京高裁は1月28日、日本マクドナルドに対し店長は管理監督者には当たらないと判断し、約750万円を原告の店長に支払えと命じた。報道を見る限り判決は妥当なように思うが、同時に私が会社勤めした時代と随分変わったと感じた。私の管理職観は20年前とそう変わってないと思う。時代錯誤といわれるかもしれないが20年前から見た現代の「名ばかり」管理職を論じてみたい。
私の管理職観は高度成長時代の「猛烈サラリーマン」頃のものだが、それをベースに現代の「名ばかり」管理職を解釈してみる。切り口は、争点となった店長は経営者か・経営者に相応しい報酬かという法的解釈ではなく、店長はキャリアパスにあるか・モーチベーションがあるかだ。
「猛烈」時代の管理職
私が高度成長時代に管理職になった時、残業手当がなくなり役職手当の増加はあったものの、トータルすると月収はかなり減った。管理職になる前の収入に回復するのに2年程度かかった記憶がある。管理職になる前は毎月100‐200時間の残業をして給与の倍近い収入の時もあった。
私が勤めていた会社では管理者試験は組織内で昇進する為に誰もが通る道だった。管理者になれば自動的に経営者と同じ立場で判断し、賃金面で優遇されるとは誰も思わなかった。だが、それについて私の知る者で問題視するものはいなかった。(だから、今も問題なしと言う積りはない。)
管理者選抜試験のために多くの社員は数ヶ月前から会計・人事・マーケティング・生産論などを勉強した。試験に合格すると次の人事異動で管理職になり給与減を甘んじて受け入れた。上司は厳しく職責を問う一方で、健康を害しても誰も責任を取ってくれない、自分で守るしかないと言った。
それは、会社で部長や役員に昇進してゆく為には管理職試験は誰もが通らなければならないある意味「公正」な関門であった。当時は「長」がつく管理職は今よりも尊敬を受ける存在であった。100時間以上の残業は忠誠心の発露というより、仕事上必要なのでやるというものだった。
私も当時人並みに上昇志向が強く、実質の給与が減っても管理職になった嬉しさの方が圧倒的に大きかった。だが同時に事故や不祥事などが起こった時、法的に責任追及を受ける経営者側の現場責任者になったという責任感で身のしまる思いをしたものだ。
「喪失」時代の管理職
90年代半ばから始まった構造改革は会社に対する忠誠心を劣化させたと言われている。同じ頃多くの若者の上昇志向が希薄になったともいわれている。一方でバブル時代に労働者の職業倫理が変化し始め、徐々に上昇志向を失ってきた日本特有の現象のような気がする。
労働市場の流動化による組織への忠誠心の喪失は、欧米と比較するとある意味理解の範囲だった。だが代わりに職種・職業に対するプロとしての忠誠心が育たなかった、もしくはそういう文化が育たなかったのは我国にとって不幸だった。何のために働くかという根本が怪しくなった。
報道によると、外食チェーン店長はたとえ細く険しくとも将来トップへの道が続く管理職の第一歩として位置付けられていた職位ではなさそうだ。そういうキャリアパスは存在してないようだ。ただ人件費を減らしたいが為の正に「名ばかり」管理職だったとすれば忠誠心は期待できない。
働く側からも深夜まで仕事をやらされているという受身の発想しかニュースからは聞こえてこない。報道の問題かもしれないが、かつて「プロジェクトX」に代表される仕事に対する誇りと熱意が全く感じられない。もしそれが事実なら働く人達は辛い、被害者感情しか湧かないだろう。
マクドナルドに限らず外食チェーンの店長に経営者と同じような権限も報酬も無いとメディアは報じている。日本のサービス産業の生産効率は世界的に見てかなり低い水準にある。其処をついて外食チェーンは本部に権限集中させ、店頭ではサービスをマニュアル化し低コストを武器に全国展開している。
一方老舗の「おもてなし」の精神は日本サービス産業の誇るべき財産と言われている。だが、実態は同族経営がベースであり、今の若者にとって魅力的なキャリアパスを提供していないようだ。加えて「おもてなし」が顧客に不要なものと思われると過剰サービスになり、単なるコストになる。
デフレ経済下でのコスト削減圧力は極めて大きい、先に続発した賞味期限偽装のように食の安全というもっと本質的なところで顧客の信頼を失った。このような環境でチェーン本部や同族経営トップが、働く人達を動機付け誇りと熱意を求めるのは容易ではない。
判決は妥当だが、それで日本のサービス産業の労働者が救われる訳ではない。サービス産業全体がもっと進歩しなければ労働者も救われない。働く人達に透明で公平なキャリアパスを示し、プロとして誇りのもてる仕事の本来的意味を掲げ追求するところに答がありそうな気がする。■