hiyamizu's blog

読書記録をメインに、散歩など退職者の日常生活記録、たまの旅行記など

私のゴルフ歴 

2024年10月23日 | 個人的記録

 

昔、ゴルフは年寄りの趣味と言われていた。早く始めれば上達が早いだろうと、私はゴルフを始める年齢として、当時では早い20代半ばで、練習場に通い始めた。
金がないので、最初は会社の裏にあったごく小さな練習場へ昼休みに通った。打った球はすぐネットに当たるほど狭いが極端に安かった。

 

数年後、近くにあった普通の広さのゴルフ練習場に初めて行って驚いた。今までごく小さな練習場でネットの正面に当たっていた球が、飛ぶに従って右に曲がっていくのだ。自分では満足していた当たりが、実は初心者によくある右に切れるスライスだったのだ。これではいけないと、右に飛ばないようにと左を向いて打つと、余計に最初から右に切れて、ひどいスライスになる。頑固に誰にも教わらなかったので、自己流で色々な打ち方に変えてみたが、結局ある程度は真っすぐに飛んでも、最後の方は右に切れるスライスになり、持ち球なのだとあきらめた。

 

金もないので、数年間は練習場だけで打っていたが、値段が安い河川敷の朝霞パブリックに誘われて、初コースを体験した。スコアは110台で上がり、筋が良いとおだてられた。練習場だけで数年打っていたのだから、そのくらいのスコアは出て当然なのに、才能あると勘違いして、以後、30年、平均年3回とショボショボだが、ゴルフを続けることになった。

 

一度もプロはもちろん、上手な人にも教わることなく、自己流のまま打っていたので、スライスは治らなかった。ラウンド後半に疲れてくると特に、手の振りが鈍くなって、身体で飛ばそうとするので、スライスが酷くなり、コースの右端、林の際を延々と進むことになる。それでも若い頃は力任せで、何回かドラコンを取ったこともある。しかし、ドライバーが旨く行くときには、グリーン周りでホームランして、結局パーはおろか、ダボならラッキーということになる。午前中、珍しく良いスコアになると、なぜか午後ボロボロになって、結局、いつもスコアは100前後で安定(?)していた。

 

そのうち、ご接待に駆り出されることが多くなって、60歳前に道具一切を一気に捨ててきっぱり止めた。
合計約100回の全スコアをパソコン入力してグラフを描いてみた。最後の方はばらつき(σ)が少なくなって、安定していたが、平均値は101だった。結局、最初が110で、30年やって、平均101では向上したとは言えない。ベストスコアは確か90少し切る位で、最悪が115位だったので低位安定していたのだ。年平均 3回のゴルフでは上達するわけがないと自分で慰めている。

 

何だかんだと一回 3万円以上するゴルフが千葉の山奥のコースだと 1、2万円であがる。たいして金は掛けていないつもりだが、それでも、道具代、交通費、昼飯などは別として、2万円で100回として、200万円以上はゴルフに使っていたことになる。

 

横須賀に住んでいたときには、近くの葉山にコースがあるのだが、高いので、千葉の山奥のコースへ行くのがお決まりだった。砂混じりの砲台グリーンで、うまく乗せたと思っても、ポンと弾んで転がって奥へ落ちてしまう。谷越えも多く、古い球を取り出して惜しくないのだぞと言い聞かせるが、それでも心配で顔があがるのが早くなってボールの上を叩き、谷に叩き込む。分かっているのにやめられない。フェアウエイは右斜面が多く、常にスライス気味の私の球はポンポンと弾んで藪の中へ入り、「マムシ注意」の看板があって球も取り戻せない。
冬はティーグランドが凍りついていてティーが刺さらず、金づちが置いてある。
安いからと、キャデイさんはいないし、クラブハウスには入れないのだが、ゴルフ場が休みの時に行ったこともなんどかある。

こんなコースだが、気の置けない仲間と、互いにケチをつけながら、冗談を言いながらのプレイは、リラックスできる時間だった。

 

朝早く相方に車で久里浜へ送ってもらい、フェリーで久里浜から浜金谷へ渡り、クラブバスに乗ってコースへ行く。
時たま、ラウンド中に「風が強くなってきたので、フェリーは欠航になります」と放送がある。こうなると大変だ、東京駅経由で東京湾をぐるりと回って、横須賀まで帰らなければならなくなる。

友人の車に拾ってもらい、久里浜から車ごとフェリーに乗って、そのまま車でコースに行ったことがあった。若かった我々は1.5ラウンドして、夕食を食べてから浜金谷に車で向かった。途中、叩きつけるような雨となり、予定より遅れて港に着くと「蛍の光」が聞こえ、最終フェリーが丁度桟橋を出て行くところだった。アクアラインがまだなかったので延々東京湾を一周して、横須賀に帰り着いたときは12時を回っていた。今でも「蛍の光」を聞くと、卒業式でなく、去ってゆくフェリーを思い出す。 

 

一度だけ職場のコンペに出たが、たまたま所長と同じ組になってしまった。会社で、所長からたまに「冷水君、ちょっと来てくれ」と電話がある。あまりあれこれ考えるタイプではないのだが、それでも「あれかな、まさかあれじゃないだろうな」などビクビクしながら所長室へ駆けつけることがあった。この日はプレイが始まる前に所長がニコニコしながら近づいてくる。気味が悪い。「冷水さん、太い腕で飛びそうですね」 なんと“さんづけ”だ! どうも所長は、仕事中は“君づけ”で、プライベートは“さんづけ”と徹底しているらしい。考え方は理解できるが、普段との差が大き過ぎ、落ち着かず、スコアは滅茶苦茶だった。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

80歳を過ぎて思うこと。20歳の私に伝えたいこと。

2024年09月29日 | 個人的記録

 

私が生意気盛りの20代の頃、こんな矛盾だらけで、窮屈な社会はこのまま続くはずがないし、行き詰まってひっくり返るに違いないし、そうしなければならないと思っていました。

また、私自身、40、50歳になれば考えも、生活もすべてが固まってしまっているだろうし、さらに60,70歳になったならば「はっきり言って人生もう終わったようなものじゃん」と思い込んでいたのです。

 

ところが、当時の若者の反抗も思いもかけない陰惨な結果で自滅し、世の中は、そして私の20代、30代も言い訳しながら平然とそのまま動いていきました。安月給で、二人だけの家庭を作り上げるのに、必死だったとも言えるでしょう。

 

さらに、40代、50代では、こんな思い通りにいかない仕事辞めてやると数年ごとに思いましたが、心配しながらどこまでもついて来てくれるだろう妻や、授かった子供を思い、踏み切れませんでした。いやそれ以前に、まあ経済的に見れば人並以上に恵まれている生活じゃないかと、新しい人生への勇気を持てず、結局、ただバタバタしているだけで流され、過ごしてしまいました。

 

気が付けば60代に入っていて、まあ肩の力を抜けば、悪い生活じゃないし、世の中そんなに急に変わるものじゃないと悟り、お得意のあきらめの境地になっていました。まさに、水から茹で上がってしまう、あきらめのカエル状態でした。

 

70代になっても、枯れた仙人の気持ちには程遠く、元気もないのにすれ違う美人を目で追ってしまうし、特に欲しい物もないのに宝くじに当たったらと妄想してしまうのです。一方で体力は確実に低下し、歩いていても、ながらスマホのハイヒールの若い女性にスイスイと追い抜かれ、細身だったのに下腹だけは出っ張ってズボンのウエストは際限なく拡大し、頭髪も白髪はあっというまに通り過ぎ、ヒヨヒヨから、テカテカに近づいているのです。あちこち問題も出てきて身体は確実に壊れ始めています。

しかし、心は、少なくとも一部にはまだ20代の頃のかけらを引きずっていて、昭和30年代、40年代のニュース映像などを見ると、一瞬、若い時代に戻っている自分に気づき、一人恥ずかしく思うのです。出来ることはほとんどないくせに、社会に貢献していないことへ心苦しさを感じ、いくつかの社会活動団体へ申し訳程度の少額の寄付をしたり、これぞと思うネット請願に一票を投じたりする程度のいじましいことして、言い訳しています。

 

80代に入った現在、親しい友人が一人二人と亡くなったりするなか、自分も身体が不自由になることへの不安が心の底に澱んでいます。一方では、まだ何か一つぐらいは社会と関りを持ちたいし、その能力は少しだけなら残っているはずとの未練もあります。しかし、年々ともかくここまで来たのだから後は流れに任せるほかないと、諦めがようやく優位になりつつあります。

 

過去を振り返れば後悔することが多く、私の人生、けして充実していたとは言えません。あそこで、ああすればなどと思ったらきりがありません。そして、「平凡」じゃあ、私が生きている価値がないと嫌っていた若かった私も、結局、多くの同世代の皆さんと同じような人生になってしまいました。それでも、その結果としての現在の、のんびり過ごす老後には大きな不満はありません。

 

会社で出世したわけでもないのに、ちょうど日本経済の発展期だったので、老後も過度に心配しなければまあなんとかなるだろうと思えます。考えようによっては、嫌なことはやらなくてよいのでストレスがなく、夫婦2人なんとか仲よくのんびり暮らせる現在がわが人生で一番幸せな時期なのだと思いますし、思うことにしています。

 

 

そんなとき、片意地張っていた20歳の私に、「老人になっても全部が終わってしまうわけでもないし、そう悪いものじゃないよ。自分がどれほどのものか、内心では分かっているだろう。まあそう突っ張らず、のんびり行こうぜ」と伝えたくなるのです。

さらに、「互いに心から信頼できそうな人を嫁さんにさえすれば、あとはなんとかなるさ」と。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

我がブログの延べ訪問者数が100万人を超えた

2024年09月10日 | 個人的記録

 

パソコン画面でログインして、「アクセス解析」をクリックすると、

一番下に「トータルアクセス数」があって、

「トータル閲覧数 2510488 PV」の次に

「トータル訪問数 1000930 UU」とあった。

 

2006年3月4日から始めたこのブルグは、

2024年9月10日現在まで、18年6カ月6日(6,765日)続き、

トータル訪問数が100万人を超えたということなのだろう。

 

主な目的が自分の記録、メモなので、ただただ長ったらしい文章で、人様が読むようには書いていないのに、100万人とは!

