佐佐木幸綱著『万葉集』(NHK「100分de名著」ブックス、2015年5月25日発行)を読んだ。
表紙裏にはこうある。
七世紀初め、飛鳥時代の舒明天皇の治世から、八世紀半ば、奈良時代までの百三十年間の歌およそ四千五百首が収められた日本最古の歌集『万葉集』。五七調で紡がれる定型詩は、いかにして成立したのか? 額田王、柿本人麻呂、大津皇子、山部赤人、大伴旅人、山上憶良、大伴家持…。大きく四期に分けられる作風の変化を代表的歌人の歌でたどりながら、日本人の心の原点を探る。
私の評価としては、★★★★(四つ星:お勧め)(最大は五つ星)
130年間の歌を含む万葉集の流れを要領よくまとめてある。代表的歌人の代表歌をとりあげ、最小限の背景も説明している。
佐佐木幸綱(ささき・ゆきつな)
1938年東京都生まれ。祖父は佐佐木信綱。俵万智の先生。
1963年早稲田大学第一文学部卒業、同大学院修士課程修了。
1966年河出書房新社入社、「文藝」編集長を経て同社を退職。
1984年より早稲田大学政治経済学部助教授、1987年より2009年まで同教授、2009年より同名誉教授。
1974年より歌誌「心の花」編集長、2011年より同主宰。
歌集に『群黎』(現代歌人協会賞)、『瀧の時間』(迢空賞)、『ムーンウォーク』(読売文学賞)など。
著書に『万葉集の〈われ〉』、『柿本人麻呂ノート』など。
以下、私のメモ。
はじめに 混沌・おのがじし・気分(三つのキーワード)
- 斎藤茂吉の混沌(カオス):古事記・日本書紀には不定形の歌がかなりあるが、万葉集はほぼ短歌と長歌に集約される。こうなる前に集団の歌があった。
- 佐佐木信綱の「おのがじし」:人それぞれ(個性的)
- 窪田空穂の「気分」:後期には孤独をうたう歌が多くなる。他者と共有できない本人だけの内部の深淵。
第1章 言霊の宿る歌
万葉集が作られた実質的な時代は、飛鳥時代の舒明天皇(629年即位)の治世から、奈良時代の天平宝字3年(759)年にいたる、130年間。(大化の改新645年、改新の詔646年)
肆宴(しえん、宮中の公的な宴)で読まれた歌は、序列と規定が厳しく、大君によいしょする歌ばかり。
私的宴席は盛り上がった。(1)主人の挨拶歌、(2)主賓の返礼歌、(3)参加者の歌、(4)納め歌の基本パターンで、ピークは(3)。
(3)の例
蓮葉(はりすば)はかくこそあるもの意吉麻呂(おきまろ)が家なるものは芋(うも)の葉にあらし
(宴席の美女たちは「蓮の葉」、私(意吉麻呂)の家にいるあれは「芋の葉」だ)
万葉集の表記
表音文字として漢字を用いた「万葉仮名」で表記されているが、平安中期(10世紀)には、読めなくなってしまった。そこで、平仮名や片仮名で訓(よ)みとつけるようになり、やがて漢字平仮名交じりで表記するようになった。いわば、我々が読んでいる万葉集は、万葉研究の成果に立つ翻訳なのだ。
第一期 舒明天皇即位(629年)~壬申の乱(672年)
熟田津(にきたづ)に船乗せむと月待てば潮もかなひぬ今はこぎ出でな
斉明7年(661)斉明女帝は百済再興を支援するため熟田津から博多へ向けて船出する際に額田王が女帝に成り代わって作った歌(事実ではなく、あらまほしき状態を歌った)。
有間皇子が、謀反の尋問を受けるために中大兄皇子のいた紀温湯(きのいでゆ)への途中の岩代で詠んだ自傷歌。
磐白(いわしろ)の浜松が枝(え)を引き結びまさきくあらばまたかへり見む
家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を草まくら旅にしあれば椎(しひ)の葉に盛る
死後40年以上もたった大宝元年(701)、文武天皇の紀伊行幸の折り
後(のち)見むと君が結べる磐白の小松が末(うれ)をまた見けむかも 柿本人麻呂
渡津海(わたつみ)の豊旗雲に入日さし今夜(こよひ)の月夜(つくよ)清明(あきらけ)くこそ 天智天皇
第二期 壬申の乱~奈良遷都(710年)
第三期 奈良遷都~山上憶良没年(733年)
第四期 山上憶良没年~天平宝字3年(759年)1月1日
第2章 プロフェッショナルの登場
「天皇、蒲生野(かまふの)に遊猟(みかり)しましし時」の宴席での贈答歌
あかねさつ紫野行き標野(しめの)行き野守(のもり)は見ずや君が袖ふる 額田王
むらさきのにほへる妹を憎くあらば人づまゆゑに吾恋ひめやも 大海人皇子
宴席の中で恋人同士を演じている「君」と「妹」は20年前に子供(十市皇女)をもうけた間柄。
柿本朝臣人麻呂の「近江荒都歌(こうとうのうた)」
ささなみの志賀の辛崎幸くあれど大宮人の船待ちかねつ
淡海(あふみ)の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ
柿本朝臣人麻呂の「軽(かるの)皇子の安騎野(あきのの)に宿りました時」
東の野にかきろひの立つ見えてかへりみすれば月西渡(かたぶ)きぬ
第3章 個性の開花
「山部宿禰赤人、不尽山を望める歌一首〇に短歌」の反歌
田児の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ不尽の高嶺に雪はふりける
大伴旅人
験(しるし)なき物を思(も)はずは一坏(ひとつき)の濁れる酒を飲むべきあるらし
生者(いけるもの)つひにも死ぬものにあれば今ある間(ほど)は楽しくをあらな
こんな歌を歌った旅人も、最愛の妻・大伴郎女と異母弟の死を受けると
世の中は空しきものと知る時しいよいよますます悲しかりけり
吾妹子が見し鞆の浦のむろの木は常世(とこよ)にあれど見し人ぞなき
第4章 独りを見つめる
素朴、雄勁、荘重などと形容される万葉第一期の歌から百年をへて、万葉集の歌は、繊細で優美、感傷的で感覚的と形容される方向に進んだと言われる。個人の内面のかすかな揺れや気分の起伏が、日本語で表現できるようになってきた。この時期は、「家持の時代」なのだ。
家持の長歌
・・・海行くば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草生(む)す屍 大君の 辺(へ)にこそ死なめ
「春愁三首」
春日遅遅として、鶬鶊(ひばり)正(まま)に啼く。悽惆(いた)める意(こころ)、歌にあらずは、撥(はら)ひ難し。よりてこの歌を作り、式(も)ちて締緒(むすぼほり)を展(の)べたり。
春の野に霞たなびきうらがなしこの夕かげにうぐひす鳴くも
わが屋戸(やど)のいささ群竹(むらたけ)ふく風の音のかそけきこの夕べかも
うらうらに照れる春日に雲雀あがり情(こころ)悲しも独おもへば
万葉集の時代年表
略
特別章「相聞歌三十首選」
あしひきの山のしづくに妹待つと吾立ちぬれぬ山のしづくに 大津皇子
吾(あ)を待つと君がぬれけむあしひきの山のしづくにならましものを 石川郎女
石川郎女は皇太子・草壁皇子の妻であり、密会は陰陽道の達人の占いで発覚する。そして皇位継承あらそいに敗れた大津皇子は処刑される。
わが妻も絵にかきとらむ暇(いつま)もか旅行く吾(あれ)は見つつしのはむ 防人歌