hiyamizu's blog

読書記録をメインに、散歩など退職者の日常生活記録、たまの旅行記など

帝国ホテルの思い出

2024年12月30日 | 昔の話2

 

帝国ホテルと言えば、内幸町に本社があったので、本社出張の時には、有楽町で降り宝塚の前を通り、帝国ホテルの裏から入り、正面玄関から出て、日比谷通りから本社に入ることが多かった。要するに通り抜け利用だ。

 

また、晴の日のちょっとした空き時間は日比谷公園のベンチで過ごし、雨に日か時間がかなりある時は帝国ホテルのロビーでよく時間潰しや、資料確認をした。飲み物などを頼まないといけない喫茶部分には入った覚えがない。「ホテルのロビーもいつまで居られるわけもない」という中島みゆきの「悪女」の歌の一節を気にしながら。

 

 

もう半世紀前のこと、デートの帰り道、帝国ホテルの上の方の階にあったカフェ?で一休みした。
彼女はケーキと紅茶だったか忘れたが、私はなぜか初めて食べる牛タンを頼んだ。私は「牛タンって牛の舌だろ?」と箸で突いて観察。おそるおそる舌でゆっくり味わっていると、急に牛の舌とからまっている気分になってしまった。慌てて飲み込み、それ以上食べる気になれなかった。

 

そんなことを数十年後に相方に話していると、「あの時、係りの人が近づいてきて、『宿泊されるならチェックインしますが?』って、言ってきたのよ。帝国ホテルでもあんなこと言うのね」と嫌そうに話した。

え! そんなことあったのか、今初めて知った。僕、牛とキスしてたので、まったく気づかなかった。

 

 

東京、あるいはその周辺に80年近く住んでいる私達は、都内のホテルに泊まることはめったにない。ホテルは違うが前回都内に泊ったのは50年前の結婚式後だった。50年後の金婚式に、昔々相方の祖父が総料理長を務めていたということで、帝国ホテル、しかも特別階に泊まったのだ。

次回の都内宿泊はさらに50年後??

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

純白のドレス(再掲)

2024年02月26日 | 昔の話2

 

昔の我がブログを見ていて、「そうそうそうだった」と思いだした。もうほぼ20年前の事だが、今も目に焼き付いている光景がある。(2007年1月6日の再掲

 

二俣川駅から徒歩15分ほどのところにある「こども自然公園」(通称 大池公園)に行った時のことだった。

 

 

横浜の子ども自然公園の小山を降りていくと開けた広場があり、芝生の上にシートを敷いて幾組かの家族がお弁当を広げて談笑していた。広場を少し降りたところに小川があり、2,3人の子どもが遊んでいた。ザリガニでも探しているのであろうか、ズボンのすそをまくって、かがみ込んで棒で岸辺を突いている。きれいな小川なのだが、そのあたりだけ水はもったりとしていて、どろどろだった。

 

ふと見ると、純白のきれいなドレスを着た女の子が混じっている。4歳ぐらいであろうか。結婚式で花嫁のドレスのすそを持っている、あんな美しい白いドレスである。しかし、なんと、胸の辺りまで泥が跳ねていて、すそは泥水の中にある。純白と泥色のコントラストが生生しい。

 

そのとき、駆け寄ってきた母親の悲鳴が聞こえた。「あなた!何しているの!」
女の子がギョットして母親を見上げ、その視線をたどって、両手を広げて自分のドレスを眺める。そして、初めて自分でも事態を把握し、両手を広げた姿勢のまま、凍り付いた目が母親に釘付けとなる。
そのおびえた目を見て、母親も周囲を気にして、「もうー! 代えの洋服だって持ってきてないのよ。どーするの!」と少しだけ抑えた声で嘆く。

 

傍らの妻が「泥ってなかなか完全には落ちないのよね」とつぶやく。私にも母親の嘆きももちろんわかるが、ついつい泥遊びしてしまった子どもの気持ちもわかる。

 

女の子だって、おそらく最初は小川で遊ぶ男の子達を見ていて、今日はよそゆきだから岸辺で見ているだけにしようと思ったのであろう。しかし、楽しそうに声を立てて遊ぶ子ども達に誘われ、すそを持ち上げて少しだけ水に入り、そしていつの間にか、・・・・・。

 

いまだに目に焼きついた、あのあまりに鮮やかな純白のドレスと一面に跳ね上がった泥。
あの子は今? そして、あのドレスは一体どうなったのだろうか?

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スキーと温泉の思い出

2024年01月03日 | 昔の話2

 

若い頃親しんだスポーツと言えば、夏はテニス、冬はスキー、春秋はゴルフだった。とくにスキーにはハマった。シーズンになるのを待ちきれず、当時所沢にあった室内スキー場の開場日、11月1日に毎年駆けつけ、足慣らしをした。冬になると会社の階段を、ストックをついてスキーで滑る格好で降りて、イメージトレーニングしたものだ。
スキー場でも朝早くからナイターまで一日券を買って滑りまくった。不格好でも、ともかく転ばなければいいのだろうと、ゆるやかなゲレンデは避けて、急斜面を求めて挑戦する日々だった。あのころは、シーズン中、合計20日以上、上越、志賀、蔵王や、八方などのスキー場で過ごした。仕事していたのだろうか?

