hiyamizu's blog

読書記録をメインに、散歩など退職者の日常生活記録、たまの旅行記など

乙川優三郎『トワイライト・シャッフル』を読む

2014年11月30日 | 読書2

 

乙川優三郎著『トワイライト・シャッフル』(2014年6月20日新潮社発行)を読んだ。

 

三浦しをんが朝日新聞の書評で本書を推薦していた。

喪失でも選択でもない観点から見事に恋愛を描いた「サヤンテラス」、創作物が人間にもたらす豊饒について、これ以上なく考えさせられる「ビア・ジン・コーク」、この町と、町に住む多様な人々の魅力、生と死から迸(ほとばし)る力と崇高さを活写した「私のために生まれた街」が大好きだ!

読書とは、本を媒介に自分の心の奥底を知り、登場人物とともに生き、語らいあうことなのだ。改めてそう感じる、至福の時間を味わった。

 

房総半島のおそらく御宿とその周辺の漁港。気づいた時にはもう十分年齢を重ねてしまっていて、小さなさびれた街で自分に自信を持てず、疑問を持ち、焦っている人々。そこに住む人、そこを訪れた人、元海女、落ちぶれたジャズピアニスト、旅行者、女性郵便配達人、異国の女など。

 

 

「イン・ザ・ムーンライト」

脳梗塞で倒れた夫の安治を介護する絹江には昔の海女仲間に聡子がいた。さびれた海辺の街を訪れる若い旅行客がいる一方で、かっては年間数百万円も稼いだ海女はもう誰もいない。苦労だらけだった二人。無性に腹が立った絹江は聡子に言う。「海、行くべ、おれ用意すっから」「もう、あきらめるのはやめるべ」

 

「サヤンテラス」

イギリスの養護施設で育ったオリーは、日本人と結婚して房総の海辺の街に落ち着いたが、研究所勤めの夫の吉野哲夫が亡くなってしまう。教会で声を掛けられた品の良い老人が・・・。オリーは一人異郷に残されたが、居心地のよい家と困ったときには哲夫が語り掛けてくれるテラスがあった。

 

「オ・グランジ・アモール」

かって繊細なジャズピアノでならした生島健二は、夏の3か月だけ房総半島の小さなホテルで演奏するようになって8年になる。・・・美しい女性が時々バーを訪れ、ピアノを聴きながら、視線を夜の波間に漂わせる。彼は女性のために、ボサノバとジャズが絶妙に溶け合った「オ・グランジ・アモール」を弾きだす。女性の目がうっとりとし、この儚い瞬間の喜びに、彼の人生は輝きを取り戻す。

 

「ビア・ジン・コーク」

スーパー勤めの早苗は、日曜の昼下がりの休みになると、氷を入れた大ぶりのピッチャーにビールと小瓶のジンとコーラを注いでかき混ぜるだけのビア・ジン・コークを飲みながら本を読む。

 

夫が失踪した年はそんなこともできなかったが、彼女は不測の日々を読書と酒で乗り越えてきた。何か信じられる時間を持たなければ自分が壊れる気がしたし、寄り添えるもののないことほど恐ろしいこともなかった。佳い本は彼女を抱き寄せて、温かい海のように優しかった。

 

読むことで人間も人生も膨らむ気がするし、自分にはない物の考え方や苦悩や人のありようを知るのが愉しかった。他人の人生に触れていると自分の人生を客観視できるようになって、重たい現実は軽くなり、生きている空間が色づく。そんなありがたいものは他に見当たらないので、日曜の午後から火曜の朝まで彼女は読書に明け暮れるのであった。

 

メモを入れる靴箱の中には十年の走り書きが詰まっている。彼女はその一枚を手にとって眺めた。

「煎じつめればこの世のことは何もかも美しいのであり、美しくないのは生きることの気高い目的や自分の人間的価値を忘れたときの私たちの考えや行為だけである」
 もう忘れることのない、チェーホフの言葉であった。時間も空間も飛び越えて、それは縁もゆかりもない女の心を支えようとしている。

 

 

