hiyamizu's blog

読書記録をメインに、散歩など退職者の日常生活記録、たまの旅行記など

藤沢周平『橋ものがたり』を読む

2015年11月29日 | 読書2

 

藤沢周平著『橋ものがたり』(新潮文庫1983年4月25日新潮社発行)を読んだ。

 

橋にまつわる切ない江戸町人の恋愛模様、10編からなる短編集。

 

五年振りの男女の待ち合わせの場所が"萬年橋"(「約束」)、縁談が決まった女が偶然遭った殺人者への恋を自覚する場所が"思案橋"(「小ぬか雨」)、男が方向錯誤に陥るのが"両国橋"(「思い違い」)、永遠の人と二度目の連れ歩きをする場所が"永代橋"(「赤い夕日」)、少年に大人の心が芽生える場所が"小さな橋"(「小さな橋で」)。

 

「約束」
幸助は昨日で錺師の年季奉公が明け、実家に戻って来た。幼なじみのお蝶と5年ぶりに萬年橋で再会する約束をしていた。3つ下のお蝶はもう18の大人になっているはずだ。5年前、奉公先にお蝶が訪ねてきて、料理屋へ奉公に出ることになった、「もう、幸助さんには会えないわね」と告げた。そのとき、幸助から今日に逢瀬を約束したのだ。

お蝶は時刻を過ぎてもなかなか来なかった。幸助もこの5年の間にいろいろあったし、お蝶もそうなのだろうと思う。お蝶はこうなってはもう会いに行けないと思う。そして明日からは、萬年橋であたしを待つ人はいない。灰色の暮らしの中で一点の光は消えてしまった。

結局、お蝶は来ないのだろうか。長い長い別れの旅は終わるのだろうか。

 

 

「小ぬか雨」
一人暮らしで親爺橋近くで履き物の店を営む独り身のおすみのところに、「すみません、お嬢さん。声をたてないでください」と見知らぬ男が「追われてるんです。すぐに出ますから」と入ってくる。おすみの近くの男たちは口が汚いし、許婚の勝蔵は職人で野卑で、この男のようにきちんとした若者は知らない。男が去って、おすみは思う。まもなく下駄職人の女房になり、子を産むだろう。それが自分に相応の運命で、格別そのことに不満を持ったことはない。

しかし、逃げ切れず再び入ってきた男・新七は人を殺して逃げてきたのだった。・・・二人が思案橋にたどり着いたときに・・・。

 

 

「思い違い」
指物師の店で働く23歳の源作は、勤め先への行き帰りの両国橋ですれ違う女性・おゆうの顔を見られただけで幸せを感じていた。源作は女達が自分を見るとき二の足を踏むような表情をみせるほどの醜男だったが、親方に認められた腕の持ち主で、親方の放蕩娘・おきくの婿に望まれていた。そんなとき、源作は男たちにからまれるおゆうをみかけて、日頃の臆病を忘れておもわず助ける。川向うに家があって、朝、通い勤めで橋を渡ってくるのだろうと思っていたおゆうは・・・。

 

 

「赤い夕日」
夫・新太郎に女がいるらしいと手代の七蔵に囁かれた呉服屋の嫁であるおもんは、夫は子供が欲しいのかしらと思う。七蔵が金をごまかしていたとして店をやめさせられ、夫の女のことを嗅ぎ回っていたからではと思ってしまう。背中におぶさって見た赤い夕日の幼いときの記憶があるおもんの育ての父親、大好きな斧次郎が危篤だという知らせがやってきて、けして渡ることがなかった永代橋を渡って斧次郎の住む家に行くと、そこには・・・。

 

 

「小さな橋で」

まだ遊びたい盛りの広次は、父親が出て行ってしまい、母親が夕方から働いているので、姉・おりょうの勤めが終わる頃に迎えに行かなくてはならない。姉は米屋の手代重吉と“できて”しまったからなのだ。しかし、姉は重吉と駆け落ちしてしまう。

 

 

「氷雨降る」
女房のおまさと共に、長年働きに働いてきた吉兵衛は、商いは順調だったが、50を過ぎ空しさが募るようになった。商売を任せた息子・豊之助は抜け目なく、父親を相手にしなくなり、ねちねちと奉公人を叱りつける。女房は太り、厚化粧して芝居見物。

毎夜、飲みに出かけるようになった吉兵衛は大川橋で思い詰めたような表情の若い女を見かけ話しかけたが、欄干をつかんで離さない。泣きつかれて、行きつけの店に女を預ける。美しい女はおひさという名前以外、何も事情を話さない。目つきの良くない3人組が店にやってきて・・・。

 

 

「殺すな」
船宿の船頭をしている吉蔵は船宿のおかみのお峯に誘われて駆け落ちした。世間から隠れて楽しく暮らしていたが、徐々にお峯が退屈で落ち着かなくなる。お峯は駆け落ちを後悔し、家に戻りたがっているんじゃないだろうかと、吉蔵は疑心暗鬼に…。二人の隣に筆を作っている喘息持ちの浪人・小谷善左ェ衛門が住んでいた。過去を悔やむ左ェ衛門が永代橋で吉蔵に言う。「いとしかったら、殺してはならん」

 

 

「まぼろしの橋」
おこうは小さいころに美濃屋の主人和平に拾われ呉服屋の娘として育てられ18歳になった。兄としてきた跡取りの23歳の信次郎の嫁になり、幸せな暮らしを送るようになる。そんなとき、おこうの実の父親と知り合いだったという男が尋ねてくる。

 

 

「吹く風は秋」
いかさまをして江戸を離れていた博奕打ちの弥平は猿江橋を渡って6、7年ぶりに江戸に戻ってきた。その日に女郎屋の前で夕日を眺めている23、4の女郎・おさよに出会い、一晩を過ごす。吉蔵は賭場の親分に詫びを入れ、ツボ振りをして、期待以上の腕を見せて30両を得る。おさよをうけ出そうと一生懸命金をかせいているという亭主を探し出すが、・・・

 

 

「川霧」 
蒔絵師の新蔵は早朝の永代橋で倒れた女・おさとを助け、一時自分の家で休ませてやった。おさとは半月ほどして礼にやっていきた。新蔵の質問に、「あたしはそんなふうに気にかけてもらうほどの女じゃない」、仲町の花菱の飲み屋の酌取りだと言う。新蔵はおさとを探し出し、一緒に暮らすようになるが、3年ほど経ったある日おさとは居なくなる。

 

初出:昭和55年4月単行本刊行

 

 

私の評価としては、★★★★(四つ星:お勧め)(最大は五つ星)

 

謎を秘めたミステリアスな美人が男に苦労をかけられながら、けなげに生きている。心やさしい男が、見返り目当てではなく、助けようとする。基本的筋立ては同様な作品が多いが、それだけに逆に安心して登場人物にどっぷり感情移入して楽しめる。

 

井上ひさしの「解説」によれば、藤沢周平の小説は、

第一に『一茶』『檻車墨河(かいしゃぼくが)を渡る』のような史伝もの

第二に『暗殺の年輪』のようなお家騒動もの

第三に『鱗雲』のような下級武士の恋を描いた青春もの

第四に職人人情もの

そして第五が、この本のような市井(しせい)人情ものに分類できるという。植草甚一は「雨の静かに降る日は、藤沢周平の職人人情もの、市井人情ものが一番ぴったりだ」と言ったという。

 

 

「小さな橋で」の最後が微笑ましい。

 男と女が“できる”ということがどうゆうことなのか分からなかった子どもの広次が原っぱで一人泣いていると、遊び仲間のおよしが来て、一緒に泣いてくれて、手を握り合った。もう少しそのままでいたいと思う一方では、心が落ち着きなく弾むようだった。

突然に、広次は理解した。

――おれ、およしとできた

 

 

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藤沢周平『天保悪党伝』を読む

2015年11月27日 | 読書2

 

藤沢周平著『天保悪党伝』(新潮文庫、ふ-11-25、2001年11月1日発行)を読んだ。

 

裏表紙にはこうある。

天保年間の江戸の町に、極めつきのワルだが、憎めぬ連中がいた。博打好きの御家人・片岡直次郎、辻斬りで財布を奪う金子市之丞、抜け荷の常習犯・森田屋清蔵、元料理人の悪党・丑松、ゆすりの大名人として知られた河内山宗俊、そして吉原の花魁・三千歳。ひょんなきっかけで知り合った彼らが、大胆にも挑んだ悪事とは…。世話講談「天保六花撰」に材を得た痛快無比の連作長編。

 

 

「蚊喰鳥 -天保六花撰ノ内・直侍」

 80俵取り御鳥見の御家人・片岡直次郎、通称直侍、は金が無くてもう半月も吉原の妓楼の三千歳(みちとせ)にご無沙汰だった。賭場ですった直侍は世渡りする直参、兄貴分の河内山宗俊に金の無心に行く。上州屋の娘・おなみを返さない松平出雲守の屋敷に乗り込み、河内山のゆすりの片棒を担ぐことになる。

 

蚊喰鳥とはコウモリのこと。

 

「闇のつぶて -天保六花撰ノ内・金子市」

金子市之丞は辻斬りしたところを丑松に見られ、だまされた丑松の妹・お玉を取り返してやる。金子市は直侍から乗り換えた三千歳に会うために金が欲しくて丑松のゆすりを手伝うが、得体の知れない献残屋・森田屋清蔵に阻まれる。

 

「赤い狐 -天保六花撰ノ内・森田屋」

表の商売に献残屋をやりながら、荷抜けの頭という裏の顔を持つ森田屋は金子市を巻き込み、恨みのある本庄藩の藩主にひと泡吹かせるために、ご禁制品の取引を持ちかける。

献残屋とは、大名への献上物の残り物(献残)の払い下げを受け商売する

 

「泣き虫小僧 -天保六花撰ノ内・くらやみの丑松」

本来は料理人の丑松は河内山の推薦で花垣の料理場で働くことになる。丑松は哀しそうなおかみのりくが気になり、まじめに働くが、数日に一度訪れる政次郎という客が泊まっていった朝、おかみさんが地獄の中にいると感じた。蝮の政に叩きつぶされた丑松は金子市を引き込む。

 

「三千歳たそがれ -天保六花撰ノ内・三千歳」

水戸家の江戸屋敷で禁制の影富(非公認の富くじ)をやっているらしいという話を河内山が聞き込んでいた。三千歳はいまだに間夫きどりの直侍にうんざりしていたが、馴染みの水戸家役持ちの比企東左衛門から情報を聞きだせと頼まれる。金子市は昔八州回りの腕を切った罪で江戸を逃れることになり、三千歳は気鬱の病になった。

「おれも悪なら、金子市も悪。おれたちはそのようにしか生きられねえのだ。おめえがいちいち気に病むのはよしな。いいか」
 三千歳の胸に、直次郎の声がこれまでになく、あたたかく入りこんで来た。三千歳は笑った。

 

「悪党の秋 -天保六花撰ノ内・河内山宗俊」

河内山は、お城坊主を管轄する磯村からおまえの悪名が高く、このままでは息子の三之助の出仕も危ういと言われる。将軍家の愛妾お美代の方の義父・中野磧翁に口をきいてもらうための200両を、影富の件で水戸家から脅し取ろうと企てる。

 

 

私の評価としては、★★★(三つ星:お好みで)(最大は五つ星)

 

講談「天保六花撰や歌舞伎「河内山と直侍」「三千歳と直侍」で有名な話を藤沢周平が書いたのだから面白くないわけがない。地味な話が多い藤沢周平作品には珍しい派手な悪党物というのも興味を引く。藤沢周平が伸び伸びと楽しんで書いているように思える。

 

時代背景もよく説明されていて、歌舞伎の理解にもつながると思う。

 

悪党といっても弱みを持っているし、思い切りが良いといってもどこか哀しみがあり憐れみを誘う。

 

実在の河内山宗俊は、直次郎とともに1823年(文政6年)に捕らえられ、河内山は獄死。直次郎は追放処分となったが、後、捕らえられ、1832年小塚原刑場で刑死した(享年40歳)。

 

 

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ロジーナ・ハリソン『おだまりローズ』を読む

2015年11月24日 | 読書2

 

 

ロジーナ・ハリソン著、監修新井潤美、訳新井雅代『おだまりローズ 子爵婦人付きメイドの回想』(2014年8月25日、白水社発行)を読んだ。

 

大富豪のアスター子爵夫人は才色兼備な社交界の花形で英国初の女性下院議員、そして非常にエキセントリック。 「おだまり、ローズ」を連発するパワフルで毒舌家の奥様と、何かというと“使用人の分をわきまえて”などと書いているわりに、奥様にがんがん口答えしたり皮肉を言ったりする口八丁手八丁のメイドの35年間のバトル。

1899年生まれ著者のロジーナ・ハリソン(ローズ)は当時の庶民には不可能だった旅行をするという夢があった。ローズの一家はヨークシャー近郊の小さな村にあり、懸命に働き、ローズは貧しいが幸せな子供時代を過ごす。母がお屋敷の大量の洗濯物を洗い仕上げたり、鳥や兎の猟をしたり、庶民の働きぶりが詳しく語られる。

洗濯メイドの母親は「お屋敷の女主人付きメイド」になれば、お供で旅行ができると教える。ローズは令嬢付きメイドでスタートし、女主人付きメイドにキャリアアップして、アスター家へ移ってくる。

 ウィリアム・ウォルド―フはアメリカの大富豪で、子爵の位を金で買ってイギリスへ移ってきた。長男ウォルド―フはイートン校からオックスフォード大学に進み、イギリス紳士として育った。しかし、彼はアメリカの大金持ちの娘で離婚歴のあるナンシーと結婚した。才色兼備のナンシーは子爵夫人・レディー・アスターとなり、内外の王族・文人・政治家と深く交流し、イギリス初の女性下院議員になる。一方、気まぐれで厳しい性格なためメイドが居つかない女主人だった。

 

アスター家は複数の屋敷、別荘、農場などを持ち、使用人は100人以上。毎週、数百人の客を迎えるパーティを主催し、シーズンごとに住む家を変え、大量の荷物を抱えて長期の旅行に出かける。

 ローズは主人にも臆せず物を言う性格を気に入られ、レディー・アスターが亡くなるまで35年間も生活を共にする。主人と使用人の関係を超えた信頼関係のなか、第二次大戦中の大空襲や戦後の社会変動を乗り越えていく。そして、世界各地を主人レディー・アスターとともにお金持ち旅行して、夢を実現する。

 

 

何といっても、奥様とローズの厳しいやりとりが面白い。

 

(奥様は)高価な装身具をつけるのが大好きで、わたしの好みから言うと、たくさんつけすぎることもしょっちゅうでした。くるりと向き直って「どうかしら、ローズ?」とおっしゃる奥様に、わたしは「おや、それっぽっちでよろしいんですか、奥様?」と応じ、毎度おなじみの「おだまり、ローズ!」のひとことをちょうだいしたものです。

 

奥様がよく服装を褒められていたことは知っていますが、・・・、奥様の口からそれがわたくしに伝わることはありませんでした。せいぜい一度こうおっしゃったことがある程度です。「レディ・だれそれが、どうすれば襟とカフスをこんなにきれいにしておけるのか知りたいとおっしゃっていたわよ、ローズ」

わたしは少々つっけんどんにならずにはいられませんでした。「洗濯することです、と申し上げてください、奥様」

 

米国旅行中、奥様が高級デパートをのぞきに行くと言い出した。

「もう帽子はお買いにならないでくださいよ、奥様」わたしは申し上げました。「荷造りはすんでいますし、帽子用の箱はどれもいっぱいですから」・・・奥様はわたしの言葉を挑戦と受け取ったに違いありません。戻ってきたときには案の定、買い物包みをどっさり抱えていました。・・・

「だってローズ、どうしても買わずにいられなかったのよ」と奥様。どうせならそのあとに、「おまえにあんなこと言われてはね」とつけ加えるべきでした。そういう意味でおっしゃったのですから。

 

奥様はご自分の理想どおりのお付きメイドを求めていて、そのためにはまずわたしをたたきつぶし、それからご自分の好みに合わせて作り直せばいいと思っていたのです。

 

奥様もわたしも、いまさら性格を変えられるわけがありません。そこでわたしは奥様とのあいだできわどい場面を作りだし、戦いのルールを決めたのです。それは意地と意地、知恵と知恵のぶつかりあいになるはずで、わたしはつねに気を強く持ち、頭の冴えた状態を保っておく必要がありました。

「歳月とともに、わたしたちの関係もしだいに角がとれ、激しいいさかいは言葉による小競り合いめいたものに変わりました。当時は知らなかったのですが、どうやらわたしたちの口論は、使用人だけでなくご家族にも笑いと話題を提供していたようです。ずいぶんあとになって聞いたところによれば、わたしたちが揉めていると、(旦那様の)アスター卿はご自分の化粧室に行って聞き耳を立て、大笑いされていたとか。・・・わたしがレディ・アスターを理解し、上手にお仕えしていくための鍵を見つけたことです。奥様はへいこらされるのがお嫌いで、いわゆるイエスマンをお好きではありませんでした。

 

 

アスター家のお屋敷「クリヴデン」を取り仕切る名執事のリー氏も、奥様に理不尽な要求をされ、仕事ぶりをまったく評価してもらえず、一カ月後にお暇をいただくつもりだと奥様に告げたことがある。

奥様は一瞬にしてご自分が直面している危機に気づきました。「だったら辞めたあとの行き先を教えてちょうだい。わたしもいっしょに行くから」そのひとことが事態にけりをつけました。二人はたちまち笑い転げ、リー氏はもちろんアスター家にとどまったのです。

 

 

奥様が赤狩りで有名なマッカーシー上院議員に対する人身攻撃をしたのは、このときです。奥様はこの席でマッカーシー議員に紹介されました。・・・
「何を飲んでいらっしゃるの?」と奥様。
「ウィスキーですよ」とマッカーシー。
「毒ならよかったのに」奥様は高らかに言い放ちました。周囲の人々全員の耳に届くように。

 

 

私の評価としては、★★★★(四つ星:お勧め)(最大は五つ星)

 

ともかく面白い。奥様とローズのバトルがなによりも秀逸だ。舞台の上での名演技を見ているような気がする。最初に庶民の暮らしぶりが書かれ、その後に上流社会の実状、考え方が手に取るように描かれる。

353ページと大部だが、歴史が激しく動いている中での、落ち込んでいく貴族社会の話で、バーナード・ショー、チャーチルなども登場し、背景も含めて興味をつなぎとめていく。

 

 

 

ロジーナ・ハリソン Rosina Harrison

1899年、イギリス、ヨークシャーに石工の父と洗濯メイドの母の長女として生まれる。

1918年、18歳でお屋敷の令嬢付きメイドとしてキャリアとスタート。

1928年、アスター子爵家の令嬢付きメイドとなり、同年、子爵夫人ナンシー付きメイドに昇格する。

以後35年にわたってアスター家に仕えた。

1975年に本書を刊行。1989年没。

 

 

新井潤美(あらい・めぐみ)

1961年、東京生まれ。子供時代の多くを英国で過ごし、高校を卒業後、帰国。

1984年、国際基督教大学教養学部人文科学科卒

1990年、東京大学大学院博士課程満期退学、上智大学文学部教授

訳書:『執事とメイドの裏表』『階級にとりつかれた人びと 英国ミドルクラスの生活と意見』など

 

 

新井雅代(あらい・まさよ)

津田塾大学学芸学部国際関係学科卒

訳書:『オークションこそわが人生』『古代ギリシャ 11の都市が語る歴史』

 

 

 

 

目次
アスター家の使用人 1928
はじめに
1 子供時代
2 いざお屋敷奉公に
3 アスター家との出会い
4 レディ・アスターとわたしの仕事
5 わたしが仕事になじむまで
6 おもてなしは盛大に
7 アスター家の人々
8 戦時中の一家族
9 叶えられた念願
10 宗教と政治
11 最後の数年間
解説 カントリー・ハウスの盛衰が生んだドラマ 新井潤美
訳者あとがき

原題 Rose: My Life in Service

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井の頭公園のかいぼり

2015年11月22日 | 散歩

 

弁天池の「かいぼり」が行われていると聞いて、今日22日、行ってみた。

七井橋の南の狛江橋から弁天橋を見る。特に変わってはいない。


しかし、狛江橋の下からボート池には大量の水を汲みだしている。


ポンプが5台


弁天橋の西にある弁天池には多くのボランティアが魚を追い詰めていた。


徐々に輪を狭め。


橋の上から投網し、


残った魚をすくい取る。腰まで水につかってご苦労様です。

テントが張られ、報道関係者受付も設けられていた。
かいぼりの説明、成果展示が行われていた。

駆除すべき外来種
ブルーギルなど


クサガメ


メダカの改良品種のヒメダカも外来種


拡大してもこんな小さなメダカを駆除するのは大変だ


ナマズは在来種だが、保護用のいけすに入れて、池に水を入れてから戻す。


外来種は魚粉にするという。う~ん、魚粉か、厳しい! 魚の命には区別があるのか。

毎回話題になる自転車。今回は20日までに20数台あったという。

昔から日本にいるクサガメは、日本列島から化石が産出されていない、古い年代の文献に登場しない、DNAが朝鮮半島産、中国産とほぼ同じという点から外来種に分類されているという。
何か、在来種と外来種の区別も難しいものだ。そして、そこが運命の差になる。


繁殖力の強い外来種は駆逐される。進化論に反する行為なのだが。

武蔵野台地が平地になる北から南への線上に地下水が湧き出し、
三宝寺池、善福寺池、井の頭池が並ぶ。

お茶の水池、ボート池、ひょうたん池ではすでに「かいぼり」が行われていて、
このブログでも何回か触れた。

吉祥寺散歩
井の頭公園池のかいぼり(1)
井の頭公園池のかいぼり(2)

お茶の水池が、水質浄化の効果か、かいぼりの成果もあるのか、多少きれいになった気がする。

今日は日曜日、アートマーケッツが開かれている。
おなじみの顔面紙芝居


似顔絵書


鳥の絵


絵、絵はがき


など様々。

 

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藤沢周平『時雨のあと』を読む

2015年11月19日 | 読書2

 

藤沢周平生著『時雨のあと』(新潮文庫ふ-11-3、1982年6月25日発行)を読んだ。

 

ドナウ河クルーズ中、備え付けの本をベッドで寝転んで読み、帰ってから図書館で借りて、思い出しながら、書いた。

 

裏表紙にはこうある。

身体を悪くして以来、すさんだ日々を過す鳶の安蔵。妹みゆきは、兄の立ち直りを心の支えに、苦界に身を沈めた。客のあい間に小銭をつかみ兄に会うみゆき。ふたりの背に、冷たい時雨が降りそそぐ…。表題作のほか、『雪明かり』『闇の顔』『意気地なし』『鱗雲』等、不遇な町人や下級武士を主人公に、江戸の市井に咲く小哀話を、繊麗に、人情味豊かに描く傑作短編全7話を収録。

 

 

「雪明かり」

 280石の芳賀家に婿入りし、35石の実家との交流を絶たれた兄・菊四郎。一方、血のつながらない妹・由乃は嫁ぎ先・宮本家での辛い仕打ちに病を得て、汚物にまみれ、骨と皮だけになっていた。菊四郎は病の由乃を婚家から救出し、茶屋へ運び込む。菊四郎は雪乃のいる茶屋通いを宮本家の母や婚約者の朋江から責められた。

立ち止まるその場所から、その先はひと跳びの距離に過ぎなかった。だが菊四郎は繋がれていた。跳べば由乃もろともその裂け目に堕ちるのがみえている。
「跳べんな」

 

「闇の顔」

 志田弥右衛門と大関泉之助が相討ちとなって死んだ。二人の死にもう一人、剣術に優れた者の存在が浮かび上がった時、泉之助の婚約者・幾江には石凪(いしなぎ)鱗次郎の顔が浮かんできた。

68ページの長編。犯人は誰かというサスペンス風。

 

「時雨のあと」

 安蔵は博奕にはまり、妹のみゆきは錺師(かざりし)の見習いで金がいると信じて、女郎屋で働いた金を渡している。みゆきの風邪で寝込む姿を見て、安蔵は思い出した。子供のとき二人は親戚に預けられた。叱られて夜飯を抜かれ泣いている安蔵の傍で、幼いみゆきが云った。「兄ちゃんが食べないから、あたいも食べない」

屋根を叩いていた時雨は、遠く去ったらしく、夜の静けさが家のまわりを取り巻いている気配がした。

 

「意気地なし」

 歳は27,8、腕の良い蒔絵師という伊作は、妻を亡くし赤子を抱えて、情けないことに一人泣いていたりする

。隣に住むおてつは腹立たしく、いらいらしていた。 赤子を連れては仕事に行けないと知ったおてつは赤子を預かる。おてつは婚約者でモテ男の作次 と一緒にいても赤子のことが気になりだす。

 

 

「秘密」

 76になる由蔵は、近頃ぼんやりしだした頭で、手代だったころ悪事を見つけられた女が誰だったか思い出そうとしていた。嫁のおみつに心配されて声を掛けられて・・・

 

「果し合い」

 58の庄司佐之助は、若い頃剣術に優れしかるべき家の婿になると思われていた。しかし、果し合いで足を不自由にし、依頼30数年、甥の弥兵衛の厄介者として部屋住みで過ごした。大叔父の佐之助に唯一優しい甥の娘美也は松崎信次郎に思いを寄せ、縄手達之助との縁談を断った。達之助は剣技が不得手の信次郎に果し合いを申込んだ。美也は佐之助に助けを求めた。左之助にはその昔、女性との過去に悔悟があった。

 

「鱗雲」

 小関新三郎は城下へ帰る途中、病で倒れている娘雪江を助けた。死んだ妹を思わせる雪江はまもなく目的地へ旅立った。中老・保坂のドラ息子が屋敷に上士の子女を集めて騒いでいたが、新三郎の婚約者・利穂(としほ)もいつしか参加するようになっていた。

 ラストシーンで、駆けてくる女を遠くに見た新三郎が、婚約者と雪江がいなくなってめっきり寡黙になった母につとめて平静に言う。「あなたの娘が一人、帰ってきたようです」。

 

初出:1976年立風書房より単行本発刊

 

 

私の評価としては、★★★★(四つ星:お勧め)(最大は五つ星)

 

あいも変わらず下級武士、慎ましく生きる市井の人を温かく見つめる眼がやさしい。人間の愚かさ、切なさ、どうしようもないやるせなさ、そして人情のあたたかさが見事に語られる。

高橋源一郎に「一億三千万人のための小説教室」で“伝統芸”とからかわれようが、面白く、心動かされる小説は読みたいし、多くの人が読んでいる。

 

 

藤沢周平の略歴と既読本リスト

 

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塩野七生『イタリアからの手紙』を読む

2015年11月18日 | 読書2

 

塩野七生著『イタリアからの手紙』(新潮文庫し-12-9、1997年1月1日発行)を読んだ。

 

ドナウ河クルーズ中にあまりにも暇な時に、船の小さな図書館で見つけたこの本をベッドに寝転んで読んだ。帰ってから図書館で借りて、読み返し、思い出しながら、この駄文を書いている。

 

 

裏表紙にはこうある。

芳醇なるブドウ酒の地中海。死んでいく都、ヴェネツィア。生き馬の眼を抜くローマ。だましの天才はナポリ人。田園風景に、マフィア…。ここ、イタリアの風光は飽くまで美しく、その歴史はとりわけ奥が深く、人間は甚だ複雑微妙で、ぞくぞくするほど面白い。―壮大なライフ・ワーク『ローマ人の物語』へと至る遙かな足跡の一端を明かして、人生の豊かな味わいに誘う24のエセー。

 

 

1972年、著者35歳(多分)、歴史読物を書き始めていた塩野七生が歴史小説家として評価されはじめた時期に書かれ、出版されている。

 好奇心旺盛で、失敗さえも楽しんでしまおうという茶目っ気も感じられる。ここでは悠然と大局的に歴史を見通す力よりも、若さ、元気良さが目立ち、皮肉屋の面も際立つ。

 

話好きで、しかも話が無類に面白い人が、しゃべりまくっているようなエッセイ集だ。ただし、小説風のものも数編ある。

 

 

「カイロから来た男」

・・・そのうえ、彼がカメラを持っていないことが、私の気に入った。この人は、写真をとって記念に残すことよりも、自分自身の眼で見る方をより大切にする人らしい、と感じたのだ。・・・そのホテルは、ローマでは最高級に属するホテルで、彼はそこに宿を取っている理由を、自分のやりたいことをするには、なるべく快適な環境でやりたい、といったからである。人間は、金を貯える時よりも、金を使う時のほうがより人間的になる、と常々私は思っている。

(何かと写真撮りまくり、高級ホテルに泊まるのを嫌がる私は?)

 

 

「骸骨寺」

ローマに修道士たちの大量の骸骨を整然と積み重ねた骸骨寺がある。著者はフランチェスコ派の後継者の狂信から生まれた無邪気さに不気味さを味わった。

 

 

「皇帝いぬまにネズミはびこる」

この夏、ローマはネズミと蚊の襲来にひどく悩まされた。・・・最後に下水道の大掃除をしたのはいつか、・・・調べてみると、・・・初代皇帝アウグストゥスの治世時代にやっただけなのだそうだ。

その後、ローマの下水道の大掃除の話はウヤムヤになってしまったのだろう。

 

 

「ナポリターノ」

著者はナポリで車を中の荷物ごと盗まれた(「ナポリと女と泥棒」)。ナポリターノとは、泥棒が多いとか勤勉でないとか、何とかいわれても、どうしても憎む気になれないナポリっ子のことだ。

ナポリから帰る時、7,8歳の男の子に駅への道を聞いた。その子は

「シニョリーナ、なんで発つの。ナポリはいいところだよ。おいしくて安いピッツァ屋を教えようか。ジェラート(アイスクリーム)はもう食べた? まだだったら、連れて行ってやるよ。こんなにいい天気なのにさ。発つって気がしれないなあ。もっと居るべきだよ」

 

 

「マフィア」

ギリシャの植民地として繁栄したシチリアはやがてローマ人、ベザンツ、ノルマンなどと次々に征服されたが、シチリア化した征服者によって島は繁栄を続けた。しかし、ガリバルディのイタリア統一後、富を吸い上げられ、シチリア人に国家への憎悪を生み、同郷人の団結を自覚させ、その土壌がマフィアを生んだ。ムッソリーニの強権支配で壊滅寸前になったマフィアが、FBIと結びつき、米軍上陸に協力する。戦後、開放された米国マフィア幹部によりイタリアのマフィアは巨大化し、政財界へ根を張った。

 

 

初出:1972年新潮社より単行本発刊

 

 

私の評価としては、★★★(三つ星:お好みで)(最大は五つ星)

 

話は面白く、なにより塩野さん自身に興味を抱く。内容は「いかにもまだ若いな」と思わせるところもあり、逆に「いかにもあの塩野さんは若い頃も・・・」と思うところもある。

威勢の良い、いなせな若い塩野さんのエッセイ、読んで楽しいのだが、濃厚な歴史物に比べるとやはり軽い。エッセイなのについそう思ってしまう。

 

 

塩野七生(しおの・ななみ)

1937年7月、東京生れ。学習院大学文学部哲学科卒業後、1963年~1968年、イタリアに遊学。

1968年「ルネサンスの女たち」を「中央公論」誌に発表。

1970年『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』で毎日出版文化賞を受賞。この年からイタリアに住む。

1982年『海の都の物語』でサントリー学芸賞、1983年、菊池寛賞受賞。

1992年よりローマ帝国興亡史・「ローマ人の物語」を年一作のペースで執筆。1993年新潮学芸賞、1999年、司馬遼太郎賞受賞。

2001年『塩野七生ルネサンス著作集』全7巻を刊行。

2002年イタリア政府より国家功労勲章を授与。

2006年「ローマ人の物語」第XV巻で完結。

2007年文化功労者に選出。

2008-2009年『ローマ亡き後の地中海世界』。

2011年「十字軍物語」シリーズ全4冊が完結。

2013年『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』を刊行。

 

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ドナウ河クルーズ (21)完結編 人のマンホール好きを笑うな

2015年11月17日 | 海外

 

長らくお待たせしました! 最後を飾る東欧のマンホールの数々のご紹介です。


スロバキアの首都・ブラチスラバ

ブラチスラバには世界で最も有名なマンホールがある。多くの人が取り囲んでいて、観光名所になっている。
マンホールを馬鹿にしてはいけません。 地方創生はマンホールからなのだ。
マンホール好きな私は「これを見るためにドナウ河クルーズに申し込んだんじゃないか」と疑われている。

ブラティスラバにはこのほか金ぴか輪っかなど注目されるマンホールがあるらしい。

三本の塔の絵とBRATISLAVAの文字。中央広場一帯だけがこのタイプで統一されていて、ブランド化、差別化されていた。


このあたりもなかなかのもの。


以上、スロバキアはマンホール先進国だ。
もちろん、差別化のために犠牲になる普通のマンホールもあった。


ドイツ・ミュンヘン
MUNCHENの文字、中心の模様も見事


円周上の小穴など機械的美しさがある。



文字なし


ウィーン
小さな円をずらして美しい模様を描いている。


ごく平凡

 

オーストリア・デュリュンシュタイン
彫りが浅く模様が細かすぎ、滑り止めの機能を失っている。ハンガリー・ブダペストの5番目と模様は同じで、共通する文字もある


ハンガリー・ブダペスト
BUDAPESTの文字と紋章。惜しむらくはせっかくの紋章が小さすぎる。


中心の紋章と文字が上 と同じ


植物のような模様が美しく見事。BUDAPESTI、ELEKTROMOSとの文字


上と同じ美しい文様だが、文字は異なる


オーストリア・デュリュンシュタインと模様は同じだが、文字が異なる


模様なく、文字も少ない。古いものは思い切って捨てましょう!

 

ハンガリー・エステルゴム
市長さん! マンホールはただあればよいという物ではありません。

 

観光案内は以上で終わり、次回、次々回は、暇に任せて船で読んだ本2冊のご紹介。船には小さな図書館もありました。

 

 

 

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ドナウ河クルーズ (20)水門

2015年11月16日 | 海外

 

ヨーロッパの川には多くの水門(正式には閘門(こうもん))がある。このドナウ河クルーズでもいくつもの水門を通過した。

水門はパナマ運河で有名なように水位が異なる間を通過するためのものでもあるが、洪水対策や、多くは発電のためでもある。

以下は、今回のドナウ河クルーズでオーストリアからハンガリーにかけて流域でもっとも水位差の大きな水門通過をご紹介。
ライン河・マイン河の船旅  水門 (14)」でも同等の説明をしている。


この船は上流から下流へ航行するのであるが、まず、上流から二つの水門間に入る。このとき、前方の水門で隔てられた先の水位はおそらくこの場合10mほど低い。


後方(上流)は、当然同じ水位だが、水門間の水を閉じ込めるように後方の水門が下から上がりはじめている。


後方の水門が十分上がると、上流からの水を遮断し、


水門間の水が下流に流れ出るためにかなり水位が下がる。


さらに下がる。


前方(下流)の水門が観音開きになり、水門間の水位と下流の水位が同じになる。上流との水位差は10mほどになる。


完全に前方水門が開き、船は前に出て、水門を抜ける。


この水門間には数台の船が同時に入り、通過できる。

 

スペースに余裕があるので、今回購入した定番のお土産をご紹介。

ウィーン
左は「すみれの花砂糖づけ」 

美人で有名なエリザベート王妃の大好物で、カフェー・ゲルストナーのオリジナル。約12ユーロと高め。
砂糖づけなので、とくにどうという味でもないが、スミレのお菓子は珍しいので話題にはなる。

右は「モーツアルト・クーゲル」で、8角形のケースに9個入っていて、約3ユーロ。写真は袋入りの我家向けの廉価版。
チョコレート菓子だが、かなり濃厚でしつっこく、一つ食べて一休みが必要。

ハンガリー
パプリカの名物はパブリカ。パプリカ・パウダーのこの袋はどこでも見かける。これも空港で小銭消費で購入。白が甘口で、赤は辛口。未使用で感想なし。


二人の孫娘に買った青い目のお人形。



次回は、いよいよフィナーレ、恒例の「マンホール紹介」。請うご期待??

 

 

 

 

 

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ドナウ河クルーズ (19)船内食

2015年11月15日 | 海外

 

船での料理をいくつかご紹介。

客はすべて日本人で、しかもお年寄り。したがって、あっさりしたものが多く、量は少なめに抑えて足りない方はお申し出くださいといる方式だ。もっとも、おかわりした人は見たことないが。


フルコース以外の場合は主菜を肉か魚か選べるが、以下の写真は私の選んだものだけを載せた。

朝食はバイキング(ビュッフェスタイル)がほとんどなので省略。


3日目(入船日) 昼 
オーストリア料理

サラダバイキング

前菜(ベーコンとたまねぎのサラダ、ハーブクルトンとともに)

スープ(ブロッコリーのクリームスープ)

メイン(ウインナーシュヴァインブラーテン、ポークネックのロースト、マスタードソース、ポテトのダンブリングとキャベツのソテー添え)

デザート(カイザーシュマルン、細切れのパンケーキ アップルソース、コーヒーまたは紅茶)

 


3日目、歓迎夕食会

前菜(鴨レバーのテリーヌ、カンバーランドソース)

スープ(ビーフコンソメ ラビオリ入り)

メイン1 魚料理(バターフィッシュ(マナガツオの1種)、サフランソース、シャンペンリゾット添え)

お口直し(レモンのシャーベット)

メイン2 肉料理(ビーフテンダーロインのスライス、ベルネーゼソース、ポチーニ(イタリア産きのこ)のフラン添え

デザート(胡桃のパフェ(アイスケーキ) プラムのマリネ添え、コーヒーまたは紅茶

 


4日目昼は、3種のカレーバイキング


4日目夕は、前菜、スープ、デザートと

主菜(鴨のロースト、オレンジソース、ポテトと赤キャベツ添え)

 

5日目昼は、オーストリア料理

前菜(野菜のゼリーよせ ガーデンレタスとともに)

スープ(ビーフのコンソメ)

魚料理(サーモンのソテー バターソース チャイブポテト添え)

お口直し(りんごのシャーベット)

肉料理(ターフェルシュピーツ、茹でた牛肉のスライス 西洋わさびのソースで ほうれん草とブイヨンポテト添え)

デザート(ヨーグルトテリーヌ、フォレストベリーソース) コーヒー又は紅茶

 

7日目昼はうどん



7日目夕は、秋の味覚 マッシュルーム ディナー

前菜(ミックスサラダ きのことベーコンとともに)

スープ(きのこのスープ カプチーノ仕立て)

主菜1(きのことチーズのリゾット)

お口直し(カシスのシャーベット)

主菜2(仔牛のロースト グレービーソース きのことポテト添え)

デザート(ビールを使ったりんごの衣揚げ シナモンシュガーとバニラソースで) コーヒーまたは紅茶

使用したきのこ


8日目昼は、和風弁当


プリンのデザート

 


8日目夕は、ハンガリー料理

前菜(パプリカのグリル、リパターチーズ、ピックサラミ)

スープ

主菜(ますのソテー ポテトと野菜の煮込み添え)

デザート(パラチンカ、ハンガリー風クレープ、ブルーベリーソース) コーヒーまたは紅茶

 


9日目夕、お別れ夕食会

前菜(サーモンのバリエーション)


スープ(西洋ゴボウのクリームスープ パブリカ風味のホイップクリーム添え)

主菜1(西洋えびのソテー シャドネ(白ワイン)ソース クリームリゾット添え)

お口直し(パッションフルーツのシャーベット)

主菜2(ローストビーフのスライス 黒胡椒のソース ポテトのグラタンと野菜のブーケ添え)

デザート(デザートパレード セレナーデ風ベイクトアラスカ(アイスケーキ)) コーヒーまたは紅茶

 

 船の狭い厨房で80人以上の美味しく食べやすい食事を作ってくれた料理長のユリアンさんはじめスタッフの方に感謝。

 

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ドナウ河クルーズ (18)機内食

2015年11月14日 | 海外

 

帰りはルフトハンザの新機種(らしい)B747-400。ビジネスで2階席。
足の短い私は、座るとスクリーンが遠すぎる。


寝るときは完全に平になるのだが、2時間足らずしか寝ないで、映画を見っぱなしの私には無駄。


夕飯の洋食

 

夕飯の和食

 

朝の洋食

朝の和食


アルコールは口にせず(宗教上の理由??)、少食でほとんど完食できない私達にはもったいなさすぎる。


大柄なCA が "coffee or tea? " と聞いてくるので、「コーヒー」とはっきり答えているのに、”What's?” とか言ってぽかんとしている。指さししてようやく、コーヒーが出てくる。

奥様が 「カフィー」 とか言うと、すぐコーヒーが出てくる。俺はこうみえても日本男子だ。気取ってなんかいられるかと思うが、毎回しゃくにさわること。


 

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ドナウ河クルーズ (17) ブダペストの後半(英雄広場&ヴァーツィ通り)

2015年11月13日 | 海外

 

9日目、マーチャーシュ教会&漁夫の砦観光に引き続き、11時頃からバスで英雄広場へ向かう。
地下鉄1号線の上のアンドラーシ通りの東北へ走り、突き当り。
ハンガリー建国100年を記念して1896年に造られた広場。


右側に現代美術館


左側に西洋美術館


36mの中央の塔の上には大天使ガブリエル。


足元にはマジャル族の隊長アールパードなどの騎馬像。


半円形列柱の間には初代国王イシュヴァーン、マーチャーシュ王など歴史的国王や近代指導者14名の像。


衛兵の交代が行われていた。


バスで船に戻る。


海岸にあったホロコーストを祈念するアートを、パレスチナに想いを寄せてパチリ。

昼飯後、歩いて賑やかなヴァーツィ通りへ。
ヴルシュマルティ広場のカフェには暖房の火が燃えていた。


老舗カフェ「ジェルボー」を教えてもらったが、満腹なので入らず。


ヴァーツィ通りは歩行者天国で観光客のみ。


パプリカ、辛子が名物で、


レース編みの店も多い。

夕暮の国会議事堂をパチリ。


今夜はお別れ夕食会があり、明日朝7:30に下船してバスでブタペスト空港へ。フランクフルト空港経由で成田へ帰る。
次回は帰りの機内食をご紹介。

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ドナウ河クルーズ (16) ブダペスト前半(マーチャーシュ教会&漁夫の砦)

2015年11月12日 | 海外

 

9日目、9時にバスでハンガリーのブダ地区のマーチャーシュ教会へ向かう。

くさり橋の向こうに国会議事堂が見える。立派な建物だが夜景の衝撃はない。


マーチャーシュ教会と漁夫の砦にバスで向かう。


階段の下でバスを降りて漁夫の砦への階段を登る。


砦の前にはハンガリー初代国王・聖イシュトヴァーンの騎馬像。台座には彼の生涯が浮き彫りされている。


マチャーシュ教会は13世紀に建てられた聖母教会が、15世紀マチャーシュ王の時代の大規模に改築されてマーチャーシュ教会となった。


ジョルナイ製のカラフルなモザイク屋根


中に入ると、西ヨーロッパの教会とは装飾が異なり、イスラムの影響がある。


床、壁、天井に細かなマジャル模様が描かれている。


紋章の中央右に、ブラチスラバで見かけたスロバキアの紋章にあった複十字が描かれている。
複十字は第1回十字軍に参加したロレーヌ公ゴドフロワ=ド=ブイヨンが盾の紋章に使用し、平和のシンボルとされ、ナチスドイツに抵抗した自由フランスのシンボルや、現在では結核予防運動のシンボルマークになっている。


ステンドグラスの色が鮮明だ(写真よりずっと鮮やかなのだが)。


聖書の物語でなくやはり幾何学模様だ。


写真よりもっともっと衝撃的な色だったのだが。


マーチャーシュ1世夫妻(??)の墓


2階のステンドグラスの前のエリザベート皇妃の像


美貌で有名なエリザベート皇妃はオーストリア=ハンガリー帝国皇帝のフランツ・ヨーゼフ1世の皇后。


柱も何本もの柱が束ねられているかのような構造で独特だ。

 

漁夫の砦の階段を登り、ブダペストの街を眺める。


北側(川上)にはドナウ河の中州のマルギット島とその手前のマルギット橋が見える。


対岸のペスト地区には国会議事堂。


南側(川下)には、くさり橋。


南側には漁夫の砦が広がり、


さらに右に振ると、マーチャーシュ教会が。


逆側、北側にはホテル・ヒルトンがあり、13世紀のドミニコ会修道院の遺跡が保存されている。

次回は、その後バスで行った英雄広場や、午後のヴァーツィ通り散策のご報告。

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ドナウ河クルーズ (15) ブダペスト夜景

2015年11月11日 | 海外

 

8日目夜、ハンガリーのヴィシェグラードを出港し、ブダペストに19:30頃入港した。

ドナウ河を南に下る。マルギット橋とブダペストの夜景が見える。
マルギット橋はブダ地区とペシュト地区を結ぶ橋で、ドナウ河の中州・マルギット島をまたいでいる。
橋の向こうに国会議事堂が見える。

 


ペスト側(東側)に絢爛な国会議事堂が見えてきた。長さ268m、幅123m、部屋数691という。


たまにはかっこつけて「月と国会議事堂」


近づくと豪華さが際立つ。

 

ブダペストのシンボル、くさり橋が見えてきた。


ブダ側(西側)の丘の上にはマーチャーシュ教会と漁夫の砦


くさり橋が近づく。19世紀半ばに架けられた橋で、主塔に架けられたロープが自転車のチェーン鎖のようになっていることからセーチェニくさり橋と呼ばれる。


くさり橋の向こう側に王宮が見える。


ブダの丘に悠々とそびえる王宮。最初に城が建てられたのはモンゴル来襲でエステルゴムから宮廷を移した13世紀半ばだが、現在の姿になったのは20世紀初頭で、ハンガリー国立ギャラリー、ブダペスト歴史博物館、セーチェニ図書館などになっている。


さらに南へ下ると、エルジェーベト橋が見える。


ブダ側のゲッレールトの丘の上の砦・ツィタデラの東端に両手にヤシの葉を掲げて立つ自由の像が見える。ファシズムと戦って戦死したソ連兵の慰霊碑だ。


右端の丘の中腹の半円形の建造物の手前の像は、キリスト教を伝道し暴徒によりワイン樽に生きたまま詰められてここからドナウ河に投げ込まれた修道士ゲットールトの像だ。

このままブダペストに停泊、宿泊し、翌日、9日目はブダペスト市内観光。

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ドナウ河クルーズ (14) ハンガリーのヴィシェグラード

2015年11月10日 | 海外

 

8日目の午後。

エステルゴム大聖堂見学後、11:30帰船。船はエステルゴムを出港し、”ドナウの曲がり角”をクルーズ。

このあたりの河岸は高級住宅地風。


315mの山頂の要塞跡と、麓の六角形のシャラモン塔が見えてきた。要塞跡の右の尾根に見えるのがホテルシルヴァヌシェだろうか。


要塞は13世紀半ばに建てられ、建て増しされ、度重なるトルコの襲来にも耐えたが、1703年に起きたハプスブルグ支配からの解放戦争で破壊された。


麓のシャラモン塔は高さ31m、壁は8mもある。ドナウから攻めてくる敵を見張る砦で、現在は博物館。

13:00にヴィシェグラードに入港。


ヴィシェグラードでドナウ河が大きく曲がっていることがわかる看板。

まず、王宮跡を見学。
最初の城は1330年頃カーロイ1世によって建てられ、


現在の城跡はマーチャーシュ王が15世紀半ばに建てたもので、


オスマン・トルコとの戦いで破壊され埋もれてしまった。


1934年に発掘、復元された。

王宮跡を見学後、バスで坂を上り、要塞跡を眺め、


ドナウの曲がり角を見下ろし、


ヴィシェグラードの丘のホテル・シルヴァヌシェ SILVANUS のカフェでティータイム。
ドナウの曲がり角を上から見下ろした。


写真を撮っていたら、ホテルの人にビュウーポイントだと連れていかれた。ところが、手前の屋根が邪魔。


ケーキは美味しいが、大きすぎ。


相方のクレープも「どてーっ」と。

夕飯のハンガリー料理が少しだけしか食べられなかった。

当初予定では明日朝5:30にヴィシェグラード出航だったが、入船後すぐに出航したので、ブダペストの見事な夜景を見ることができた。
次回は8日目19:30頃からのブダペストの夜景。

9日目朝はにハンガリーの首都ブダペストで最後の観光。
10日目はブダペスト空港からフランクフルト空港経由で成田へ飛ぶ。

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ドナウ河クルーズ (13) ハンガリーのエステルゴム

2015年11月09日 | 海外

 

8日目。5時にスロバキアのコマーノを出港し、8:30にハンガリーのエステルゴムに入港。

スロバキアとの国境を流れてきたドナウ河はここで向きを変えてハンガリー国内に入る。


イシュトヴァーン1世が997年に初代ハンガリー王となり、以来エステルゴムはハンガリーの都であった。
しかし、13世紀のモンゴル襲来で壊滅しブダへ遷都したが、1715年からカトリック総本山がエステルゴムに置かれ、以来宗教上の重要都市になった。

バスでエステルゴム大聖堂へ向かう。駐車場で降り、目の前の建物の手前の階段を登るこもとできるのだが、当然、建物の中のエレベーターで写真の屋上にでた。


建物はワイン貯蔵庫を改造したレストラン。


エステルゴム大聖堂は霧の中だった。


1000年頃、ハンガリー国王イシュトヴァーン1世により建設されたが、火災やトルコ軍により破壊。現在の大聖堂は1869年に完成した。
帰りには、多少霧が晴れてほぼ全容が見えた。


大聖堂の中は豪華。本祭壇の絵はマリア昇天。


円天井が光を取込んで教会特有の暗さがない。そのかわり、外の光で輝くステンドグラスもなかったと思う。


左右の祭壇も立派。


後方にはパイプオルガン。


大聖堂内のバコーツ礼拝堂は16世紀初めのルネサンス時代に赤大理石を用いて建設されたもので、ルネサンス期の建築物としてはイタリアを除く全ヨーロッパのなかで最古。
トルコ軍の襲来前に1600のピースに解体して保管し、大聖堂再建時に組みなおした。


1856年のミサで 「エステルゴムのミサ」 という曲を書いて実際に演奏したリスト・フェレンツの記念碑。


骸骨。たぶん聖人のものだったと思う。


16世紀にトルコ軍の襲来で破壊されていた王宮跡を今世紀に発掘し、博物館とした大聖堂の隣の建物。


教会の展望台からはエステルゴムの街や、ドナウ対岸のスロバキアのシュトゥロヴォが見渡せるはずだったが。

 

11:30帰船後、エステルゴムを出港し、船内での昼飯中に、船は”ドナウの曲がり角”をクルーズし、13:00にヴィシェグラードに入港。


8日目午後はヴィシェグラード観光。

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