30歳も近くなり、どんな急なところでも、それなりに滑り降りることができるようになると、さすがにガツガツ滑らなくなり、朝遅く宿を出て、昼休みをたっぷり取り、3時ごろにはゲレンデ下の喫茶でのんびりするようになった。

 

そして、はや半世紀前になってしまったが、あの5月の連休、八甲田山での山スキーが独身最後のスキーとなった。
友人と2人で八甲田山の麓の酸ヶ湯(すかゆ)温泉に宿泊した。朝9時ごろ宿を出て、スキーを担いで、5月上旬でもまだ一面の雪景色の八甲田山へ登る。2時間くらいただただ登る。
いやになって、適当にこのあたりでよかろうとスキーを履いて滑り出す。ところどころにある立ち木を避けながら、滑る。表面だけが硬くウインドクラストしていて、強く踏込まないとテール(スキー板の後ろの部分)が落ちず、曲がれない。ジャンプしてドスンとばかり、雪を踏みつけて曲がる。
2時間かけて登って、20分たらずで降りてきてしまうのだから、山登りのご褒美にスキーがついているようなものだ。午前中一本、午後一本がせいぜいで、3時ごろにはもう宿の温泉に浸かっていた。

 

江戸時代から湯治場として有名な酸ヶ湯温泉には、総ヒバ造り、木造の高い天井の建物があって、中に大浴場「ヒバ千人風呂」があり、160畳の広さに熱の湯・冷の湯・四分六分の湯・湯滝など4種の源泉がある。
一番大きいのが、入口を入ってすぐのところの「熱の湯」だった。当時は時間分けもない混浴だったのだが、女性は地元のお年寄りばかりだった。たまに湯船の端の方に中年の女性が居ても、ガーゼ生地のじゅばんのようなものをはおっている。

 

混浴とは言ってもどうせそんなものだろうと思っていたら、突然、女性の明るい声がした。振り返ると、髪が長い男性と話しながら若い女性が湯船に近づいてくる。2人とも当時はやりのヒッピー風だと思えた。女性は前をまったく隠さずあっけらかんと歩いてきて、湯船の縁に腰掛ける。熱の湯の男性が一瞬凍りついた。私はたまたま湯船の入口側に居たのだが、向こう側の湯船のへりにずらりと並ぶ男性陣がびっくりまなこで入ってくる女性を見た後、あわてて目をそらす。そして、だれもかれも、左右に目を泳がせてから、一瞬途中で女性を見て、またあわてて目をそらし、無関心をよそおう。私は、女性を見るより、向こう側の男性たちがそろって同じしぐさをするのを眺める方が面白かった。しかし、かくゆう私も向こう側に居たならば、きっと彼らと同じことをしたのだろうが。

そして、齢をかさね80歳を過ぎた今だったら、……「ウーン、やっぱり……」。

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

停電の夜に

2023年09月07日 | 昔の話2

 

最近はめったに停電することはないが、昔は何かとよく停電したものだった。

私が小学生の頃だった。ラジオが台風は東京を直撃すると叫んでいる。夕方はやばやと雨戸を閉め切って、家族三人、居間に集まっている。父はラジオに耳を傾け、母はつくろい物に精を出し、私は寝転んで本を読んでいる。まもなく、風がヒューヒューと音をたてて強くなってくる。揺れてぶつかり合う木々の悲鳴が絶え間なく続く。かたまりとなった雨が雨戸を激しく叩き、外れるかと思うばかりガタガタと大きな音をたてている。

 

天井の蛍光灯がチカっとして、スーと消えた。やはり、停電になった。母が「あら」と言って、何事もなかったかのように手慣れた様子で、ぼんやりとしか見えない薄明りの中、後ろの茶箪笥の引き出しを開ける。取り出した大きなローソクとローソク立てをこたつ板の上に置いて、マッチで火をつける。居間の中心部だけ、ボオーと光が広がり、風でゆらゆらと揺らぐ。天井の光の影がいたずら坊主のように踊っている。

 

ローソクの光の届く小さな輪の中に、父と母と僕が集まっている。夜が進み、いっそう闇が濃くなっても、揺らめいて消えそうなローソクの光のもとに3人はひっそりと身を寄せ合う。あのとき、何かしゃべっていたのだろうか? 記憶は全くないのだが、3人とも押し黙っていたのではないかと思う。
激しく渦巻く風と雨、騒がしい外の音もなぜか気にならず、互いに気づまりでもなく、なんとなく暖かく感じる。この世には3人しかいないような気がした。これが家族なんだと思った。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の戦争体験

2022年01月17日 | 昔の話2

      

終戦時、2歳だった私に直接の戦争体験はありません。しかし、物心ついた後も、親や親戚、あるいは近所のおじさんなどから、屋根に落ちた焼夷弾を引っ張り下ろした空襲の話や、陰湿ないじめを受けた軍隊の話(*1)を聞かされました。
また、身の回りにはまだ戦争の傷跡がくすぶっていて、我家の庭には防空壕の埋め跡があり、都心の駅には戦災孤児(*2)がたむろし、街では進駐軍の軍人(*3)、電車には傷痍軍人(*4)がいました。ラジオでは引き揚げ船(*5)情報、尋ね人の放送(*6)がありました。

 

私の家は借家だったのですが、立派な門と玄関があり、乞食や押し売り(*7)などがたびたび押しかけてきました。そしてなにより、空腹(*8)が敗戦を常に実感させていました。

 

以下、年寄が昔を懐かしんでいるだけの話ですが、戦中戦後の労苦を知らない人や、遠い想い出になった人は、是非一度以下の施設を訪ねてください。

  • 兵士、戦後強制抑留者、海外からの引揚者の労苦についての展示がある(新宿住友ビル33階の「平和祈念展示資料館
  • 戦没者遺族、戦中・戦後(昭和10年~30年頃)の国民生活上の労苦についての展示がある九段下の「昭和館

いずれも国の施設で、実物資料、映像などでわかりやすく展示しています。

 

 

*1:日本軍の陰湿ないじめ

近所に工業高校を出て大企業の技術者として働く30代のAさんがいました。Aさんは徴集されて陸軍に入ったのですが、そこでは古年兵により初年兵への執拗な私的制裁(陰惨ないじめ)が行われていました。

例えば、初年兵は起床ラッパが鳴ると、毛布をきちんとたたんで整列し、毎朝古年兵の検閲を受けることになっていました。その時に毛布がきちんとたたんでないと、毛布をグチャグチャにされて、往復ピンタを受けてしまうのです。毎回、きちんと毛布をたためずに、ピンタを受ける男性がいました。Aさん曰く、「あんなもの、端だけ揃えてたたんで置けばいいのに、大学出ててもまったくどうしようもないよ」と笑っていました。
要領の悪い人は、悲惨な目にあっていて、一度にらまれると毎回古年兵のうっぷんはらしの的になっていたのです。

私の叔父さんは、大学出て、どうせ徴集されるのだからと、志願して入隊しました。叔父さんの場合は、すぐに将校になることが決まっていたので、二等兵のときもいじめられることはなかったと言っていました。

 

*2:戦災孤児

戦闘や戦災(爆撃による火事)で親を失った子供(戦災孤児)も多く、浮浪児(子供のホームレス、ストリート・チルドレン)と呼ばれた。私も上野の駅の近くの地下道の暗がりで、じっと私の目を見据えた、ギラギラした目の浮浪児を見たような記憶があります。あの子たちは今?

