が来るといえば父親が、開き戸にしんばり棒をかったり、木の雨戸に板を打ち付けたりしていたのを思い出す。時々雨漏りがしてあわてて洗面器を置いたり、また、台風の夜は停電にも良くなった。居間に集まった家族がローソク一本の光のもとで過ごしたのも今は懐かしい。家の前の道もよく川のように水がながれていた。新聞でも各地で川が氾濫して洪水になった写真がよく載っていた。
子供のころには、東京にも毎年もっと台風が来ていたような気がする。最近に比べると、台風の影響や被害が大きかったので印象が強いためだろうか。

明治以降、最悪の被害をもたらした台風は伊勢湾台風のようだ。1959年(昭和34年)9月26日、潮岬付近に上陸、近畿・中部地方を襲った。死者・行方不明者は5千人、負傷者約4万人、全壊家屋36千棟、床上浸水15万棟、船舶被害13千隻と甚大な被害をもたらした。そういえば、昔の台風の上陸地点は、足摺岬と潮岬が多かったような気がする。
伊勢湾台風の被害の多くは、3.5mにもなった高潮によるものだった。名古屋港の貯木場から流出した大量の木材が高潮に乗って名古屋市南西部の住宅地を襲い、多くの人命、家屋が失われた。

私は当時高校2年生で、修学旅行で奈良・京都へ行く途中、伊勢湾台風直後の名古屋を通った。まだ新幹線はなく東海道線だったのだが、窓からゴロゴロならぶ材木が見えた。あわててデッキへ行き、支え棒に捕まりながら顔を出すと、名古屋は水上都市化していて、材木が一面に浮かぶ中に壊れた家屋がいくつかあり、ひざまで浸かった人々がなにやら作業していた。修学旅行に行くのに、何か居心地が悪かった。



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戦中・戦後の生活の展示館

2007年09月06日 | 昔の話

前回、前々回と戦争の悲劇が戦後も続いていたことをかすかな記憶を基に書いて見た。あまり知られていないようだが、戦中・戦後の生活がわかりやすく展示されている展示館が東京に2つある。

東京の九段下駅すぐ傍の 「昭和館」

「館長のごあいさつ」によれば、「昭和館は戦没者遺族をはじめとする国民が経験した戦中・戦後の国民生活上の労苦を後世代の人々に伝えていこうとする国立の施設・・・館内には、当時の国民生活にかかわる実物資料を多く取り入れ、その背景もわかりやすく説明した常設展示室、・・・戦中・戦後の映像・写真資料・・・」とある。
6月も20校以上の小中学校が訪れている。
ぜひ時間を作って一度訪れて見てはいかがでしょうか。時間のない人はホームページ上で展示品の一部だけでもご覧ください。


「平和祈念展示資料館」
新宿住友ビルの33階。

「平和祈念展示資料館(戦争体験の労苦を語り継ぐ広場)は、恩給欠格者(軍人在職期間が短い等の理由で恩給や年金を受けられない人)、シベリアでの強制抑留者、引揚者などの方々の労苦についての理解を深めていただくことを目的として、平和祈念事業特別基金が開設した施設です」
実物にははるかに及びませんが、ホームページ上で館内の一部が見られます。


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引揚船

2007年09月05日 | 昔の話

太平洋戦争(第二次世界大戦)が終わった時点で、海外に残された日本人の数は、軍人が約320万人、一般人が約300万人以上という。この600万人以上の人が一日でも早く日本へ帰国できるよう民族の大移動とも言うべき大事業が敗戦の混乱の中で行われ、まず昭和20年9月28日、舞鶴をはじめ9港が引揚湾に指定された。

マッカーサーは人道的立場から協力的で、東南アジア、台湾、中国、韓国などからの引き揚げは1946年には9割以上達成された。しかし、ソ連占領下の北朝鮮や満州などでは、引き揚げは遅れた。実際、関東軍70万人のうち、66万人はシベリアに抑留され、強制労働に従事させられることになる。

なお、引揚船は在日中国人・朝鮮人の帰国船ともなり、中国へ3,936人、朝鮮へ29,061人を送還した。

満州から帰国しようとした開拓者らは食糧事情などで途中力尽きた者も少なくない。また子供を中国人に預けざるを得ないこともあり、いまだに残る中国残留日本人孤児の問題となっている。
藤原てい(夫は作家の新田次郎、息子は数学者というより「国家の品格」の著者の藤原正彦)が、子供を連れ満州より引揚げてきた体験をもとに、小説として記した『流れる星は生きている』は戦後空前のベストセラーとなった。

舞鶴港はこの間、66万人を越える引揚者を受け入れ、昭和25年からは国内唯一の引揚湾として最後まで重要な役割を果 たした。1958年9月の最終船入港で13年間の海外引き揚げ業務は終了した。

日本各地から夫や親族の帰還を待ち望む多くの人々が、舞鶴港へと出迎えに訪れた。
私が覚えているのは興安丸という引揚船の名前で、「今日も来ました・・・」で始まる「岸壁の母」という歌も覚えている。この歌は、引揚船で帰ってくる息子の帰りを待つ母親を歌ったもので、二葉百合子(300万枚)が歌ったと思っていたが、その前に菊池章子という人が歌ってヒット(100万枚)していたようだ。

舞鶴港の国別引揚者
ソ連 455,952(68%)、中国 191,704(29%)、韓国 14,225(2.1%)、北朝鮮 2,375(0.4%)、他 275(0.1%) 計 664,532人

舞鶴引揚記念館のホームページ
(http://www.maizuru-bunkajigyoudan.or.jp/hikiage_homepage/next.html)を参考にさせていただきました。



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