「私のために生まれた街」

交通遺児の隆は、18歳のときから30年、海沿いの街で、誠実に小さな土建仕事を積み重ねて来た。ずさんな工事で困っている婦人の広い敷地のやり直し工事を引き受ける。国際機関で世界を飛び回っていたという彼女は癌にかかっていた。しかし、フェンス沿いにブルーカーペットの細長い花壇を作るのが最終目的だという。

婦人は、ジュンパ・ラヒリの本をくれて、彼女の目を通すと世界が違って見えるという。彼は仕事か私情かわからない時間を過ごす。

 

 

初出:「小説新潮」2013年7月号~2014年4月号、「366日」「私のために生まれた街」「月を取ってきてなんて言わない」は書下ろし

 

 

私の評価としては、★★★★(四つ星:お勧め)(最大は五つ星)

 

斬新さはないが、しみじみとさせる味わいがある。さすが、ベテラン時代小説家。

海辺の観光地には、地元を出たことがない人も、移って来た人も、異国からの人もいる。さまざまな人の、さまざまな人生を、土地を共通項として描いた短編集だ。

新しい道に進むことを考えている人も、今までの道を見つめ直して進む人も、遠くにかすかな希望が見えるラストに救われる。

 

 

私は学生時代に御宿に行ったことがあって、もう最盛期は過ぎていたが、海女小屋もあり数人の海女がいた。ある若い海女に話しかけられた思い出もある。ちょうど、小説の中の絹江と聡子が海女になった昭和30年代だ。当時の私には、御宿はただただ日に焼けあせた街に思えたのだが。

 

 

乙川優三郎(おとかわ・ゆうざぶろう)
1953年東京都生まれ、すぐに千葉県へ。千葉県立国府台高校卒業、ホテル・観光業の専門学校卒業後、国内外のホテルに勤務。会社経営や機械翻訳の下請を経て、
1996年『藪燕』でオール讀物新人賞を受賞し作家デビュー
1997年『霧の橋』時代小説大賞
2001年『五年の梅』山本周五郎賞、
2002年『生きる』直木賞、
2004年『武家用心集』中山義秀文学賞
2013年『脊梁山脈』で大佛次郎賞 を受賞。

他の著書に『むこうだんばら亭』『露の玉垣』『逍遥の季節』『さざなみ情話』などがある。

 

 

「ウォーカーズ」

夫に充(みつる)は新築の家の庭作りを妻の良子に頼んで、新工場建設のため張り切って中国へ単身赴任した。

 

「フォトグラフ」

由季子は同棲している三野和明と外房線の小さな駅に降り立つ。母の双子の姉で、作家だった叔母の遺産の別荘を見に来たのだ。白い額に入れられた50点ほどの写真が飾られた小部屋があって、・・・。


「ミラー」

54歳の香織は協議離婚を終えたところで、癌が見つかり実家のある房総の病院で手術した。・・・しまりのない人生に気づいた彼女はまだ生き足りないと思った。

 

「トワイライト・シャッフル」

文芸出版部の美夏子は40人ほどの作家を受け持っていた。久しぶりの休暇で房総半島の海辺の街へ行く。

 

「ムーンライター」

難病の弟千秋がいて、郵便配達で一家を支える真弓は、海辺の街の瀟洒な洋館に住む画家・馬淵から裸婦のモデルに誘われる。

 

「サンダルズ・アンド・ビーズ」

広告代理店に12年勤める翔子は、5歳年下の後輩の内海をときどきマンションに泊める。翔子は、別れたはずの外部デザイナーの荻原正明と年に一度、房総の海に臨む小さなホテルで会っていた。5年続き、・・・。

 

「366日目」

一生のうちの長い時間を分け合いながら肝腎なことは何も知らない、そんな友人や知人のなんと多いことか。 なおざりにしてきた未知の部分にこそ本当の姿があることに貴美子は気づいたが、相手は夫の泰之であった。

40代になってようやく泰之の離婚が成立したが、彼は早期退職し、房総半島で貴美子と正道との生活を始めた。彼は、新築の庭に大きな岩を持ち込んで・・・。

 

「月を取ってきてなんて言わない」

外資系企業の日本支社の社長秘書でブラジルのリオっ子のナオミ・テリスは、営業部長の長谷とホテルで待合せるようになって2年になる。彼女は夏休みとも言えない短い休暇を房総半島の小さな町の産院で過ごした。

