山に惚れ、宇宙の美しさに惚れ、青春のめまいを感じた時代には、「北杜夫」「石原慎太郎」「石坂洋次郎」「新田次郎」「星新一」などを時を惜しんで読んだ。
ところが私のもっとも古い友は「ニーチェ」「サルトル」などの哲学書にのめりこみ、都内のマンモス大学の哲学科に入学した、少年時代から父の強さを知らない、ナイーブな一人っ子の彼は胸の内を語る相手もなく暮らしてきたのだ。(但し高校時代はバンドやフォークのグループ活動はしていた)
友といえば私と、のちにノイローゼになって早逝した同級生くらいだった。
彼が読み漁ったニーチェ、サルトルは何者と思い返せば、彼が彼を押さえつける彼自身からの独立と自由を求めていたのか、あるいは自分の非力が「人々に理解されていない」絶対的な力だと誇示したかったのか、そういう虚(きょ)を正当化することにあがいていたのかもしれない。
目的は何か、きっとあったはずなのだ、目的を達するためには初歩から行動しなければならないが、その初歩は何だったのだろう、それとも初歩をすでに踏みだしていたのだろうか、それらしいものを考えてみれば大学を中退したこと、寺山修司に傾倒したこと、前衛的なファッションスクールに入学したこと
彼は当然ながら無宗教であったが、前衛ファッションの師は宗教のように彼に影響を与えた、それ以後定職にも就かず老いて消えた。
彼は結局「サルトル」「ニーチェ」から何を学んだのか?
彼に最も必要だったのは、彼の生まれ持った才能を世に出すアドバイザーだったかもしれない、悲しいことに私も含めそんな人間に出会えなかったのだろう、彼の(非凡な才能)という存在は永遠に埋もれてしまった。
(社会に迎合する)平凡な万人向けの俺は、山を歩き、星を見、社会の手順通り、手職をつけ仕事をし、結婚して子を成し親と暮らしている
ニーチェの言うとおり、私は彼にとって「尊敬すべき敵」ではなく、切り捨てるべき友でしかなかった。
奴にしろ、俺にしろ億兆の自然界の中でたった1本の埃であることに変わりない、いかに生きようと地球の消滅、太陽系の消滅で何もかも消え去る、そこまで考えることもない、どう生きようと結局は同じことなのかもしれない、だが生きているわずかな時間の意識の中では、幸福や不幸の感覚は確かに存在している、そうなれば生きている時間がすべてといえる、「死ねば同じ」などと人生をやけっぱちで生きるわけにはいかない、夢もって行動することこそ彼が学んだことではなかったのか!