先週初めに風邪を引き、寒波で昼間も気温が上がらないものだから、用心してずっと家にいた。熱は無いのだが鼻水が出て喉が痛く、何をやるにも集中できなかった。気分転換にと、昨夏末の息子の誕生祝に買った村上春樹の「1Q84」を読んだ。家族の間で読み回して棚に収まっていたものだ。集中して一字一句見逃さないという姿勢で読む本ではないと気楽に読み始めた。
そこで私が文芸作品を論評するのは全くの畑違いだが、近年まれに見るベストセラーに敬意を表して、文学オンチの私も今頃になり周回遅れの筋違い読後感を一言。
私は自称「乱読者」とはいえ主に政治経済とか実用書とかしか読まない功利主義者で、分り易い文章だが饒舌な村上春樹ワールドに馴染めなかった。最初は50ページ、次の日は70ページ、翌日は100ページといったペースで読み進み、4日目でBook1を読み終わった。その後はやっと村上ワールドの住人になったのか、1日置いて5日目にBook2を一気に読んだ。
蛇足だが、私が違うジャンルの本を読む時、著者がよく使う語彙や独特の言い回しに慣れて、著者の世界に入り込むまで数日かかることが良くある。かつて得意ではない原書(英語の)を読む時は、最初数ページしか理解し進めないがそこで諦めないで、徐々に著者の良く使う単語や言回しに慣れ興味が湧いて速度を上げ読み、何とか1冊読み終えた。1Q84も私にはその種の本だった。
読み進むうちに既視感のようなものが湧き出てくるのが分かった。大雑把に言えばそれは1Q84が文字通りその時代を反映し、漫画チックに表現されているからだろう。
読み始めてすぐに感じたのは、例えば手塚治虫の長編漫画を読んでいるような気分だ。分り易い文体の底流に著者の深い文明批評があるといわれているが、私にはその何かが読み取れなかった。暴言といわれるかもしれないが、手塚漫画のストーリの方がより哲学的と感じた部分があると思えた。私はその程度の読者なのかも知れないが、とにかくそれが素直な印象だ。
既視感のもう一つは、どこかで読んだ気がするのだが、物語の設定がオーム真理教の事件と重なる部分があるように私も思う。少なくとも一定年齢以上の日本の読者は、頭の片隅に事件の記憶が具体的に残っている。読み進むに連れ一旦現実に起こった記憶を取り戻し、本に書かれた以上の情報とか先入観をもって読み進めるはずだ。その効果は意図されたもののように感じる。
そこから著者がリトルピープルという不思議な存在を生み出して春樹ワールドを展開する。多分リトルピープルが何かを象徴し、この小説のメインテーマになるはずなのだが私には今はまだ分からない。それが分からなければ片手落ちの論評になると懸念しながら、今私は書いている。
もう一つ付け加えると、村上春樹の作品の特徴は、読者が登場人物と重ね合わせて考え読み進むということだろう(これもどこかで聞いたことがある)。私も読みながら、時々主人公と重ね合わせている自分に気がついた。それも主人公だけでなく、時には彼の父親とか別の登場人物にもなった。その身近感は何から来るのか定かではない。
ともあれ、1Q84は出版不況といわれる中かつてないダントツのベストセラーになったという。事前情報を流さず世間の興味を高め一種の飢餓感を作り出し、満を持して一気に全国の書店に並べるマーケティング手法が、ビジネスとして成功した一因という報道を見たことがある。作品の評価に関係はないのだが、その筋立てがマーケティング手法にぴったり嵌っていると下司の勘ぐりをした。
というのは、上下巻合わせて約1000ページの長編だがBook2でも物語は完結せず、いかにも次を期待させる終わり方だった。多分Book3もベストセラーになるのは間違いない。マーケティング手法としてはうまく働くだろう。最後に、昔読んだ長編漫画も続きが待ちきれなかった記憶が甦ってきた。■