福田内閣の支持率の低迷が続き、今月ついに危険水域まで落ち込んだ。森内閣から小泉内閣前半の官房長官だった頃の福田氏は、首相に遠慮せず持ち前のとぼけた味を出しながらも筋を通す発言が良く聞かれた。どちらが首相の発言か判らないような大局観をもっていた。 しかし、首相に就任直後から持ち前の鋭さはどこかに消えて行った。最近の薬害被害者との和解、道路特定財源、イージス艦の漁船衝突、どれをとっても首相が問題解決にリーダーシップを取った気配が無い。官房長官時代を考えると、何故ここまで酷くなったか頭を捻る人は多いと思う。 今回その疑問について考えてみたい。報道等から私が思いつく理由は次の3つある。それは福田氏個人の資質、首相成立の経緯、参院選結果に対する評価の誤りであり、夫々関連している。 1)資質の問題 福田氏は昔から調整型の政治家といわれ、自己の信じる説を主張するより様々の意見を咀嚼して機が熟するのを待ち、誰もが我慢できる妥協点を探り、落としどころを見つける手法をとると見られていた。「勝てるとわかるまで勝負に出ない」遺伝子が組み込まれている。 従って対立する議論の初期段階での自説の主張(もしあれば)は極力抑え当たり障りの無い一般論を述べるか、官僚の作文を繰り返した。ところが上記のような首相の決断が求められるギリギリの状況で様子見の姿勢はありえない、それを見た国民の失望を買うことになった。 官房長官にリーダーシップは不要、鋭い的を射たコメントといっても後からなら言える、謂わば毎度お馴染みの「後付」評論家でよかった。(とはいっても後知恵すらない首相もいたのだが。)しかし、本当にそれだけだったとしたら首相は務まらない。 2)内閣成立経緯の問題 安倍前首相の突然の辞任後、麻生前外相優勢の流れが一夜にして福田氏に変わった。その流れを作ったのは麻生氏を嫌った自民党派閥の領袖が数合わせをした結果だった。首相候補者が政策を戦わしその是非を巡って議論した結果選任されたわけではなかった。 私は当時からこの実質上の首相選出プロセスに危うさを感じた。つまり、福田氏は後から責を負うべき具体的な政策を示す必要も無く、水面下の戦いで勝利した。蛇足ながら、1年以上もかけて過去の政治決定について候補者を調べ上げ、最適任の大統領を選ぶ米国のシステムは羨ましい。 結果として閣僚の殆どは留任させたものの、福田内閣成立に貢献した派閥の領袖の支持を得て国交省は道路改革を小泉首相以前に戻し、福田首相は黙認した。道路だけではない、全ての改革機運は後退した。福田内閣というより内閣成立の立役者の意思が政治に反映される仕掛けと見てもおかしくない。 3)参院選結果評価の誤り 昨年7月の参院選で自民とは大敗、所謂ネジレ国会が出現した。自民党は格差拡大など構造改革の「影」の是正と地方への配慮が必要と判断した。これがかつての族議員を蘇らせ改革後退が鮮明になった。果たして国民の伝えたかったメッセージはそういうことだったのだろうか。 これに対し、少なくとも投資家、特に海外の投資家は答えを出し、日本脱出が続いている。規制緩和等など福田内閣では期待できないとなれば、投資にもっと魅力的な国はいくらもあるからだ。最近では海外からの投資で豊かになった自治体もあるが、肝心の国が見捨てられた。 それでも国民が評価してくれればいいじゃないか、という議論はある。だがそれも怪しくなった。 参院選結果の評価について、昨年竹中平蔵教授が書いたマスコミ等とは異なる記事を見た記憶がある(日経BP12/26)。それによると議席数は歴史的惨敗だが得票から見ると郵政造反議員のいる県を除いて得票率はそれほど減ってないという。読んだ時は竹中氏らしい見方で沢山ある敗因の一つ程度にしか思わなかった。 だがその後官僚の不祥事が続発しても公務員改革は進まず、道路特定財源の一般財源化の議論の反応を見ると、国民の改革を求める声は依然として大きいことが私には明らかになってきた。最新の世論調査(朝日新聞3/3)では道路特定財源の一般財源化を国民の60%が望んでいるという。参院選のメッセージと福田内閣のやろうとしていることには大きなギャップが見えてきた。 ピーターの法則に陥った? 以上の3つの支持率低下要因に加え私の思っていることは、福田首相はピーターの法則が適用されたのではないかということだ。そうでもない限り今までのあらゆる「不作為」の説明が付かない。つまり彼は無能だったのではなく、首相になって無能になったのではないだろうか。 ピーターの法則とは20-30年前に読んだ本で正確に記憶してないが、「人は無能になる地位まで昇りつめる」というものだ。組織で「人は能力に応じて実力を発揮して昇進していくが、何時の日か彼の能力では地位が求める力を発揮できなくなる地位に到達し、それ以降無能になる」という。 もしかしたら福田首相はその位置に到達したのかもしれない。問題は多くの場合、本人がそれに気付かないことだ。私の杞憂に終ることを祈りたい。■