 

*3:進駐軍

敗戦国日本に進駐した連合国軍の俗称。実質的にはアメリカ軍で、占領軍なのだが、進駐軍と呼ばれた。

 

私が3、4歳だろうか、母に手をひかれて銀座を歩いているとき、進駐軍の兵隊さんが、「Oh!Baby! 」とか言いながら、突然私を抱き上げ、高い高いをしたという。母は、ただオロオロ、オロオロ。

 

私は子供の頃、しょっちゅう明治神宮内苑の金網にしがみついて、よだれを垂らしてワシントンハイツ(現在代々木公園)を覗いていました。芝生が広大に広がる中にポツンポツンと米軍の将校の瀟洒な宿舎が建ち並び、異次元のアメリカがそこにあったのです。
また、明治神宮の宝物殿前の芝生には、人前を気にせずに、日本人女性の上に重なりじっと動かない米兵が居て、その何かあまりにもあからさまな奇妙な光景をいまだ思い出します。

 

*4:傷痍軍人

戦闘などで大きな傷を負った軍人など。手足などを失った元軍人は仕事に就けず、国立療養所などで過ごし、ときに都会の人通りが多い所や、祭りなどに出てきて、通行人から金銭を貰ったのです。
私が覚えているのは、手や足が無い姿で、白い服を着て、首から前に寄付金を入れる箱をぶら下げて、駅前に立っていたり、電車内を移動しながら、寄付を募っていた姿です。

 

私のいる車両に入ってくると、まず一礼をして、大きな声であいさつします。大人は黙って目を背けています。私は、子供心にもなにか重苦しいものを感じて、「あの人何?」と聞くのもはばかられました。
街角にも、手や足のない人が自らの傷をさらし、白衣を着て、アコーディオンを奏でながら、募金箱の前で頭を下げる姿をよく目にしました。私も、痛ましいと思う一方でなんとなくわざとらしくも感じたものです。

戦死軍人とともに年金が交付される「戦傷病者戦没者遺族等援護法(援護法)」が1952年、講和条約発効の2日後に成立し、やがて傷痍軍人は街から消えていきました。ただし、在日朝鮮人などの傷痍軍人にはまだ戦後の補償がされていないそうです。

 

*5引き揚げ船

引き揚げというのは、戦争中に外地(満州、台湾、朝鮮、南洋諸島など)に取り残された軍人、一般人を日本に帰還させること。軍人が約350万人、一般人が300万人いたが、4年間で99%が帰国したとウィキペディアにありました。

舞鶴港は引き揚げ者の約1割の約66万人が上陸しました。新聞の一面に、たくさんの帰国者が港についた船から身を乗り出している写真があったのを覚えています。
「母は来ました今日も来た この岸壁に今日も来た」ではじまる二葉百合子の歌「岸壁の母」は、引き揚げてくる息子を舞鶴港で延々と待つ母を歌った歌なのです。

しかし、満州、朝鮮などからの帰還途上では飢え、幼い子どもとの生き別れなど多くの困難がありました。また、無事日本へ帰国できても、引き揚げ者は、1000円の現金とわずかな荷物しか持ってこれなかったので、海外にあった財産のほとんどを失い、0からの再出発となったのです。「引揚者」という差別もあったと聞きました。

 

*6:尋ね人の放送

戦災で家を焼かれ、家族がばらばらになった人、外地から帰還し、焼け野原で家族を探す人などが多くいました。
子供の頃、昼間の決まった時間だったと思いますが、ラジオで尋ね人情報を放送していました。「昭和○年ごろ、○○町にいた○○さん」とか、「○○中学○年卒業の○○さん」などと、次々延々と単なる尋ね人情報が読み上げられ、情報のある人はNHKへ連絡するという番組でした。私は、子供だったので、世の中とは家族も知り合いもいつの間にかバラバラになり、尋ね人の放送があるのが普通の状態だと思っていました。昭和21年から10年間も続いたのです。

 

*6:戦災孤児

空襲や戦死によって両親を失ったこともが戦災孤児です。国もまだ混乱していて、「浮浪児」という言葉でわかるように、なんら保護政策がとられなかったのです。生きるために路上生活し、靴磨きなど一人で働くか、徒党を組んで悪さをしていました。

 

*7:乞食や押し売り

人通りの多い道路の脇にボロボロの洋服を着て、座り、前に帽子やお椀などを置いて物乞いをする人をよく見かけました。当時は、個人の住宅を回って、お金をせびる人たちもいました。
現在は軽犯罪法で禁止されているためなのか、今はほとんど見かけません。

 

押し売りとは、突然玄関に上がり込み、ゴムひもなどを高い値段で売りつけることです。「刑務所から出て来たばかりだ」などと主婦を脅してわずかでも金を得ようとする男がかなりいました。

 

*8:空腹

私は終戦時2歳半。戦後直後のかすかな記憶の中で、一番強烈なのは、食べるものが無く、いつも腹をすかしていたことです。日本中が食料難でしたが、田舎を持たない東京人で、貧乏家庭であったから、より悲惨な状況でした。

ふかしたサツマイモや、おすましにうどん粉を落としたスイトンが主でした。普通のお米(白米)はなく、たまに細長いタイ米がグリーンピースの中に混じったり、たっぷり薄めたおかゆになって出てきました。おかずはおからが多かったと思います。魚も珍しく、肉などついぞお目にかかりませんでした。おから、おからと続き、口の中がパサパサしてくるので文句を言うと、「あら、おからは栄養があるのよ」などと言われました。今なら親がいかに苦労していたか、わかるのですが。そういえば、おからで廊下磨きもよくやらされました。

我が家でも現在、本当の厳しい食糧難の時代を知らない奥さんは、時時、人参など混ぜて体裁良く作ったおから料理を出してきます。美味しい、不味いではなくて、私は食べる気にならないのです。

鯨が唯一の蛋白源で、毒々しい赤色に染まった鯨のベーコンが美味しかった。鯨肉もときどき食べました。私の身体の芯は鯨で出来ていると思っています。資源管理は必要ですが、捕鯨は禁止すべきではありません。鯨を食べる日を作って、あの時代を思い出し、鯨に感謝と功徳を捧げたい。

 

米穀手帳というのをご存じですか?
戦後お米は極端に不足していました。1941、42年からお米が配給制になり、このとき各世帯に交付されたのが米穀台帳で、正式には米穀配給通帳といいます。廃止されたのはつい最近の(?)1981年です。
米穀通帳には、氏名、住所、家族構成などが書かれていて、これがないと米屋で米を買えないという大切なもので、今の健康保険証や自動車免許証のように身分証明書代わりだったのです。
この時代には、個人が直接農家の方からお米を買うことは、ヤミ米といって食糧管理法違反という犯罪だった。ヤミ米を食べることを拒否して餓死した検事さんが居ました。配給だけでは当然足りないのでヤミ米が出回り、農家から米を買って都会へ持込むかつぎ屋がいました。かなり年とったおばさんが百キロはあろうかという荷物を担ぎ、何人も電車に乗っていました。
ときどき警察の手入れがあり、電車から没収されたお米がずらりと積まれ、おばさん達が並んでいる光景を覚えています。それでもまた買い出しにでたのですから、たくましい時代でもありました。

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フジヤマのトビウオ 

2021年02月02日 | 昔の話2

 

オリンピックについての私の最も古い思い出は1952年(昭和27年)のヘルシンキ・オリンピックだ。陸上5千・1万メートルとマラソンに優勝した人間機関車ザトペックの苦しそうな顔も忘れられないが、何と言っても世界記録を33回も更新した古橋の惨敗が心に刻まれている。

 

1948年のロンドン・オリンピックに敗戦国日本は参加を認められず、日本水連は、オリンピック当日に全日本選手権を開催した。古橋は400、1500メートルで金メダル以上のタイムを出し、世界新となるタイムだったが、日本が国際水泳連盟から除名されていたため公認記録にはならなかった。1500メートルでは、なんと40秒、60メートル以上の差をつけたという。古橋は自信喪失の日本国民のヒーローになった。

 

さらに翌1949年、ロサンジェルスの全米選手権に招かれた日本競泳陣は世界一のアメリカに圧勝した。古橋は400・800・1500メートルに驚異的な世界新で優勝して、「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた。満足な食べ物が無い時代にサツマイモを食べて世界記録を次々と出したのだ。米国でも人気となり、当初のジャップからジャパニーズと呼ばれるようになった。

 

しかし、1952年、当時9歳の私は古橋の金メダルを信じ、遥かヘルシンキからのアナウンサーの声が大きくなったり、小さくなったりする短波ラジオに耳を押し付けていた。古橋はいいところなく800では8位に終わり、1500では決勝にも残れなかった。金はアメリカのコンノで、銀に橋爪が入った。後にニュース映画で見ると、あのぎこちないが力強い古橋のファームが、ただギクシャクとしているように見えた。選手生命のピークを既に過ぎていたのだ。

 

しかしながら、全米選手権でアメリカを驚嘆させ、絶望的に貧しく自信喪失していた当時の日本人に希望と誇りを与えてくれたフジヤマのトビウオに感謝したい。その後、1964年の東京オリンピックに向けて一気に繁栄に走り出す日本の礎になったのだと思う。

 

ただ、今この先が見えない時代となって、古橋の全盛時代を実感していない私には、あの時のズルズルと遅れていく古橋の姿がどうしても忘れられないのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

忍者HとチャランポランテニスのK

2020年06月18日 | 昔の話2

もう50年ほど前になってしまったが、私が新入社員でテニスしていた頃の話だ。大学の同級生A、Bとスキーに行った。AとBは同じ会社に勤めている。ケーブルカーの中でテニスの話になった。

私がご披露した。

「うちの会社にテニスのやけに上手い人がいて、Kさんって言うんだけれどさ。チャランポランにやっているように見えるんだけど、すごく強いんだよ。運動神経が抜群なんだね」

「うちの会社にもHさんっていう人がいて、めちゃくちゃ上手いぜ」とAも言う。

「でもKさんって全日本クラスだぜ」

「Hさんも多分そうだと思うよ、なあ」

Bも「なにしろ忍者Hっていうあだ名なんだから。まず、そこらへんのやけに上手い人といっても相手にならないんじゃない」

「いやあ~、上手いと言っても素人だろ? Kさんは桁が違うよ」と二人に負けそうな私もやり返したが、子供の喧嘩みたいで当然決着は着かず、双方に若干のわだかまりを残してそのままになった。

 

翌年、また同級生A、Bと泊りがけのスキー旅行に行った。そのとき、噂していたHさんを連れて来た。Hさんはスキーは全く初めてで、最初こそ私が手ほどきしたが、その日のうちに、何とか一人で問題なく滑れるようになっていた。一芸に優れている人は他のスポーツもすぐ上手くなるのか、翌日にはスイスイ滑っていた。宿でもとくにテニスの話をした覚えはないが、ワイワイ楽しく4人で宴会になった。

 

さらに数年後の話だ。私は会社のテニス部に入っていて、下手なのでほとんど活動していないのだが、夏のテニス部合宿が軽井沢であると聞いて、参加することにした。なにしろ、皇太子と美智子さんのテニスの話の余韻が残るころの話だ。

夜、宿に総勢30人ほどが集合し、皆の前にKさんが立って、ガイダンスを始めた。

「今回は大変人数が多いので、私一人で手が回らないので応援を頼みました。指導してくれる私のテニス仲間を紹介します。では、どうぞ」

登場した人を見て、驚いた。

思わず皆の後ろの方から立ち上がって、叫んだ。「Hさんじゃないの!」

Hさんも「冷水さん? どうして?」とびっくりしている。

宴会になってから、Kさん、Hさんに、同級生とスキーの時、二人を互いに自慢し合った話をして笑った。

 

合宿中、KさんとHさんの模範試合が行われたが、二人は互角に見事なプレーを披露した。Kさんの一見いい加減だが、手首を効かせた意外性あるプレーに比べ、Hさんは教科書風の理想的な綺麗なフォームで対抗した。

 

「Kさんが強い、いやHさんだ」と子供の喧嘩みたいに、言い合っていたが、考えてみれば、本当に全日本クラスのテニスプレーヤーであれば、そんなに多くいないだろう。互いに知り合いである確率は高かったのだ。

偶然の出会いと思ったが、半分必然の出会いだったのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ソーメンに想う 

2018年08月18日 | 昔の話2

 

 

昼にソーメンを食べながらの夫婦の会話。

「ソーメンもたまに食べるとうまいね。子供の頃は味もボリュームもないので嫌いだったな」

「そうね。夏の昼というといつもソーメンが出てきていやだったわね」

「なにしろデンプンそのもののソーメンがドーンとあって、あとはつゆとキュウリを細く切ったのがあるだけ。若い者の食べ物じゃないよな」

「うちは卵の薄切りが付いていたわね。ミョウガが付くこともあったわ」

「ミョウガは禁止だ」

「え! 何で?」

「我が家のトイレの汲み取り口の傍にミョウガが生えていたんだよ。いまだに思い出して食欲がなくなるんだ」

「買ったものはちゃんと畑で作ってるんでしょうに変な人ね。だけど、ソーメンも今はけっこうおいしいわ。歳のせいかしらね」

「好みも変わったし、ソーメン自体も美味しくなったんじゃないかな」

 

学生時代、家で過ごした夏休みは、ただただだるくいつまでも続くようでした。ゴロゴロと過ごし、起き上がっては食べるソーメンは、あのまったりした夏休みの象徴だったような気がします。

しかし思えば、夏休みになるとおふくろは近所のバイト先を抜けだして私の昼飯を作りに家に帰って来て、食べ終わり、片付けをするとまたバタバタと働きに戻るのでした。ソーメンくらいなら自分でも作れるはずなのに、「またソーメンか」と露骨にいやな顔をした自分を許せないと思い、半世紀を経た今頃、切なくなってしまうのでした。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

むかしむかし、笑ったこと、笑われたこと

2018年03月24日 | 昔の話2

 

 

親父は明治生まれの九州男児で、冗談など言うことはなかったが、一つだけ覚えている。

一軒置いた隣で葬式があり、続いて隣でまた葬式があった。今月は臨時出費が痛いと嘆く母に、任せとけとばかりに親父が言った。

「こんどは俺が稼いでやる」

 

幼いころ母に手を引かれて買い物に行った。パン屋さんに入ると、奥から小母さんが真ん中に大きな染みがある前掛けで手を拭きながら出てきた。少しこごんで僕の顔をのぞき込みながらニコニコして言った。

「僕! まだおっぱい飲んでいるんでしょう」

憤然として僕は言った。

「ちがうわい! 触るだけだわい」

この話、よくは覚えていないのに、母から何回も聞かされているうちに、なんだか情景まで目に浮かぶようになってしまった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

むかし、むかし、トイレでは

2018年03月20日 | 昔の話2

          

 

 昭和20年代、住んでいたのは東京の山の手だが、我家のトイレは和式で汲み取り式だった。ときどき汲取人が来て、裏庭にある汲取り口の蓋を開け、ひしゃくで掬い取っていった。やがて、石油のタンクローリーのようなバキュームカーが来て象の鼻のような太い管を汲み取り口に差し込み、ポンプで汲み取っていくようになった。この蓋のわきにミョウガが生えていたので、いまだにミョウガを食べる気になれない。

トイレのドアを開けると男性用トイレがある。その先の扉を開けると和式便器がある。臭くないように使用後は、板につまみのついた木製のカバーを便器にかぶせる。トイレには竹で編んだ籠があり、中に二十センチ位に切った新聞紙が積み重ねてあった。そのままでは硬いので、これをよく揉んでから拭くのであるが、揉みすぎると破れてしまう。今考えると、多分お尻は黒くなっていたのだろう。

やがて、トイレが水洗になった。といっても天井に近いところに水のタンクがあり、そこから垂れている鎖を引いて水を便器に流す水洗式和式トイレである。その頃だろうか、新聞紙がちり紙に代わった。

ちり紙とは、鼻をかんだり、お尻を拭いたりするための専用の紙で、薄くいかにも安そうな粗末な紙で、あらかじめ裁断して売られていた。柔らかくするためにただ単に薄くしたようで、密度が均一でなく、ところどころ向こう側が透けて見えるものもあった。やがて、薄く柔らかいものや、はじめからシワシワになっていて、より柔らかい化粧紙と呼ばれるものも登場した。

庶民の家でも多くのトイレが洋式になる頃、紙はロールのトイレットペーパーになりトイレからちり紙とハエが消えていった。箱からティッシュペーパーをパッと取ると、次のティッシュペーパーが顔を出し、次々、パッパッと紙を取り出すTV・CMを覚えているだろうか。急速にティッシュが普及し、家庭からちり紙が消えた。

1980年に温水洗浄便座が発売され、1982年には、「おしりだって洗ってほしい」のCMが話題となり普及が進んだ。現在普及率は六割に達するという。ただし、熱風で乾燥させるには時間がかかり、依然トイレットペーパーも利用されている。なお、私は海外滞在用に電池で動く携帯型のトラベル・ウォシュレットを購入したが、いちいち面倒でほとんど使っていない。

さらに余談を一つ。

大正天皇の別荘を見学したときに、畳の部屋の真ん中にポツンと木製の椅子があった。お尻のところに穴が開いていて、天皇陛下のトイレだった。椅子の下に箱があり、毎日使用後に医者が成果物を調べて健康診断すると聞いた。さすが天皇陛下。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昔の子どものお手伝い

2018年01月02日 | 昔の話2

 

もう60年以上昔になってしまった私の子どもの頃、昭和25年~30年頃のことなのだが、子どもたちはお小遣いをもらわなくても当然のように親のお手伝いをしていた。

 

雨戸閉め

子供のころの借家には長い廊下があって、雨戸が8枚以上あった。この雨戸の開け閉めが私の役目だった。雨戸はもちろん木製で、戸袋から引っ張り出して、木の溝の上を滑らせる。良くすべるように、溝にはローソクを塗っておくのだが、それでも8枚の雨戸を一遍には押すことはできない。最初の何枚かは、勢いをつけて遠くへ押し出す。それでも5、6枚目で押し切れなくなり、先のほうへ行って、2、3枚だけ、最後まで押していく。締め切った後、最後の雨戸が外から開けられないように、下にある棒を溝の穴に刺し、上部にある棒を上の溝に押し上げ、落ちてこないように止めの棒を横に引いておしまいになる。外が暗くなると、ヨッシャとばかり立ち上がり雨戸を閉める。ちょっとした力仕事なので、男の子の私には好きなお手伝いだった。

 

縁側の廊下の雑巾がけ

だいたいは母が廊下の雑巾がけしていたのだが、ときどきお手伝いした。端から端まで両手を雑巾の上に乗せて腰を立てて足で廊下をけって進む。突き当りまで行って、雑巾を裏返して、戻って来て、バケツで雑巾を濯ぐ。ついつい走るように進むので、これも結構きつい。ときどき、オカラを入れた袋で磨いた。この時は一か所に留まって手の届く範囲を力を込めてキュッキュッと磨く。廊下が黒光りする茶色になり、ピカピカして子供心にも気持ちよいのだが、よく滑るようになって、走って止まるときに危なかった。

 

靴磨き

命じられて、父親の靴を磨く。子供なりに何となく自分の仕事という意識があって、やる気が出る。2足磨き、なんだか物足りなくなり、棚の中の靴も取り出してくる。だんだん熱中してきて、靴がピカピカになると、じっと眺めて、なんだか満足する。気がつくと、手はもちろん、顔まで墨がついてしまっていた。「靴磨き」については、2007年1月11日のブログ「靴磨き」に書いた。

 

 

鰹節削り

大工道具のカンナをひっくり返したような箱の上で鰹節を滑らして削る。ただただ削るだけで嫌になる。もともと小さい鰹節を削るように頼まれたときは、ホクホクだ。もう削れなくなると、母親に「もう削れないよ! 食べていいでしょ」と言う。鰹節の先端の方が透き通ってピンクぽい色になったのを食べるのだ。口に入れてしばらく舐めて多少柔らかくなったのを噛むと、ジワッと味が出てくる。そのまんま噛んで、どんどん味が濃くなってきて、幸せ!

 

毛糸巻き

買ってきたままの大きなループ状の新しい毛糸をボール状に巻き取る。着古したセーターなどをほどきながら巻き取ることもあった。片方の人が両手をループに入れて、スムーズにほどけるように左右にゆっくりゆする。少し離れて座ったもう一方の人がほどけてきた毛糸をボール状に巻き取る。私はループを持つことが多かったと思う。ほどけ具合を見ながら、手を左右にゆするのだが、ときどき2つほどけてしまい、オットトトとなる。

 奥さんの話だと、今は、毛糸は楕円形に巻かれた状態で売っているという。このお手伝いは時間がかかるので、母と私で何か話しながらしたのだろう。どんな話だったか、遠すぎて覚えていない。

 

米とぎ

一升瓶に精米していない米を入れて、棒でつついて精米する。一升瓶を両足で押さえ、少し斜めにして、瓶に突っ込んだ棒で米をザクリ、ザクリと突く。これは主に父の役目で、私はときどきしかやらなかった。かすかに覚えているだけなので、まだ幼いときだったのだろう。2007年9月3日のブログ「米穀通帳」に当時の米事情を書いた。

 

 

掃き掃除

お茶ガラや濡らしてちぎった新聞紙を撒いて箒で部屋を掃くのもときどき手伝った。部屋から廊下に掃き出し、さらに廊下から庭にゴミを掃き出すのだ。奥の廊下の端には掃き出し口があって、小さな引き戸を開けて、ごみを外へ掃き出す。今思えばゴミをただ庭に出すだけでよかったのだろうかと思う。

 

柱時計のネジ巻き

柱時計のネジを巻くのも私の役目だった。踏み台を持ってきてその上で背伸びしながら留め金を跳ね上げて時計の蓋を開ける。振子を止めて、その下に置いてある真鍮の耳のような形のネジを時計のネジ穴に差し込む。ギリギリと何回も廻してゼンマイを巻きあげる。最後の方は巻くのがきつくなるが、巻き上がって止まるまで巻く。ボーンボーンと時を打つハンマーもゼンマイの力で動くのだが、これを巻きあげるネジ穴にも差し込んで巻く。次に、長針を人差し指で進めて時刻を合わせる。最後に振子を動かして、左右に均等に触れているのを確かめ、さらに下で見ている家族に「時計、真っ直ぐになってる?」と聞いて、垂直を確かめる。

そういえば、ふと時計の振子を見た家族の誰かが「あ! 時計が止まってる」などと言うのだから、時間にルーズで、いいかげんだった。それでよかった時代だったのだ。

 

 

そのほか、ポストから新聞を取ってくるなど、いくつか私のお決まりの役目があった。あの頃の子どもは、お小遣いももらわず、当然のようにお手伝いをした。子どもの世界も今よりもっと生活に密着していた。洗濯機も電気釜もなく、主婦は家事で多忙だった。そんな親を見て、当然のようにお手伝し、ちょっと誇らしくもあった。そんな生活の中で親子のコミュニケーションがとれていたのだろう。

今の一見娘さんみたいな母親と異なり、当時の母親は割烹着を着て、髪に手ぬぐいを巻いて、お母さんはいかにもお母さんとすぐ判った。「おはぐろ」はしていなかったが。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八幡様のお祭り

2017年03月06日 | 昔の話2

 

 

 子どもの頃住んでいた所は、代々木八幡宮の近くだった。木々がうっそうとしたちょっとした山になっていて、境内の林の中には、復元された縄文時代の堅穴式住居があった。作家の平岩弓枝の父親が宮司だった。

 

 9月にはお祭りがあり、八幡様の階段の登り口から、お社まで出店がずらりと並ぶ。小学生の頃は、お祭りのときだけもらうお小遣いを握り締めて、出店を端から一つずつのぞき込んでいくのが楽しみだった。居並ぶお店の大半はお菓子やお面などの店だが、なにしろまだ戦後の匂いの残る昭和20年代である、ちっと変わった、というか、いかがわしく、いんちきくさい店も多かった。

 

 先に針をたらした棒が円盤の上で回転するルーレットのようなゲームがあった。針が止まったところに書いてある商品がもらえる。もう少しですばらしい商品のところで止まりそうになるのに、いつもわずか行き過ぎたり、手前で止まったりする。何人もの子供が失敗するのをじっと見ていて、友達と、「あれはきっと板の下に磁石があって、おじさんが当たらないようにしているんだぜ」「インチキだ。止めだ、止めだ」と言いながら、今度こそとついつい見とれてしまう。

 

 実際にがまの油売りもいた。林の中のちょっとした広場で、竹棒で地面に円を書いて、「この線から入っちゃだめよ」と言ってから、「さあさ、お立会い、御用とお急ぎのないかたは、」と、あの有名な口上をはじめる。日本刀を構えて、紙を何枚も切って切れ味を示し、高く放り上げて落下の舞とのたまう。そして自分の腕を切って赤く血が出るのを示す。次に、缶から指にがまの油を取って腕につけ、手拭いでふき取ると、あら不思議、傷口もなくなっている。そしていよいよ、がまの油を入れた小さなカンを売る。最初は「千円だよ、千円!」と言ってもお客さんが互いに顔を見合わせているだけなのだが、取り囲んだ輪の外側から誰かが「一つ頂戴」と言って買うと、何人かが争うように買い始める。一度すべてが終わってからもう一回見ていると、また同じ人が最初に買う。「ほらあれを“さくら”って言うんだぜ」と友達が得意げに解説する。

 

 望遠鏡のような筒状のおもちゃを売っていた。おじさんが言う。「これで見ると、なんでも透けて見えちゃうんだよ」。手の指を広げて、このおもちゃでのぞいて、「ほら、骨が透けて見える」。覗かせてもらうと、確かに手のひらが骨と肉に見える。おじさんが私の耳元でささやいて追い討ちをかける。「女の子を見れば、洋服が透けて見えるよ」。色気が付いた中学に入ってからだったと思う。握り締めて汗をかいた百円玉2枚を渡して、さっそく買った。家まで待ちきれず、帰りがけに「物」を見てみる。なんだか、スカートの周りがぼやけて見えるだけだった。
家へ帰って、腹立ち紛れにすぐにばらしてしまった。目を当てるところに鳥の羽が一枚入っていて、物がずれて二重に見え、周辺がぼやけるだけのものだった。

絶対に騙されまいと思っていたのに、あっさりなけなしの小遣いを巻き上げられて、悔しかった。しかし、考えてみれば、色気づいた中学生の男子をだますのは簡単だ。約60年経った今でも悔しいが、なんだかその悔しさも甘酸っぱくなってきてしまった。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トイレの今昔物語

2017年03月04日 | 昔の話2

    

 

  昭和二十年代、住んでいたのは東京の山の手だが、我家のトイレは和式で汲み取り式だった。トイレのドアを開けると男性用トイレがある。前の窓の下には「しずく垂らすな今一歩」と書いた紙が貼ってあった。右手の扉を開けると和式便器がある。臭くないように使用後は、板につまみのついた木製のカバーを便器にかぶせる。

 ときどき裏口から人が来て、裏庭にある汲取り口の蓋を開け、ひしゃくで汲み取っていった。この蓋のわきになぜかミョウガが生えていたので、いまだにミョウガを食べる気になれない。

 

 やがて、石油のタンクローリーのようなバキュームカーが来て象の鼻のような太い管を汲み取り口に差し込み、ポンプで汲み取っていくようになった。

 

 トイレには竹で編んだ籠があり、中に二十センチ位に切った新聞紙が積み重ねてあった。そのままでは硬いので、これをよく揉んでから拭くのであるが、揉みすぎると破れてしまう。今考えると、多分お尻は黒くなっていたのだろう。

 

 やがて、トイレが水洗になった。といっても天井に近いところに水のタンクがあり、そこから垂れている鎖を引いて水を便器に流す水洗式和式トイレである。その頃だろうか、新聞紙がちり紙に代わった。

 ちり紙とは、鼻をかんだり、お尻を拭いたりするための専用の紙で、薄くいかにも安そうな粗末な紙で、あらかじめ裁断して売られていた。柔らかくするためにただ単に薄くしたようで、密度が均一でなく、ところどころ向こう側が透けて見えるものもあった。やがて、薄く柔らかいものや、はじめからシワシワになっていて、より柔らかい化粧紙と呼ばれるものも登場した。

 

 庶民の家でも多くのトイレが洋式になる頃、紙はロールになりトイレからちり紙とハエが消えていった。箱からティッシュペーパーをパッと取ると、次のティッシュペーパーが顔を出し、次々、パッパッと紙を取り出すTVCМが有名になり、あっというまにティッシュが普及し、家庭からちり紙が消えた。

 

 1980年に温水洗浄便座が発売され、82年には、「おしりだって洗ってほしい」のCМが話題となり普及が進んだ。現在普及率は6割に達するという。ただし、熱風で乾燥させるには時間がかかり、依然トイレットペーパーも利用されている。なお、私は海外滞在用に電池で動く携帯型のトラベル・ウォシュレットを購入したが、いちいち面倒でほとんど使っていない。

 

さらに余談を一つ。

 大正天皇の別荘を見学したときに、畳の部屋の真ん中に木製の椅子があった。お尻のところに穴が開いていて、天皇陛下のトイレだった。椅子の下に箱があり、毎日使用後に医者が成果物を調べて健康診断すると聞いた。さすが天皇陛下。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

空を見るのが好き

2017年03月02日 | 昔の話2

 

 

 空の雲を黙って見ているのが後期高齢者に近づいた今でも好きだ。

 小学生の頃、よく廊下に寝転んで雲が流れていくのをながめていた。変わった形の雲を見つけてじっと見つめる。あまりに変化が遅いので、ボーっと考え事をしていると、そのうち雲は動いていて形も変わってしまっている。吸い込まれるような青空に引きちぎった綿のような雲がゆっくり流れていく。

 

 高校のとき、毎朝、神宮外苑の、当時一面の芝生だった広場を横切って学校へ通っていた。始業時刻までまだ余裕があり、空がさわやかに晴れている朝には、よく芝生に寝転んで空と雲を眺めていた。時々は、寝転んだままで一時間目をサボることもあった。いや、学期の三分の一遅刻していたのだから、時々とは言えない。

 

不来方*の お城の草に寝ころびて 空に吸われし十五の心    石川啄木

 

 長いこと天体観察に興味を持ったことはなかった。ずっと東京近郊に住んでいて、しかも近眼なので、夜空の星をじっと眺めたことがなかった。六十歳を過ぎて、オーストラリアに旅行したとき、大陸南端の昔捕鯨で知られたアルバニーという町に行った。車を飛ばして、夜、宿について駐車場から南極の方向の暗い海を眺めた。ふと夜空を見上げたら、一面、星、星、星だった。まさに降るような満天の星だ。「空にはこんなに星があるんだ」と思った。子供の頃からあんなにしじゅう空を眺めていたのに、あの空の奥にこんなにもたくさんの星があったなんて!

 

 さっそく、現地で求めた星座表を出して照らし合わせると、「あった!」南十字星が。星座なんて人間が勝手に星たちに合わせて物語を作っただけだと思っていたが、じっと見ていると、ほかの星は消えて確かに十字だけが浮かび上がってくる。

 

 星座表をもう一度見ると、ミルキー・ウエイと書いてある。「う?天の川?」首を回して夜空を眺め渡すと、「あった。あれが天の川だ。そうに違いない」

 はじめて見る天の川は、明るい星や、かすかに煙る星が一面に並び、まさにミルクのように埋め尽くす帯のような星の川だった。

しばし、夜空に見とれてたたずんだ。

 

 

*不来方(こずかた)は岩手県盛岡市を指し示す言葉

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雨の記憶

2017年02月26日 | 昔の話2

      

 

 一番古い雨の記憶は私の小学校入学の日だ。母の傘の中で手をひかれて帯び芯で作ったズックのかばんを下げ、隣の隣に住むS君親子と一緒に小学校へ行った。S君の父親は社長でお金持で、彼はランドセルを背負い、ゴム長靴で水たまりをピチャピチャさせていた。ズックは恥ずかしくなかったし、ランドセルも欲しくなかったが、長靴はうらやましかった。しかし、我が家は貧しく、自分には関係ない世界であることも良く解っていた。一人っ子の私は、小学校がはじめての集団生活で、緊張と期待でわくわくし、雨も、貧しさも楽しかった。

 

 最初の授業のとき、窓から雨の降る校庭を見た誰かが叫んだ。「おーい、傘をさして誰かくるぞ!」 先生が止めるまもなく、皆総立ちになり窓に殺到した。背伸びしても外が見えない子が多く、「良く見えない!」と声があがった。そこで私が机の上に立ち、「机にのればよく見えるぞ!」と皆に得意げに教えてやった。先生が冷たく言った。「机にのってはいけません!それは悪い子のやることです」。七十年近く経った今でも、あの驚きと、哀しみが蘇る。

 

 1950年当時、都内山の手の私の通っていた小学校は二部授業だった。子供の数に比べ充分な校舎がなかったため、午前中授業があると、翌日は午後からの授業になる。午後から授業の時は、昼飯後に登校し、午前の組の授業が終わるのを廊下で待つ。この時の思い出もなぜか外は雨で、私はしずくのたれる傘を下げている。木造の校舎の油を引いてこげ茶色になった板張りの廊下のあのにおいを思い出す。

 

 明治生まれの父は無口で怖かったが、一人っ子の私は可愛がられ、めったに怒られることはなかった。ある雨の夜、父が「新聞を取って来い」と言った。何かをしていた私は何気なく「いや」と言った。その言い方がいけなかったのだろう、突然父が「親に向かって何を言うか」とほっぺたをぶった。それまで一度も殴られた事がなかった私は、一瞬ボーとして、何が何だかわからなくなり、静寂の後、大声で泣き出した。そして泣きながら廊下を走り、玄関から外に出た。外に出てからハッと我に返ったが、冷たい雨は降っているし、どこへ行ったら良いのかわからない。玄関からの石畳をトボトボと歩き、門のかんぬきを足がかりに、いつも遊んでいるコンクリート製の四角い門柱の上へ登った。門柱の上には松が張り出していて雨宿りにもなる。

 べそをかきながらそこにじっと座り込んでいると、傘をさして母がやってきた。キョロキョロあたりを捜しながら、名前を呼ぶ。このままでは行ってしまうと思い、小声で「ここ、ここ」と言った。母は「まあまあ、何でそんなところに」と言って微笑んだ。母に連れられて部屋に戻り、父にモゾモゾ言って、下を向いたまま遊びを続けた。父も黙っていた。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする