ガリー・ガッティング著、井原健一郎訳、神崎茂解説、「フーコー」岩波書店2007年2月発行を読んだ。というか、読み飛ばしながら、飛ばされながら、読もうとした。それでも、岩波のこのシリーズ名は「1冊でわかる」と言うのだが。
原題は、” FOCAULT : A Very Short Introduction”
裏表紙にはこうある。
みずから変容をしつづけた知の巨人。その生涯と思想を規定していたものとは?
「私が何者であるかをたずねないで下さい。同一の状態にとどまれとは言わないで下さい」―固定したアイデンティティにからめとられることをつねに逃れつづけた「仮面の哲学者」フーコー。
理性や主体といった既成概念に揺さぶりをかけ、近代社会における権力、知、アイデンティティのありようを精緻に分析してきたフーコーが、生涯心奪われてきた根本テーマとは何だったのか。
文学、政治、歴史、哲学など諸分野にわたるフーコーの知的取り組みをあとづけながら、晩年にいたるまでの思想の道筋をコンパクトに描きだす。
第一章の「複数の生涯と著作」はどうやら私にも理解できた。ただ、この章は12ページしかなく、理解できなかった残りは160ページある。
フーコーは若くしてフランス学界の頂点に立ち、世界中で講義し、犯罪などに関する見事な著作を書き上げ、死後も名声は高まっている。
一方、同性愛に苦しみ、自殺未遂を起こし、世界を流れ歩き、激しい政治活動をし、ドラッグやSM的官能を求め、60歳を前にエイズで死んだ。
また、抑圧にたいする彼の憎悪は強く、反精神医学運動、刑務所改革、ゲイ解放のヒーローになった。
第二章の「文学」で、作者とは何かとのテーマの一部を例として以下に示す。
フーコーの講演の一部が紹介されている。
「言説の集合原理としての、その意味作用の統一体ないし起源としても、その整合性の中心としての作者という考え方は、創造的表現を生み出す源泉というより、制限する原理であって、テクストを作者の包括的な計画に合致したものとして読むことを私たちに強いている、と論じられる。」
こんな文章を集中力を切らさずに読む続けることは、私にはできない。
この前の方を読むと、
ある標準的な(ロマン主義的な)考えでは、作者とは、独自の個人的洞察を表現するために、言語構造に抵抗する者のことである。・・・これとは反対の「古典主義的」な考えでは、作者とは、標準的な言語構造を受け入れ、それを利用して、伝統的なヴィジョンを体現するさらにもうひとつの作品を作り出していく者のことである。・・・しかしながら、フーコーがとくに関心をもっているのは、作者が言語に関係するときにありうるもうひとつのやり方である。つまり、自己表現のための言語を用いることではなく、言語のうちに自己を喪失することに要点があるようなやり方である。
なんとなく、分かるような、分からないような。やっぱりわからない。
サラ・ミルズ著「ミシェル・フーコー」という別の本をながめていたら、「西洋の言語では色彩の表現が多彩だが、言語によっては、緑と青を区別しない言語もある。」というような記述があった。日本語の青が英語のblueに厳密に対応しないだろうし、例えば平安時代の「あお」とも対応しない(?)。つまり、著者が表現したいこと、この場合色彩、を言語が制約していると言える。下世話に言えば、フーコーはそんなことを言っているのかな?
無駄な抵抗をもう一つだけ。
「監獄の誕生」のもっとも注目すべきテーゼは、犯罪者に対して導入された規律的技術はそのほかの近代的な支配の場所(学校、病院、工場など)のためのモデルになるので、監獄の規律=訓練は近代社会全体に浸透するということである。フーコーが言うように、私たちは「収容所群島」に住んでいるのである。
・・・
フーコーは規律=訓練への近代的なアプローチを要約して、その目的は「従順な身体」を生み出すことだと言う。この「従順な身体」とは、私たちが望むことをするだけでなく、まさに私たちが望むやり方でそれをするような身体のことである。
これも、私たちはいつのまにか、権力なり、マスメディアなりに操られていると言われれば、確かにそういった面は強い。
目次
1 複数の生涯と著作、2 文学、3 政治、4 考古学、5 系譜学、6 仮面の哲学者、7 狂気、8 犯罪と処罰、9 近代の性、10 古代の性、解説
フーコーFoucault は、1926年フランス・ポワチエの名家に生まれる。1946年 高等師範学校(Ecole Normale Supérieure)入学 、
1948年 哲学学士号取得、自殺未遂事件
1950年 大学教員資格試験に失敗、再び自殺未遂事件
1951年 リール大学の助手に採用
1955年 ワルシャワにて研究、『狂気の歴史』を著す
1970年 コレージュ・ド・フランス教授就任
1975年 『監獄の誕生』を出版
1961年博士論文「狂気の歴史」、1975年「監獄の誕生」を出版。1984年AIDSで死去。
著者、ガリー・ガッティングGary Guttingは、フランス現代哲学、科学哲学。アメリカ、ノートルダム大学哲学科教授。編書にThe Cambridge Companion to Foucaltほか。邦訳著書「理性の考古学-フーコーと科学思想史」がある。
訳者の井原健一郎は、1967年生まれ。フランス哲学。現在、首都大学東京人文社会系助手。
解説の神埼繁は、1952年生まれ。古代哲学。現在、首都大学東京人文社会系教授。著書「プラトンと反遠近法」「ニーチェ」「フーコー」ほか。
私の評価としては、★★☆☆☆(二つ星:読めば)
最近、軽い本しか読んでいないので、たまには真剣に読み込まないと理解できない本でも読んでみるかと、この「フーコー」に挑戦した。そして、砕けた。読解力不足の上に、集中力が失われていることを実感する結果になった。
私には、フーコーの香りくらいしかわからなかった。
なお、この本のほか、サラ・ミルズ著「ミシェル・フーコー」青土社2006年8月発行を図書館から借り出したが、まえがきに「文学研究者を念頭において著されたものであり」とあり、パラパラの見て、退散した。
しかし、257ページと多少厚いが、この本の方が文章自体は平易で分かりやすい。