避けようのない破局が見えてくると、未練と闘いながら終わり方を考えるしかなかった。長谷がなんと言うかわからなかったが、同じことなら憎しみ合う静かな別れがよかった。

 

 

 

 

 

 

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C*LAB PROJECT

2014年11月29日 | 食べ物

京王井の頭線 三鷹台駅南口駅前の9月にオープンした
「C*LAB PROJECT」というお店。

まずは入ってみたが、何の店が分からない。いわゆるセレクトショップらしい。


ドイツでソーセージがおいしかったので、とりあえず、フランクフルトソーセージをご購入。
2本で680円と高いのでびっくり。もちろん美味しかったのだが、値段ほど??


28日、奥様がお菓子をご購入。

左がサブレバニーユ 380円で、右がキャラメルクランベリー 180円

 これも、通常我々の口に入る物としては高いので、どんな店なのか調べてみた。

C*LAB PROJECT」 

テーブルコーディネーター、パティシエ、ソムリエ、フランス料理のシェフ、
モダンアンティーク家具作家など(そうそうたる顔ぶれ?)がコラボレート

ランチ/ディナーのご予約、オリジナルギフトの企画/販売などを行っているらしい。
???

 

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富士 2 景

2014年11月28日 | 日記

11月27日朝の富士山

26日の雨(富士山は雪)で、今年初めて裾野まで真白になりました。

ちなみに、10月16日の初冠雪のときは、こうだった。

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PANCAKE HOUSE へ

2014年11月25日 | 食べ物

昨年5月、米国から上陸したパンケーキ・ハウス。 吉祥寺・丸井の1階にあるが、いつも行列で並ぶ気がしなかった。 今日は日曜日、1時過ぎなのに、比較的列が短い。

中は当然満杯で、店員さんは忙しく飛び回る。丁寧に書かれたメニュー表もなんとなくアメリカ風?

飲み物は、マンゴージュースと、アメリカ式の大きなカップのブレンドコーヒー

相方は、「ブルーベリー・パンケーキ」

「バターミルクパンケーキにブルーベリーを入れて焼き上げ、粉砂糖をトッピング。
ホイップバター、ブルーベリーコンポート付。」1020円

「甘かった!」とのご感想。

私は、変な名前だなと思いながら、いつものようにメニューをよく見ずに「ダラー・パンケーキ」

来てみてびっくり。

小さい! メニューの「10枚」というところに魅かれたのだが。

メニューには、

「ドル硬貨にみたてた、ちいさなバターミルクパンケーキが10枚かさなりあってます。
ホイップバター、メープルシロップ付。」 1030円

とちゃんと書いてあった。

感想は、「普通のパンケーキ」。


隣の人の、多分、ダッチベイビー DUTCH BABY(¥1,340)

 オーブンでじっくり焼き上げたジャーマン生地のパンケーキ

ホイップバター、レモン、粉砂糖付。

がおいしそうだった。店員さんが、目の前でバターを塗ってくれて、レモン3きれを絞らされて、粉砂糖を振ってくれて、いただきます!

次回は、これにしよう。






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久しぶりに、Re:Gendo でランチ

2014年11月24日 | 食べ物
西荻駅南の「Re:Gendo」でランチにした。
このブログで検索してみたら、前回は約1年前だった。

入口は、奥まった路地にある。



ここが入口。



この日の一汁一穀三菜膳は、鯖のソテー バルサミコとらっきょうのソース。



ラッキョウだけが苦手の私は、野菜寿司。



古民家を最小限の改造で使っているらしい雰囲気のあるお店。
お隣のテーブルは和服の若い女性二人。
向かい側には、ウフ。

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浅野素女『フランス父親事情』を読む

2014年11月22日 | 日記

浅野素女著『フランス父親事情』(2007年4月10日築地書館発行)を読んだ。

パリで20年以上暮らす著者は、フランスの父親たちへ取材を重ねて、やはり、子供には母親とは違う父親の存在感が必要だと考え直しつつある最近の傾向を示す。といっても、7年程まえの本だが。

現代フランスの家族事情
・婚姻関係にない親から生まれる子供は、1970年代には7%だったが、今日では約半分だ。
・2006年の時点で、100組の夫婦のうち42組が離婚する。1990年に共同生活を始めたカップルの15%が5年後に別れ、10年後には30%が別れている。
・結婚でも事実婚でもその社会的権利は、死亡時の遺産相続以外、まったく変わらない。
・もともと、女性も個人の正式な姓は、結婚しても変わらなかったのだが、2005年から、生まれた子どもに母親の姓を与えることが可能になった。

フランスの家族事情の変化
・1943年、堕胎を助けたマリーという女性はギロチンで死刑になった。(なんと、約70年前のことだ)
・1970年、(五月革命の影響で)法律上の父権が消滅し、親権になった。
・フランスでは、70年代からのフェミニズム思想、女性の社会進出、避妊手段の発達などで、家庭での父親は影が薄くなり、母親の陰に隠れた。
・80年代に入ると、母親と同じように育児に入れ込む「めんどりパパ」が登場。母親になろうとして、やりすぎる父親も出て来た。
・90年代には母親とは違う父親の重要性が再認識されるようになってきて、親権の法整備などで父親の権利回復作業が進められた。
・21世紀に入り、父親を含めた家庭づくりを目指して、「父親手帳」の交付、父親の出産休暇が2週間に延長され、出生率は2006年には2.0に達した。

家庭での父親のあるべき姿
母と子が渾然一体となった至福の関係は、いずれ終わりを告げなければならない。できればなるべく早い時期に、母親は子どもに、「あなたの存在だけでは私は満たされない」と、明示してやる必要がある。母親の目が自分以外のものに向けられている、母親は自分以外の存在(特に父親)に魅かれている、と感じる時、子どもは失望すると同時に、ある種の心の平安を得る、離れていっていいのだ、と。

母親は、子どものすべての欲求に即座に応えようとする。・・・父親はそれを阻む存在なのだ。・・・
何らかの欠乏の感覚があるから、子どもは泣く。その欠乏の感覚こそが、人間が人間たる所以のもので、欠乏の感覚がある種の緊張をもたらし、ほしいものに手を延ばす動きを生む。・・・その欠乏が満たされた時、幼児は「自分」を意識する。・・・それは・・・自分が生きていると感じる瞬間なのである。

「父親の傾向として顕著なのは、子どもが何か企てて行動に移そうとする時、積極的に後押しすることだ。・・・父親の存在感がある家庭の子どもの方が、一般に、「他人」や「外の人」にたじろがない子どもになるという。

私の評価としては、★★★(三つ星:お好みで)(最大は五つ星)

全体の主旨には納得でき、個々の例もよく解るのだが、全体の話の流れがスムーズでない。フランスでの父権の喪失から復活という大きな流れはあるのだが、インタビュー内容など、あちこちに話が飛ぶ。

4章の神と精神分析、5章父性をめぐる西洋史は、講義調で、おもろない。


浅野素女
1960年生まれ。上智大学フランス語学科卒業。
フランスの家族制度が激動してきた20余年間をパリで暮らす。二児の母。
ジャーナリスト、エッセイスト。新聞、雑誌、ラジオを通じ、フランス社会の「いま」を日本に伝える


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高田郁『天の梯』を読む

2014年11月15日 | 読書2


高田郁著『天の梯(そらのかけはし) みをつくし料理帖』(時代小説文庫 た19-12、2014年8月18日角川春樹事務所発行)を読んだ。

裏表紙にはこうある。
『食は、人の天なり』――医師・源斉の言葉に触れ、料理人として自らの行く末に決意を固めた澪。どのような料理人を目指し、どんな料理を作り続けることを願うのか。澪の心星は揺らぐことなく頭上に瞬いていた。その一方で、吉原のあさひ太夫こと幼馴染みの野江の身請けについて懊悩する日々。四千両を捻出し、野江を身請けすることは叶うのか! ? 厚い雲を抜け、仰ぎ見る蒼天の美しさとは! ?「みをつくし料理帖」シリーズ、堂々の完結。


なにしろ、「みをつくし料理帖」の5年にわたる10巻シリーズの最終巻だ。いままで読み続けて来た人のおおよそ想像していた通りのエンディングであるが、今回の読後感想では、内容紹介、引用を控えよう。もちろん、結びに至る道筋には、著者に考え抜かれた伏線があり、驚きもあったのだが。


料理のレシピ集である巻末付録「澪の料理帖」は、「葛の「水せん」」、「親父泣かせ」、「恋し粟おこし」、「心許りの「蛸飯」」と各章毎の4品。

特別収録「みをつくし瓦版」で、登場人物のその後を知りたいとの要望を多く受けたとあり、
登場人物のひとりひとりに深い愛情を抱いて頂き、作者として心から感謝いたします。長くお待ち頂くことになりますが、それぞれのその後を一冊にまとめて、特別巻として刊行させて頂くことでお気持ちに添えたら、と考えています。



巻末には、料理番付が折りこまれていて、東の大関が自然薯尽しで「つる家」、西の大関は病知らずで「みおつくし」、勧進元は、日本橋「一柳」改め「天満一兆庵」とある。また、東の小結に『銀二貫』の「井川屋」の名が見える。


私の評価としては、★★★★★(五つ星:是非読みたい)(最大は五つ星)

あれこれ想像していたような落ち着きどころにほっとした。しかし、4千両揃えるためのマジック、澪や太夫の落ち着き先、最高の身請け先など、さすが高田郁さん、なるほどと納得する見事な大団円だ。

半年に一冊のペースはもどかしかったが、終わってみると、毎回、期待通りの出来栄えで満腹し、次回はこうか、それとも・・・などと想像しながら反芻して待ち、そして、と、くり返し10冊。一気に読むより、十分味わいながら、時間をかけて楽しめた。がつがつ食べる料理でなく、楽しく話しながらたっぷり時間をかけて味わう料理のようであった。

そして、このシリーズの人気の秘密は、何といっても登場人物の魅力的なキャラクターだろう。澪のひたむきさ、しっかり者なのに心優しい芳、うまい料理に「こりゃ、だめだよう~」と叫ぶ種市、愛の心を怒り声で伝える清右衛門などなどだ。
中でも、私が、男として心惹かれるのは又次。若い頃の目つき鋭い高倉健が。顔も気風も良く、矜持がぴりりとしたいい男だ。もちろん、私自身は、人を導くことなど無理なただ口の悪いだけの清右衛門だということは自覚していますが。


高田郁(たかだ・かおる)は兵庫県宝塚市生れ。中央大学法学部卒。
1993年、川富士立夏の名前で漫画原作者としてデビュー。
2006年、短編「志乃の桜」
2007年、短編「出世花」
『みをつくし料理帖』シリーズ
2009年~2010年、『第1弾「八朔の雪」第2弾「花散らしの雨」第3弾「想い雲」
2010年『 第4弾「今朝の春」
2011年『 第5弾「小夜しぐれ」
第6弾「心星ひとつ」
2012年『 第7弾「夏天の虹」
みをつくし献立帖
2013年『 第8弾「残月」
その他、『銀二貫』『あい
2014年『 美雪晴れ』、『天の梯』

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ジュンパ・ラヒリ『低地』を読む

2014年11月13日 | 読書2

ジュンパ・ラヒリ著、小川高義訳『低地』(新潮クレストブックス、2014年8月25日新潮社発行)を読んだ。

 

過激な革命運動のさなか、両親と身重の妻の眼前、カルカッタの低湿地で射殺された弟。遺された若い妻をアメリカに連れ帰った学究肌の兄。仲睦まじかった兄弟は二十代半ばで生死を分かち、喪失を抱えた男女は、アメリカで新しい家族として歩みだす――。着想から16年、両大陸を舞台に繰り広げられる波乱の家族史

 

スバシュとウダヤン兄弟は、2つの池、奥に低湿地が広がるインド・カルカッタの郊外に住む。雨季には池が広がり、浮草の布袋草が群生する。大人しく慎重なスバシュは、活発で皆から愛される弟ウダヤンの後に続く。仲のよい二人はどこに行くのも一緒だ。むかいあって勉強し、二人で作ったラジオを聞き、金持ちの集まるゴルフ場に潜り込む。

兄弟ともに大学に進むが、世界を巻き込んだ1960年代。独立国家の道を歩み出したインドでも、極左組織と治安部隊の武力抗争が起こる。兄は研究環境を求めアメリカに渡るが、弟は高校教師をしながら、密かに過激な活動にのめり込んでいく。結局、ウダヤンは、家のまえの低地で捕まり、両親と、新婚の妻ガウリの目の前で射殺される。

 

兄スバシュは、実家で孤立していた身重の弟の妻ガウリを救おうと、結婚して米国ロードアイランドに連れ帰り、生まれた娘ベラを夫婦として育てる。

 

ここまででまだ471頁の1/3くらいで、ここから本格的に小説が始まる。

 

 

私の評価としては、★★★★(四つ星:お勧め)(最大は五つ星)

 

喪失感を抱え込んだ登場人物が、インドと米国、対照的な両国での生活を通し、時の流れのなかで、もがいていく様を描いている。時々過去に戻り、事情を明らかにしていく手法もとくにあざとくなく、分かりやすい。大部だが、謎解きなど派手なストーリーでなく、人物と暮らしを丁寧に描き、ひきつけて飽きさせない。さすが、ジュンパ・ラヒリ。

 

インドと父母を見捨てて米国へ行ったスバシュ。新婚の妻がいて、父母に家に暮らしながら危険に巻き込む活動をし、死んだウダヤン。死んだウダヤンを居なかったかのように振る舞うことを拒否し自分に引きこもるガウリ。母に去られ、父にも心を閉ざす娘ベラ。大河のように、時代も、国も、人も流れていく。

 

爆弾製造に失敗し片手の指を失ったウダヤンが、(後悔、迷いと捜査の手が伸びてきていることの予感から)新婚の妻に、「子供を持つかどうか。もし持たないと決めたら、それでもいいか?・・・おれは父親にはなれない。・・・ああいうことをしたんだから」「もっと早くから彼女に会いたかった。」と語る。切ない場面だ。

  

私としては、ゴルフ場へ忍び込んだり、一つの机で向かい合わせに勉強したり、モールス信号器を作ったりした兄弟の子供の頃。何事にも積極果敢な弟と慎重な兄の子供の頃の話が面白かった。

  

ジュンパ・ラヒリJhumpa Lahiri

1967年ロンドン生れ。両親はカルカッタ出身のベンガル人。幼少時に渡米し、ロードアイランド州で育つ。大学・大学院卒。
1999年「病気の通訳」でO・ヘンリー賞受賞。
同作収録のデビュー短篇集『停電の夜に』でPEN/ヘミングウェイ賞、ニューヨーカー新人賞、さらに新人としてはきわめて異例のピュリツァー賞ほかを独占。

2004年初の長篇小説『その名にちなんで』、映画化。
2008年第二短篇集『見知らぬ場所』で第四回フランク・オコナー国際短篇賞を受賞。

夫と二人の息子とともにローマ在住。

 

 

小川高義(おがわ・たかよし)
1956年横浜生まれ。東京大学英文科大学院修士課程修了。東京工業大学教授。

訳書にラヒリ『停電の夜に』『その名にちなんで』『見知らぬ場所』、ペティナ・ガッパ『イースタリーのエレジー』、ジョン・アーヴィング『また会う日まで』、フィッツジェラルド『グレート・ギャッツビー』、ホーソーン『緋文字』ほか。

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今井良『警視庁科学捜査最前線』を読む

2014年11月09日 | 読書2

 

今井良『警視庁科学捜査最前線』(新潮新書575、2014年6月20日新潮社発行)を読んだ。

 

裏表紙にはこうある。

最新ツールを武器に犯人を追い詰める。防犯カメラ、Nシステム、データ解析ソフト――警視庁の捜査は、科学の力で急激な進化を続けている。「犯罪ビッグデータ」とは何か? 逆探知はどこまで可能か? 最新防犯カメラの驚異の性能は? 「パソコン遠隔操作ウイルス事件」「『黒子のバスケ』脅迫事件」等、最近のケースをもとに、一線で取材を続ける記者が舞台裏まで徹底解説。犯罪捜査の最前線が丸ごとわかる一冊!

 

社会における人間関係の希薄化から、従来の聞き込みで得られる情報は乏しく、大量生産されるブツから犯人にたどり着くのは困難になっている。これらを補うのが、監視カメラであり、ビッグデータ解析だ。

 

警視庁の防犯カメラの分析捜査の専門部隊がSSBCだ。正式名は、なんと、Sousa Sien Bunseki Centerだという。センターだけは英語といえば英語だが。

 

犯人の犯行前の足取りを洗うことを「前足を洗う」という。ある犯人が犯行現場から中目黒駅に行ったことがわかった。前足を洗ったら、事件前に中目黒駅で下車したことが分かり、その前に日比谷線の恵比寿駅で下車したことが判明し、さらにその前に東京駅で乗車し、JRで恵比寿駅へ来たことがわかった。東京駅周辺のカメラ画像チェックから福島のいわきからのバスに乗っていたことが分かって、いわき市での犯人逮捕につながった。

 

Nシステム(自動車ナンバー自動読取装置)は、高速道路や幹線道路の上部にあるカメラだ。通過した車のナンバー、運転席、助手席の写真を記録している。あらかじめ登録されたナンバーの車が通過すると瞬時に手配車両かどうか照合される。車で移動するあなたの行動は、もし、なにかあれば、しっかり警察に把握されてしまうのだ。警察には睨まれないようにしないと??

 

容疑者は分かっても、被害者のホストクラブの経営者の遺体が発見されなかった事件があった。遺体は容疑者宅で強力な薬剤で溶かされ排水溝に流されていた。鑑識は、容疑者宅の汚水槽の中から7mmのネジを発見した。ネジはインプラント(人口歯根)に使われるものだった。国内の600本の流通先を丹念につぶしていき、被害者のものと確かめて、犯人逮捕に至った。

 

 

私の評価としては、★★★(三つ星:お好みで)(最大は五つ星)

 

警視庁の専門部隊SSBC、鑑識、科学捜査研究所などの組織構成、所管業務をまず紹介し、検視官の仕事では検視規則を羅列するなど、なかなか話が始まらない。

内容も監視カメラが、実際の事件解決へのつながったかの説明が大部分で、どのように民間に映像提供を求めるのか、ただただだらだら流して人が映像を見て犯人などの姿を見つけるのかなど解析方法などの疑問には答えていない。

 

 

今井良(いまい・りょう)

1974年千葉県生まれ。中央大学文学部卒。

1999年NHK入局

2009年在京民放テレビ局に移籍

警視庁記者クラブキャップやニュースデスクなどを務める。

 

 

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山手十番館でランチ

2014年11月04日 | グルメ

横浜の港の見える丘公園近くの外人墓地の前にある山手十番館でランチとした。

今日は祝日なので2階のレストランは満席。要予約だ。

目の前に外人墓地が見える。保全のための200円の寄付で今日は開放されていたが、あまり人は入っていなかった。

まず、自家製パンが出てくる。変わった形だが、これがなかなか美味。

私は、ガス灯ランチ( ¥3,620)

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須賀敦子の世界展へ

2014年11月03日 | 日記

神奈川近代文学館で11月24日まで開催されている「須賀敦子の世界展」に行った。

みなとみらい線「元町・中華街」を降りて、エレベーターで地上5階にあるアメリカ山公園内の6番出口6番出口へ。

駅を降りて地上5階に出ると、公園とは、どうなっているのか?

ここはアメリカ公使館だったところで、2004年から横浜市がアメリカ山公園として整備とあった。

公園を過ぎ、右手に外人墓地を見て、左に曲がる。

すぐに港の見える丘公園の入口だ。

正面の見晴台から港を眺める。

ベイブリッジ

高速道路と倉庫だけ?

マリンタワー、大桟橋

大仏次郎記念館を横目に見て、

神奈川近代文学館への看板のとおりに

「霧笛橋」を渡ると公園の南の端に文学館が見える。

昔々、大仏次郎の「霧笛」を読んだことを思い出した。明治初めの横浜の居留地での夢のような話だった。

文学館は、それなりのお年の女性が一杯で混雑していた。

展示品も、須賀敦子の一生を振り返る写真、イタリアでの生活、著作物などであふれていた。

 恵まれた幼少時代、戦時下の青春、留学したがなじめなかったパリ、イタリアでコルシア書店の仲間と出会い、精力的な日本文学のイタリア語翻訳、、短い結婚生活、日本に帰国してからのめり込んだカトリックのボランティア活動、長く恵まれなかった大学での教員生活、61歳での衝撃的文学者デビュー 、などなど。

須賀敦子ファンは一読の価値がある。

 

須賀敦子の略歴と既読本リスト

 

 

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「ユマニチュード入門」を読む

2014年11月01日 | 読書2

 

本田美和子、イヴ・ジネスト、ロゼット・マレスコッティ著「ユマニチュード入門」(2014年6月15日医学書院発行)を読んだ。

 

ユマニチュード ( Humanitude ) は、知覚・感情・言語による包括的コミュニケーションにもとづいたケアの技法で、1995年にイヴ・ジネストとロゼット・マレスコッティの2人によってつくり出された。

見つめ、話しかけ、触れ、立ち・移動をサポートし、強制ケアをゼロにすることを目指し、受ける人の改善を図る。

 

「見る」

背を丸めて座っている人には下からのぞいて、まっすぐ顔を見る。背後からは一度追い越してから向き直り、時間をかけて近づいて声をかける。食事の介助は、近くまでぐっと寄って視線をつかみ、スプーンをしっかり目の前で見せてからたべてもらう、などなど。

「話す」

どうせ聞こえていないだろうと、相手を無視して話しかけることは、「あなたは存在していない」というメッセージを発することだ。

例えば、反応のない人へのアプローチするテクニックは、

(1)   依頼

「右手を上げてください」と3秒待ち、もう一度「右手を上げてください」再び3秒待ち、「私の顔を触ってください」などと言葉を変える。

(2)   予告

「これから腕を洗いますね」

(3)   実況中継

「腕を上げます。左腕です。とってもよく腕が伸びていますね!」「肩から洗いますね。次は手のひらです。あったかくなりましたね。気持ちいいですね」

 

「触れる」
触れるときは飛行機が着陸するイメージで。手を放すときは離陸のイメージで、皮膚の緊張を解く。ケアの最中は、どちらかの手が常に相手に触れていることが理想。

立ち上がりの介助は、腕をつかむのではなく、下から両腕を使い、優しくささえる。5歳の子の力以上に使わない。

「立つ」

着替え、歯磨き、洗面などリハビリテーションとして独立した時間をとらなくても一日に20分間程度、立位を含めた時間を確保する。

「ベッド上安静は1週間で20%の筋力低下を来たし、5週間では筋力の50%を奪ってしまいます。」「一日のうち20分間立っていられれば、寝たきり状態になることはありません。」「よりよい健康状態を保つためには、転倒もそのなかで起こりうることの一つである」

 

 

以下、「はじめに」より

さまざまな機能が低下して他者に依存しなければならない状況になったとしても、最後の日まで尊厳をもって暮らし、その生涯を通じて“人間らしい”存在であり続けることを支えるために、ケアを行う人々がケアの対象者に「あなたのことを、わたしは大切に思っています」というメッセージを常に発信する―― つまりその人の“人間らしさ”を尊重し続ける状況こそがユマニチュードの状態である。

 

 

私の評価としては、★★★★(四つ星:お勧め)(最大は五つ星)

 

眼を見て話す、引っ張り上げるのでなく支えるなど、介護について良く言われることが並んでいると言えば言える。しかし、考え方(哲学)を明快に述べるとともに、その考え方から導かれた形で具体的所作を示している。大雑把に言えば、単にテクニックの話ではなく、介護する人の優しい気持ちを相手に伝えるにはどうしたらよいかを具体的に示していると言える。

 

厳しい職場環境で、あるいは家庭で介護する方は、なかなか時間的にも気持ち的にも余裕がない状態だと思うが、このような介護方法を試みて、介護される人が改善したり、嬉しい反応があれば、報われることもあるだろうと思う。

 

 

イヴ・ジネスト

ジネスト・マレスコッティ研究所長、トゥールーズ大学卒

 

ロゼット・マレスコッティ

ジネスト・マレスコッティ研究副所長、SASユマニチュード代表、リモージュ大学卒

 

本田美和子

国立病院機構東京医療センター・総合内科医長/医療経営情報・高齢者ケア研究室長

1993年筑波大学医学専門学群卒。内科医。

 

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