かぶれの世界(新)

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私が身の危険を感じた時

2018-01-21 15:07:35 | 日記・エッセイ・コラム
最近私の経験に基づく懐古的な記事の投稿が増えていると自認している。記憶がしっかりしている間に子供達に私の経験を言い残しておきたいという気持ちからだ。今回もその一つ。

電通の新人女子社員がわずか入社8か月目に異常な労働環境で上司に追い込まれ投身自殺した事件の余波は未だに尾を引いている。それに比べれば40-50年前に技術者として働いた職場の環境は悪くなかった。同じ会社内でも別の職場では、大型機の開発プロジェクトが終わるまでに誰か一人は亡くなるという噂を聞いた。それを不吉にも「人柱」と呼ぶ人がいて、他社でも状況はそれほど変わらないと驚かされた。私のは違っていた。

最初の危機
私が20代後半頃に日本初と称した3チップ構成の8ビット・マイクロコンピューターの開発を終わらせ、一人前のコンピューター技術者としての評価を得て忙しく働いていた。そんな時に草加で不動産屋をやっていた父の友人の助けを得て郊外に自宅を新築することになった。殆どお任せだったが、それでも住宅ローンの手続きをしたり、市の農業委員会に行き地目変更の手続きとか、棟上げとか慣れないことをやり一杯一杯になっていた。

ある日気分転換の積りで職場の端にある自動販売機の前に立った時、意識が薄れ立っていられなくなり床に寝転がった。どこも痛いと感じた訳でなく、ただぼんやりと天井を見ていた。そのうち担架に乗せられ救急車で多摩川沿いの大きな病院に連れて行かれたが良く記憶していない。東京でただ一人の身内で当時新橋で働いていた妹が翌日見舞いに来てくれた。医者の診断は急性十二指腸潰瘍で1週間安静して退院した。

多分、最先端の仕事と自宅新築の両方を一人でこなして神経が参り、そのしわ寄せが十二指腸に来たのだろうと思う。特にどこかが痛いとか、命の危険を感じたりすることはなかった。仕事も自宅新築も嫌なことではなかった、ただ両方進めるには経験不足で私の手に余る事態になったのだと思う。しかし、結果的には仕事のやり過ぎによる「過労」の結果だったと思う。電通の彼女は自殺する前に身体に異常を感じなかったのだろうか。

最悪の危機
次に身の危険を感じたのは40代前半に海外向け製品計画の責任者になった時だ。主要市場は米国で当時ボストンの子会社に現地の商品計画と営業部門があった。日本で新製品計画を作り、現地の商品計画部門と擦り合わせ、日本の工場で合意した商品を製造し米国を始め世界で販売した。日本側スタッフとボストンの商品計画部門との擦り合わせは通常深夜TV会議で実施した。毎回意見が合わず激論となり、しかも英語なので凄いストレスがかかった。怒鳴り合いで終わった会議の後、血圧が180に上昇し命の危険を感じたこともあった。

この頃に産業医にかかり24時間血圧を監視する機械を携帯し、降圧剤を服用するきっかけになった。このまま続けたら命を縮めるかもと思い、心筋梗塞で死んだ父のことを思い出していたりした。しかし、一旦製品計画を決定すると3ヵ月位は比較的楽な日が続き体調を取り戻すことが出来た。当時は毎月一度位のペースで西海岸にも出張し取引先と交渉したが、物を売買する関係の場合は身体は大変だがストレスは溜まらなかった。

悪夢の危機
そして私の人生で最も厳しい最悪の時が来た。TV会議で議論した計画を最終的に決定し開発に‘GO’をかける前にボストンに出張して顔を突き合わせて決めた。当時は直行便が無く通常は西海岸で乗り換え、国内線でボストンに向かうと夜到着した。ホテルで夕食をとり別件で先乗りしていた担当役員の部屋に出向き、スタッフを交えて方針を報告した。その時は理由は覚えてないが報告が気に入らないと役員から長々と説教された。

しかし散々時間をかけて纏めた計画なので私も簡単に引き下がらずいつまでも報告が終わらなかった。終わりそうになると私が「お言葉ですが」と言って反論した。すると彼が怒りを爆発させて更に長い説教をした。そうすると又も私は「お言葉ですが」とやったものだからいつまで経っても報告が終わらず深夜12時を過ぎた。彼は私を評価して昇進させたトップで公私にわたり色々気を使ってくれた。最初で最後の激突だった。

計算すると2日間くらい寝てなかったはずだ。寝不足と緊張感と怒りで殆ど意識を失いそうで、最後は精も根も果ててどう自分の部屋に戻ったか記憶がない。同行して来たスタッフや部下の睡眠時間を奪い申し訳なかった。翌朝寝不足の顔をして1階のレストランに行くと、彼は食事中でニヤニヤ笑いながら「良く眠れたのか」と聞いた。私は苦笑いして黙って朝食をとったが気分が悪かった。その日の会議がうまく行ったかどうか覚えていない。もしかしたら血管が破裂しそうなくらい血圧が上がっていたのじゃないかと思う。

私の記憶ではこの時が人生最悪の危機だったと思っている。だが「もう止めた」という気分にはならなかった。その後も最高の機会を与えられたと思い仕事をした。それ以外の危機はいわばその場限りの危機で終わった。振り返れば、他の大事な仕事で失敗したこともあるし、バイク事故を起こしたり米国の高速道路で二度もスピン、リーマンショックで資産の半分を失い、前立腺がんと診察された時も、「ヤバかったなー」と一言で終わり。

私は家に仕事の悩みを持ち帰り愚痴を言うタイプではなかったので、多分家族は聞いたことが無い話だと思う。家族の誰もが知っているのは、会社の若い女の子達を自宅に連れ帰り朝まで酒を飲んで大騒ぎしたこと位だろう。その病気だけは今も続いているかも。■

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