勤めていたころ、会社から夜遅く帰ってきて、あわただしく食事し、新聞、TVをざっと見て、そして後は明日に備え寝るだけの生活が続いた。
ベッドに横になっても、上司の嫌味、会議での失敗、山積みの仕事などストレスがあれもこれもと襲ってくる。くよくよ考えないように鍛えているつもりだが、一度考え出すと止まらない。
珍しく順調なときでも、「ああしたらどうか、いや、こうしたら良いのでは」と少しでも良い手を思いつくと眠れなくなる。枕元にはメモを置いて、思いついたことをざっと書いて、「さあ、これで安心」と思うのだが、「いや、まてよ」「さらに、こんなことだって」と頭が休まらない。
こんなときは、好きな絵をぼんやりと見る。カレンダーから切り抜いたピサロやシスレーなどお気に入りの1枚をなんともなしに眺める。寝る前は静かで空が開けた風景画が良い。そのうちに落ち着いてきて眠る体勢に入れる。
大好きなマネの画集を取り出してパラパラと2、3枚めくることもある。初期の絵は細部まできちんと描いており、それはそれで良いのだが、後期の絵の、そのまま絵の具をポンと置いたような荒いタッチの絵が好きだ。石畳の道路に、ゴニョゴニョと筆の跡そのままに絵の具が置いてあるだけなのに、ちょっと離れてみると、確かに動き出しそうな人に見えたりする。
すべて完璧に描ききり、わずかな乱れもないサロン風の絵を越えた、印象派の荒い大胆なタッチが好きだ。マネは黒色を使ったし、印象派展には出品しなかったので、印象派に属するとは言えないのだが、それでも新時代を開いた印象派はマネを基点として始まったことは確かだ。それにもかかわらず、マネは旧来のサロンにあこがれ続けたというから、不思議で、ちょっぴり哀しい。
休日で時間のあるときは、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンなど後期印象派と呼ばれる画家の絵を楽しむ。好きな絵を眺めていると、小さな絵の中に入り込み、その向こうの空間が奥まで見え、目の前の両開きの扉を開くように絵の世界が大きく広がっていく。
印刷された絵を見るのも良いものだが、たまには美術館へ行き、実物を見るのも必要だ。何と言っても、実物の油絵は印刷物では味わえない艶やかな照りがある。何百年も経っていても未だに輝きを失わない。ちょっといじましいが、この輝きをしっかり目に留めておいて家に帰り、印刷された絵をじっとみると、輝きが戻ってくるような気さえしてくる。
絵画を見る楽しみは、極上のものだ。着物の柄と同じで、自分の気に入った絵画は理屈なしにただ見ているだけでも心が明るくなりゆったりと豊かになる。
しかし、絵画の解説本で、その画家の波乱の人生や、その絵画が画家のどのような事情のもとで描かれたか、どんな絵画動向の中に位置づけられるか、などの背景を知ると、もっと多面的に絵画を楽しめるようになる。一枚の絵画に秘められた謎、優れた絵画ほど深い謎が隠れていることが多い。また、ゴッホにみられるように一途に突き詰める天才画家の生涯はドラマチックだ。彼らの伝記を読んだあとでは、その絵を描いている彼らの姿が浮かび、絵の向こう側が見え、深みが増す。音や風、匂いまで感じられることもある。
絵画は「ただ見るだけで良し、知るとなお良し」である。