それにしても18年とは!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

恥ずかしながらゴッホが好き

2024年08月15日 | 個人的記録

 

絵といえばベタで申し訳ないが印象派の系譜が好きだ。マチスの「ダンス」も、長谷川等伯の「松林図屏風」も凄みを感じる好きな絵だが、すなおに良いなと思えるのは、難解でなく、ひどく通俗的でもなく、それぞれ個性的な印象派の人々の絵だ。

 

印象派に先立つマネ、特に後期のマネは、何気なく置いたかに見えるタッチの絵具跡が人の姿に見えたりする。簡単に見える練達の筆使いで、巧みさにほれぼれしてしまう。ピサロの絵も広い空と爽やかな風景が広がり、部屋に飾った写真もあきがこない。

しかし、誰が一番好きかと聞かれれば、その印象派の影響を強く受けたゴッホと言わざるを得ない。あの絵具をそのままキャンバスに絞り出したようなうねるタッチ、叫んでいるような激しい色使い。
そして、生前一枚しか絵が売れず、貧困と絶望の中で精神を病んで自死した生涯も心を搔き立てる。情熱がほとばしる絵が、激しい生きざまと共に凡庸な私の人生を波立たせてくれる。

 

私が初めてゴッホの本物を見たのは約20前、安田火災海上(現損保ジャパン)が約58億円で購入した「ひまわり」の絵で、ロープで仕切られた区域に厚いガラスケースに納まっていた。直後、ロンドン出張の空き時間にナショナルギャラリーでゴッホの違う「ひまわり」を見た。当時は地下のコンクリートむき出しの壁に、習作らしい何点かと一緒に無造作に並んでいて、富の蓄積の差を実感した。ゴッホの「ひまわり」は7点あり、習作を含めると10点以上あるという。

 

定年後、南仏の印象派の人々の足跡を訪ねるツアーに参加した。「アルルの跳ね橋」や「夜のカフェテラス」(いずれも複製)を見て、ゴッホが収容されたアルル市立病院中庭や、心を病んで入院していたサン・ポール・ド・モーゾール修道院を訪ねた。それらを描いた場所には彼の絵の模写が飾られていた。絵と同じ景色を見ていると、自分がゴッホになった気分になった。

 

アルル市立病院中庭

 

夜のカフェテラス(模造し営業中)

 

アルルの跳ね橋(1960年に移築したので洗濯場はない)

 

サン・ポール・ド・モーゾール修道院のオリーブ畑

 

置かれていたゴッホの絵の模写

 

ついでのゴッホの精神病棟病室の窓からの眺め

 

こんな環境で、ゴッホは1年間で150点以上の絵画を描いた。絵は生涯1点しか売れなかったというのに!

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夫婦の会話

2024年08月12日 | 個人的記録

 

オリンピックの男子ブレイキンを見ていて、私が、
「あんなダラダラした服を着て、手足クネクネさせて、カッコいいって、ホンとかよ?」
「俺もヘラヘラした服にして、クネクネ歩いたら、モテるかな?」って、呟いたら、

 

相方が「いつもそうしてるじゃない」

 

「え! ウソ!」

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

包丁と私

2024年05月27日 | 個人的記録

 

島崎藤村の「初恋」は、「まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき 前にさしたる花櫛の 花ある君と思ひけり」で始まり、「やさしく白き手をのべて 林檎をわれにあたへしは…」と続く。

私もりんごは女性にむいてもらう方が勿論好きなのだが、りんごの皮むきは嫌いではない。皮をつなげたままどこまでむけるかゲームのようなところもあり、小学生のときから一人でチャレンジしていた。もちろん、ギネス記録の53メートルには遠く、遠く及ばないのだが。

記録を狙う人は、りんごを回しながら、皮にカッターでらせん状に刻みを入れていく。その時、可能な限り線と線の間隔が狭い幅になるようにする。上からはじめて下まで刻み終わったら、細い紐のようになる皮をむいていくのだ。極度の集中力を必要とする作業で、想像するに、むき終わったらもはや、りんごを食べる元気はなくなっているだろう。

 

小学校の遠足の時だったと思うが、女の子の前でりんごをむくことになった。いつものようにスルスルとむかず、わざと鉛筆を削るように皮を削り取っていった。見ていた女の子は「何してるの! しょうがないわね」と言って、笑いながらりんごとナイフを取り上げてむいてくれた。俺とどっこいどっこいだなと思ったが、感心したように見ていた。小学生にして、あざとく母性本能を刺激して、女性の関心のひき方を習得した私だが、その後は生来のひねくれ根性とこの顔のせいで、技を磨けず、錆びつかせたままで終わりを迎えている。

 

食い意地はっていた青年期はともかく量さえあれば良いと、料理に全く関心が無く、包丁にも縁がなかった。結婚しても、親父の見様見真似で魚を三枚におろすときと、研ぐとき以外は包丁を持つこともなかった。

 

数十年前のことだが、正月に職場の長の家に何十人もおじゃましてご馳走になる慣習がわが職場にあった。上司の奥様は家で料理を教えている方で、手伝いに行った女房がいろいろ教えていただいた。その技のひとつに玉ねぎのみじん切りの仕方がある。どの程度普及している方法なのか知らないのだが、以下ざっと説明したい。

まず皮をむいた玉ねぎを縦半分にし、根の所は取らないでおく。玉ねぎは根元を向こう側にしてお椀のように伏せ、繊維方向、つまり縦方向に沿って薄く切り込みを入れていく。この時、刃先側で玉ねぎの上端を切り離さないようにする。
次に、玉ねぎを反時計方向に90度回し、包丁を横にして、まな板に対し水平に2,3箇所切れ目を入れる。最後に、玉ねぎを右端から細かく刻んでいけば、みじん切りの出来上がりだ。

玉ねぎで眼が痛くなるからと苦手の女房に代わり、この技を習得させられた私が、上司の奥様の技の継承者で孫弟子となっている。そして、こんなはずではなかったと思いながら、平和を愛する私は幸せをかみしめ、みじん切りに涙を流すのだ。

 

定年になって女房に「私に定年はないの?」と問われて、そうか、これからは家事も手伝わなくてはいけないのかと初めて気が付き、徐々に、洗い物と、食材の下ごしらえだけは手伝うようになった。と言っても、レタスは手で千切るし、包丁を使うのは、キャベツ、トマト位だろうか。最近では調理済みの食材も多いし。

 

あくまでお手伝いの立場はわきまえていたのだが、気が付くといつのまにか昼飯は私の担当になっていた。といっても、外出すると、ランチは外食していまうことが多く、私の出番は毎日ではない。また、昼飯を家で食べるときも、せいぜい、卵焼きを作ったり、豆腐を切って削り節を載せる程度で、あとは前日の夜の残り物や、いつも冷蔵庫にある副食品をテーブルに並べるだけのことが多い。要するに正直言えば、ほぼ配膳係に過ぎない。

 

そうそう、ここ10年以上、ぬか漬けを担当していることを忘れていた。キュウリ、カブ、ダイコン、ニンジンなど適当な大きさに包丁で切って、漬けて、取り出して刻んで、毎日の食卓に漬物を欠かしたことがない。

 

こう書きだしてくると、僕ってけっこうやってるじゃない! もう、昭和男子とは呼ばせない。令和はちょっと言い過ぎだが、平成男子ぐらいには言われても良いはずだ、と相方に聞こえないように小さな声で言っておきます。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

彼と私とボランティア

2024年05月23日 | 個人的記録

 

高校で知り合った親友は、正義感が強く、常に弱きものの味方だった。特にボランティアに熱心で、大学は違ったのに何かというと私を熱心に誘った。

 

ためらう私を強引に日本点字図書館の点訳講座に参加させた。私は講座をようやく卒業したのだが、あまりにも地味な作業で、最初の一冊の本の点訳途中で挫折した。なんで、ポツポツと点を打っていく機械でも出来そうな作業を、美徳であるかのごとく、じっと我慢して人がやらなければいけないのか疑問を持ってしまった。彼は、私には特に言わなかったが、その後も点訳を続けていた。

 

グローブが足りないという茨城の小学校の新聞記事を読んで、いやがる私を連れて、グローブやお菓子を買い、わざわざ小学校まで行って渡したこともあった。

 

私と違って努力家で優秀な彼は東大に合格したが、何事にも真面目な彼は党活動を始めた。私を裏街道に引き込むのをためらったか、私が大の組織嫌いと知ってか、この時だけは私を誘わなかった。彼は就職した会社でも組合活動し、地味な裏方の部署に配転された。それでも逢った時には、仕事の話を熱っぽく語っていた。しかし、結局、管理職にはならずに定年になった。彼の父親も東大を出て平のままで退職という同じコースだった。彼からは、父親が嬉しいが複雑な思いらしいと聞いた。

 

学生時代、彼に誘われて千葉県館山の施設建設のボランティアへ参加した。これはいつもとは逆で、私の方が熱を入れて何年も続けた。彼はエネルギーを政治活動の方に振り向けるようになり、二人は年に何回か逢うだけになっていった。

館山の施設でのボランティアは肉体労働で、私の性に合っていた。山の太い木を切り倒し、崖をコンクリートで固め、山に道を作り、ブロックで家を建てた。泊まる所は戦時中に東京湾に入って来る米艦を砲撃するために掘られた洞窟で、若さゆえに厳しい環境も、逆に楽しめた。
ボランティア・グループの半数以上は女性で、クリスチャンの人が多く、和気あいあいの雰囲気だった。若者の政治活動の時代となってからは、物足りない人は疎遠になり、時として我々もデモなどに参加するようになっていった。そして政治の季節が終わり、若い人の参加がなくなってからは、昔からのメンバーで年末に館山で餅つきを行う行事を同窓会と称して細々と何十年も続けた。

 

10年以上前に、彼の奥様から手紙をもらい、彼の突然の死を知った。信じられなかった。なぜしばらく会わなかったのか悔やんだ。彼は相変わらず点字を続けていたという。そういう奴なのだ。

 

しばらくして、窓から空を見上げた時、青空を一直線に飛行機雲が伸びていた。突如、初めての俳句もどきが浮かんだ。

 「畏友逝き 空を切り裂く 飛行機雲」

 

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

目を閉じると 

2024年04月01日 | 個人的記録

 

小学校何年生の時だっただろうか、クラス全員が交替で黒板の前に立ち、皆に何かの話をすることになっていた。僕の番になって、「目をつぶると決まって見える景色があります」と話し出した。その光景は、全体は真っ暗で真ん中に丸く夜空が見え、中心に満月が輝いている。どう考えても井戸の中から夜空の満月を眺めているとしか考えられない。そして、話を「将来、僕は井戸に飛び込むんじゃないかと心配しています」と終えた。なんて暗い話をする小学生だったのだろうか。

しかしその後、井戸に飛び込むこともなく、無事に80歳までは、たどり着いた。そしてもはやこの光景が目に浮かぶことはない。

 

最近時に目に浮かぶ光景は、子供の頃、よくボーと眺めていた庭の景色だ。暇を持て余し、八畳の客間から廊下越しに庭の木々を眺める。一番左手、雨戸の戸袋の脇には楓の木があった。幹に止まっていたヤモリを見つけ、たまたま持っていた竹で面白半分に槍のように突き出したら、思いもかけず、串刺しにしてしまった。びっくりして竹を放り出したのがこの楓の木だ。

 

天狗の団扇のような八つ手は秋が終わる頃、カリフラワーのような花をつける。トゲトゲした葉を持つヒイラギナンテンは秋に青い実をつけた。アオキの赤い実も皮をむくと白くぬるっとしていた。いずれも地味な庭木で、これまで記憶の底に沈んでいた。

 

客間の前に見える庭の真ん中は花壇になっていて、今はあまり流行っていないカンナや、ホウセンカが植えられていた。熟していないホウセンカの実をつぶして種を飛ばして遊んだ。

 

戦争中、親父がここに防空壕を掘った。中にはちょっとした棚も作られていたという。焼夷弾が屋根に落ちて、先端に鳥のくちばしのような金属を嵌めた棒があって、それで焼夷弾を地面に落として土をかけて消したと聞いた。

 

花壇の向こう側にはツツジがあり、ピンク色の花をつまんでよく蜜を吸った。その奥には大きな古い梅の木があった。梅の実の季節になると収穫し、庭に新聞紙を敷いて、まだ青い梅の実をずらりと並べて乾燥させていた。干すために庭に広げて、柔らかく、うっすら赤くなった梅の実を、庭の隅に生えていたシソ(紫蘇)を大きな瓶に入れて、つける。瓶から出してきた梅干しの酸っぱさが、今、口の中によみがえる。

 

母がよく庭で洗い張りをしていた。私も良く知らないのだが、和服というものは複雑な裁断はしないで、反物を幾つかに裁断するだけで、それを縫い合わせて和服に仕立てているらしい。
木綿やポリエステルの普段着は長く着ていると、糊を引いているので、シミやカビが出てしまい、時々洗濯する必要がある。今はクリーニングに出したり、着物も丸洗いするようだが、昔は各家庭で、縫い目をほどいて反物状態に戻してから洗って、新たに布のりを引いて、干して、仕立て直して(縫い合わせて)、元の和服に戻していた。

干すに2つの方法がある。一つは、布の両端を引手棒で止めて長手方向にぴんと張り、竹ひごの両端に真鍮の針をつけた幾つもの伸子(しんし)で布を横に張り広げて干す。もう一つは、2mほどの長さの張り板に布のりを引いた布を張り付けて、空気が入らないように叩いて張って、乾かす。

眼をつむると、木と木の間に、たわんだ布の下に、半月状になった幾つもの竹ひごが並ぶ光景や、木に立てかけられた、ぴったりと布が張り付けられた張り板が瞼に浮かぶ。

 

懐かしい! 思い出す母は、いつでも働いていた。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

苦労が報われる菊作り

2024年02月23日 | 個人的記録

 

昔、職場の先輩が数十年にわたる菊作りのベテランで、休憩中にたびたびうんちくを聞かされていた。まだ30代前半だった私は、これは良い趣味だ、これこそ私の生涯の趣味とすべきだと、もうすっかりその気になってしまった。


菊作りはまさに磨き抜かれた伝統技術であり、時期に合わせ所定の決まった作業を積み重ねていけば、素人でも驚くほど大輪の菊の花を咲かせることができるのだ。もちろん展覧会に出品するような出来栄えは高度で粘り強い技が必要で奥深い世界なのだが、素人を驚かせる位の直径20cm程度の花は誰でも咲かせることができるのだ。

 

 

私は小学生の時、年寄り同士が和やかに碁を打っているのを見て、碁は年取ってからでもできる趣味で、いいんじゃないかと浅はかに考え、碁を学び始めた。といっても、父親が打っているのを見て、自然に覚えてしまったのだがから、子供は恐ろしい。結局、2,3級で一応打てると言える段階にはなったが、碁がうてる友達がいなくて、中学で止めてしまったのだが。


また、大学でテニスを始めたのも、年寄りがテニスを優雅に楽しんでいるのを見て、年取ってもできるスポーツとしてテニスを始めたのだった。これも結局、非常に上手に成れば年とっても十分楽しめるが、そうでなければ年取ると余計苦しいだけということで、まもなくテニスはTV観戦専門となった。


どうも私は、簡単にわかった心づもりになってしまうおちょこちょいであり、辛抱強く続けることができない性格の恐れがあることが齢80を迎えてようやく自覚できた。

 

 

菊つくりの話に戻ると、もっとも大切なのは土作りだ。ケヤキなどの固い落葉を集め、油粕と水を加え、水やりと切り返しを怠らずに手間暇かけて腐葉土を作る。冬など腐葉土に成りかけの山を切り返していると、湯気があがって、中はけっこう高温になっていることがわかる。
腐葉土は直接養分となるわけではないが、菊の基盤となる根にとってもっとも大切なものなのだ。菊自慢はつまるところ土自慢になる。ベテランは菊の展覧会で、まず、鉢の土を見て、許されるなら触って、摘まんでみると聞いた。
当時私は4階建ての社宅住まいだったので、実家の庭で腐葉土を作り、袋に入れて電車で1時間以上かけて社宅のベランダまで運んだ。これを何回か繰り返すのだから、ご苦労なことだったが、苦労していると、それがいかにも精進しているように感じられ、満足していた。

 

菊は種からでなく差し芽から育てる。前年の株から出た芽を使っても良いのだが、茎から遠いところに出た芽を使わなければならない。観賞用に異様に大きな花を持つように育成された菊は、自然の摂理から離れた品種なのであるから、根から出た芽はもともとの自然に帰ろうと小さな花に戻ろうとするのだ。もっとも良いのは、業者から名のある苗を郵送で買うのが一番だ。
年寄りの趣味は、金に糸目をつけてはいけない。道具に凝るゴルフ、カメラ、釣りのように。


根が出やすくなる薬を塗るのがお勧めだが、購入した芽を土にさし芽する。根が出たら小鉢に植え、伸びてきたら先端の芽を摘み、下に出てくる芽を三本だけ伸ばして、茎3本(三本立て)にする。さらに大きくなるにつれ、五号、七号、最後に菊鉢へ植え替える。この間、わき芽も、余分な蕾も、迷わずどんとん取ってしまう。摘み取られる立場が分かりすぎるので、心傷むところではあるが。

 

毎日、朝と晩に水やりがかかせない。困るのは長期不在の時の水やりだ。当時、ロングステイと称して、毎年1,2か月外国に滞在することがあったが、こんなときには、日の入らない風呂場に数個の菊鉢を持ち込んで、より大きな皿に水を張って、その中に鉢を入れて置いた。菊は本当に丈夫な植物なので、帰宅して、皿の水が無くなっていても、元気に成長し続けていた。しかし、この間、暗くて水たっぷりの環境にあったので、葉と葉の間隔が徒長してしまい、見る人が見ると無残な姿になってしまった。それでも花は立派に大きく咲いた。

 

まだまだ書ききれない丹念な作業があるが、手間暇かければ、かけるほど、より立派な花となり、それにより、より一層愛着が湧いてくる。思うようにいかない子育てより、熱中しやすい。

 

何週間も咲き続ける大輪の菊の花を外からも見えるようにベランダの柵のそばに置いて一人悦に入っていた。結局、自宅を持ち、庭で野菜作りを始めるまで10年近く続いた私の菊作りだった。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

孫娘には勝てない

2023年10月13日 | 個人的記録

 

保育園に行ってたころの孫娘にはどうしても勝てなかった。

 

「そろそろまた保育園の運動会だわね。この前行ったときなんか、1時間半かけて行って、5分で終わったでしょ。そんなの行かないわよ。なんて言って断ろうかしら」と我が奥様。

そんなこと言っていると、息子から運動会のお報せの電話があった。途中で孫娘に代わった。

「こんどの土曜日、運動会だよ。カレンダーに書いといてね」

「でも、雨がザアザア降るみたいよ」

「だいじょうぶ! てるてる坊主いっぱい作ったから! おばあちゃん来てね!」

「うう……ん。行くわよ。楽しみだわ。じゃあね」

「おいおい、話が違うじゃないか」と言うと、

「だって、しょうがないじゃない。断れなかったわよ」

 

 

奥様が息子に電話すると、かならず孫娘がしゃしゃり出てくる。

「おばあちゃんね、ピアノお稽古してるよ」

「今、何弾いてるの?」

「エリーゼのためにだよ」

「そうなの。上手になっちゃって、すごいわね。きのうは大丈夫だった? ゴロゴロって雷がすごかったでしょう」

「うん。でも、おへそしっかり押さえていたから平気だったよ」

 

小学校に入っても、まだまだ可愛い。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

至福の時

2023年08月23日 | 個人的記録

 

はるか昔、息子がまだ幼かった時、妻と私で真ん中の息子の両手をつないで歩いていて、水たまりにぶつかった。二人で息子を持ち上げ、ひょいと水たまりの向う側へ降ろした。幼い子供を持つ家族のよくある風景だ。

我が息子は自分で飛んだ気分になって二人の顔をみて嬉しくてたまらないと身体をよじってケラケラと笑った。あの時が、私たち家族の若葉の時だった。年老いた今でも、幼い息子の笑顔と笑い声がよみがえり、おもわず微笑んでしまう。

 

すでに数年前のことになったが、同じように妻と私で幼い孫娘の両手をつないで歩いていて、マンホールのところで持ち上げて飛び越した。孫娘は本当に楽しそうに笑って、「すっごく楽しい!」と叫んだ。
「おお、女の子ってまた違うな!」と思った。

 

小学生になった頃、同じように、二人で孫娘の両手をつないで歩いていた。私が孫の手をつかんでいたのに、孫が逆に私の手をつかんだ。何をするのかと、不審に見ていると、同じように妻の手もつかみ直し、二人の手をつながされた。孫娘はいたずらっぽくニコニコと二人を見上げる。

妻は直ぐに振りほどくわけにもいかず、久しぶりにちょっとの間だが二人で手をつないで歩いた。私にとって二重の喜びで、「すっごく楽しい!」と叫びたかった。

 

「女の子ってあんなことやるのね」と、昔、女の子だった妻が言った。

 

「男の子もいいけど、女の子っていい!」

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夫婦の会話

2023年06月21日 | 個人的記録

 

「冷蔵庫がときどき変な音立ててるのよ」

「えっ、でもあれまだ10年にならないだろう?」

「やあねぇ、とっくに10年過ぎてるわよ」

「そーか~。家電製品って、10年過ぎるとバタバタ壊れるからなあ。うまく設計してるよな。そうすると、次はなんだ、次に古いのは?」

「家具だってもうそろそろなのが多いわよ」

「タンスだ。あなたが結婚したときに持って来たんだから、50年近くになるんだろう? この家でもっとも古くて、次にお役御免はあのタンスだな!」

そうすると、奥方が変な顔して、じ~~と私の顔を見ていました。

「えっ! はい、わかりました」            (もっとも古いのは80歳の私です)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

我が食卓の歴史 

2023年05月07日 | 個人的記録

 

1940年代(小学校入学まで)

食事に使っていたちゃぶ台は、丸テーブルの四隅の足を折りたたむことができて、使わない時は部屋の隅に立てかけてあった。食事は八畳間で、父は床の間の前、母は台所側、私は母の向かいの廊下側に座った。出てくるのはスイトン、グリンピースが多く、たまに出てくる薄い雑炊にも米はほとんどなく、筋張ったさつまいもが幅をきかせていた。まれに登場する米飯は、細長く、パサパサし、小石混じりの外米だ。当時を考えると、母は大変だっただろうが、私はともかく毎日腹ペコだった。

 

1950年代(高2まで)

居間の掘りごたつの上が食卓になった。お米は米穀手帳による配給米で、布団でくるんだお櫃(ひつ)から茶碗に移すご飯は今思うと美味しいものではなかった。ある日、珍しく肉が少しだけ登場した。あっという間に食べてしまった私を見て、母が言った。

「何かお腹が一杯になっちゃったわ。俊ちゃん、これ食べてくれる?」

母が腹一杯でないことぐらいはわかっていたが、つい箸をのばした。

飯と味噌汁と煮魚など主菜の3品だけの食事がほとんどだったと思う。

 

1960年代(高校、大学、就職)

父母共に年とっていたので、煮物など年寄食だった。それがいやで、何かというとアルバイトで得た金で外食して、やたら脂っこい唐揚げをよく食べた。ひどい油なのにと、今は思うのだが。

新宿へ出た時は西口のたそがれ横丁の鯨カツ屋へ寄った。ある日、カウンタで食べていると、階段をカッカッと勢いよく登って来て、大きな声で「鯨カツ一丁!」と声を掛けた女性がいた。いなせな女性に惚れそうになった。

 

1970年代(結婚)

社宅のダイニングキッチンにあるテーブルと椅子で二人向かい合って食事した。おなじみのない料理が出て来て楽しみだったのだが、新聞ばかり見ていて、具体的に覚えているのは安く水っぽい西友豆腐ともやしが多かった。ともかく金がなく、女房には苦労をかけた。

 

1980年代(母と同居し息子誕生)

テーブルに四脚の椅子が並び、3人共に幼い息子を見て、何やかやと話題にしながら食事が進んだ。メニューは3世代を揃えるのは無理なので、子供向けと中高年向けの2種類になった。母が90歳を超えた頃からは3種になった。

 

1990年代(2.5人の頃)

母がいなくなり3人になったが、我々夫婦も年寄り食を好むようになり、息子は別メニューのままになった。やがて大学へ進んだ息子は朝食べずに出かけ深夜帰宅することが多くなり、食卓を共にするからこそ家族なのにと思うようになった。

 

2000年代~今日まで(2人に戻り)

そして息子は結婚し家を出て、5人座れるテーブルに2人だけになった。ヤル気がでないためか、品数はわずかで簡単な料理が並ぶようになったが、私もアッサリ食、少々で満足するようになった。

食事の支度が遅くなり、そして辛そうで、「私に定年はないの?」と嘆く相方に、考えて見ればそれもそうだなと、昼飯は暇な私の分担になった。
やがて、TVをのんびり眺めている私の傍で、一人でバタバタと夕飯の支度する相方の気持ちが、50年経ってようやくわかるようになり、夕飯の下ごしらえなどを手伝うようになった。「二人ですると早いのね」と少し楽しそうな様子に、「確かに料理って、話しながらするものかもな」と思うこの頃です。

「今が一番幸せな時なんじゃない」と、いつでも思う私は、家族に恵まれてきて、能天気のままとなりそうなのです。

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

子供時代を訪ねて

2023年02月26日 | 個人的記録

 

今日は、年寄りの昔昔、超ローカル、個人的な思い出話。

 

もうはるか彼方となった昔の我家は東京渋谷区西原町にあり、結局そこに30年近く住み続けた。西原町と上原町の境目近くにあり、途中から上原町から西原町へ町名変更になったのだが。

 

我が子ども時代、朝鮮戦争が始まった頃、1950年代の西原には、空地も多く、ちょっと歩けば畑もあった。丘の上の大山公園を、年寄達は「あそこは狼谷だよ」と言っていた。家の向かいの空地にバラックを建てて住み着いたおじさんは蛇を捕まえてコンロで焼いて食べていた。私も毎日もちあみを振り回してトンボを追いかけ、川に入ってザリガニ釣りをした。夏の夕方は、家から道路に出て来て、大人は夕涼み、子供たちは駆け回っていた。東京の山の手はそんな田舎だった。

 

小学生のときはもっぱら近所の子供と車の通らない裏道で三角ベースの野球で遊び、中学生になると世界は少しだけ広がり、隣町の友達の家へよく遊びに出かけた。西側に隣接する大山町は、明治の最初に紀州徳川家の一族が住みはじめ、やがて宅地分譲して徳川山と呼ばれるお屋敷町となった。我家は、といっても借家だったのだが、大山、西原と上原駅前商店街の境目にあった。

 

1950年代半ばから高度成長が始まると、まっさき立派になっていったのは駅前の商店街だった。2階建てになり、大きな看板に屋号を書いた店が次々と立ち並んだ。今なら普通の小さな商店なのだが、当時私はえらく立派な店で、商売ってもうかるんだなあと思っていた。向かいのバラックも壊されて立派な家が建ち、おじさんはいなくなっていた。

 

高校に入り電車通学するようになると、私の行動範囲が広がり、新宿、渋谷へ出入りして地元では遊ばなくなった。大学も自宅から通い、新宿の街はネズミの穴まで知っている気になっていた。家にはほぼ寝に帰るだけになった。そして、結婚して埼玉県、東京のはずれ、横須賀、横浜と引越しを繰返し、西原とも縁遠くなった。

 

1978年に小田急線に千代田線が乗入れるようになると、厳しいカーブにあった代々木上原駅が150メートルほど西へ移り、わが家の真ん前にやってきた。駅は西原町にあるのだが、南側の町名の代々木上原駅のままだった。地下鉄との乗換のため急行も止まるようになったのだが、新宿と下北沢の狭間にある代々木上原は駅の北側にしゃれた小さな店が幾つか並ぶようになっただけで、基本的に住宅街のままで大きな発展はなかった。

 

もう十年以上前になるが、出張帰りに代々木上原駅に電車が止まり、ふと気まぐれで駅を下りた。まずはと、駅の北側に出た。昔は山の中腹にしがみつくように住宅が並んでいたのだが、工夫をこらして自己主張する小さな店が並んでいた。なじめないまま、元の駅前、東口にまわる。紅谷という大きな菓子屋はなくなっていたが、坂下のパン屋と金物屋がそのままのたたずまいで、なんだかニンマリしてしまった。
線路の南の通りを西に、かつてのわが家を目指す。街並みも、店もまったく変わっていて面影もない。我が家の跡地にはアパートが建ち、周辺は変貌し、想い出が湧き出してこない。ならばと、子供の頃の遊び場、裏道へ回ったが、道はそのままなのに、まったく違った世界になっていた。
ザリガニ取りの川は暗渠になり、その川の上はくねくねと続く細い散歩道になっていた。歩くと、いかにも裏側ですという家のたたずまいが、そのまま見えた。

 

しばらくぶらぶらして行き止まりの路地に入り込んで立ちすくんだ。一瞬で子供の頃の世界にタイムスリップしてしまった。小さな家の入口、傾いた門柱、苔むした低い階段。倒れそうな小さな日本家屋。数十年経っているのに、まったく変わっていない幻のような光景がそこにあった。

 

また行ってみたくなる。いや、あの場所のあの光景はそのまま心にしまって置こう。西原にはまだ私の子供時代がそのままあるのだから。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

話すために歌う

2022年08月11日 | 個人的記録

 

私は生来の無口だ。たいして意味のない会話はしない。かといって、たまのしゃべりが含蓄ある内容と言う訳ではない。若い頃は挨拶も意味が解らないとしなかった。TⅤのニュースで犯人の近所の人が、「よく挨拶するいい人ですよ」などと話していることが多い。「ほらな、ニコニコと挨拶する奴にろくな奴はいないんだよ」と今でも偏見を持って呟いている。

 

新婚の頃、妻の実家に行った時、3姉妹の家族団らんの場には加わらず、傍で寝転んで数学の本を読んでいた。2,3回続くと、着くと居間に座布団と毛布が用意されているようになった。最近はすっかり角が取れてしまって話に加わることが多い。つい混ぜっ返したり、嫌味なジョークを言ったりして、相方に「あっちで寝てれば」と言われてしまうのだが。
それでもごくたまにだが、本人は面白いと思い込んでいるくだらない事をあれこれ話続けることがある。しかし、こんなことは珍しく、十年に一度くらいのことだ。つい先日こんな事が起こった。きっと次に長話するのは十年後、いや歳から言って、最後のしゃべくりだったのだろう。

 

近年とみに声がでない。つうかあで通じるはずの相方からもよく「何言ってるか、分からなかった」などと言われるしまつだ。さらにむせることも多く、近い将来の誤嚥性肺炎を避けるために、バカバカしい「パタカラ体操」などはできぬので、歌を歌って喉を鍛えることにしている。

 

若い頃好きだったビートルズは歌いにくいので、ユーチューブで懐かしの日本のポップスを聞いて井上陽水の「少年時代」や、財津和夫の「サボテンの花」などを必死で覚えた。最近では喉の限界に挑戦し、サザンの「真夏の果実」や、高橋真利子の「ごめんね」を歌っている。

メロディーは適当でも気にしないのだが、歌詞が覚えられない。学生時代の丸暗記を思い出しながら、最初から何回も繰り返し、覚えていく。時間だけはたっぷりあるので、頭の体操も兼ねて必死で暗記し、ゆっくり歌ってみる。途中で、パカッと歌詞が抜け、思い出せなくなる。毎回違う所で抜け落ちる。話の筋道が続いているところは良いのだが、そうでない所は、認知症はかくやと思うほど、まったく思い出せない空白となる。そのたびにスマホに歌詞を表示させて、なんだ、そうだったか、となる。

 

音痴の呼び声高い傘寿の私が、白髪を振り乱し、SST(シミ、シワ、たるみ)の顔を歪めて熱唱する姿はお見せするわけにはいかない。トイレが長いとの苦情をものともせず、3曲歌い終わるまで出ないことにしている。 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする