最近わたしの人間性が粗雑になってきたようです
まあ、二重生活を続けているので、立ち位置が今ひとつ定まっていないせいかもしれません
どんな生き方が正しいのか、かなりアバウトに考える様になりましたが、これはいけないことです
なにか漠然とした生き方の指標がほしい
昨年も同じような事を思って「高嶋暦」を買って一年間指標にしましたけど、世界中の人間を9分類でくくってしまうのは
ちょっとどうなのかと思いました
神頼みも良いですが、やっぱり自力で生き方を考えた方が価値がある気がします
それにしても拠り所とかヒントが無いと凡人故なかなか思いつきません
そこでず~っと2年ほど本棚で眠っていた「夢中問答集」を引っ張り出しまして勇気を出して挑戦します
なぜならこの書は、禅宗、臨済宗の高僧「夢窓国師(夢窓疎石)」と足利尊氏の弟「足利直義」の禅問答なのです
しかも南北朝時代の古典で仏法の本です、よほどの覚悟が無いと読み切れません、集中しないと何が何だかわからない
と思います。
さ~て、夜中のほうが集中できる、ということで23時から読み始めました、それで思ったのは、これは「千夜一夜」方式
で読んだ方が良いと。
一日一話の法話、これならいけそうです、そしてこの一話一話を噛みしめて、ノートにこの話しの意図を毎日書くことにしました
徳川家康は毎日「南無阿弥陀仏」を書き続けたそうです、何事も続けることと根気が成功の素です
さっそく第一番目の問答を読んで見ました、今から700年くらい前の名僧と征夷大将軍の弟との禅問答
質問者は足利直義さん、答えるのは夢窓国師です
直義さんが問いかけます
「僧は庶民が幸せになるように導くものなのに、庶民に富を求めることをやめよと言うのはなぜか?」
国師は答えます
大衆は士農工商にかかわらず、誰もが富を求めて働いているが、それは欲心からである
ただやみくもに働くだけで、一生を終えるときでも何も残っていない
たまに良いことが一つあっても、その何倍も悪いことがおきる、また、かなりうまくやって財をなす者があるが
大概はそれ以上の悪業を行っているのだ、それでは来世は地獄界に落ちる
愚衆の根本が欲心だから、うまくいかないで富を失うと、悪人や政治や世の中のせいにして嘆く
しかし富を失うのは自らの前世の報い、今世を欲心で生きているからだ
これでは来世もうかばれないだろう
昔、インドにスゴウ長者という人がいた、たいへんな財産家で倉という倉は財宝でいっぱいだったが、運が尽きたのか
老年の頃には一家離散して家僕もなく、老夫婦だけになった、たくさんの倉の中身も何も無くなってしまった
とうとう米も尽きて、倉の隅に何か無いかと探し回ったらマスが一つあったので、これを米4升と替えてもらった
これで2~3日は生き延びられると夫婦は喜んだ
スゴウ長者は用があってどこかへ行った、老妻が家にいると僧が乞食(僧の修行の一つ)に戸口に立ったので老妻は
米を1升与えた、すると今度は2人僧がやってきたので米を2升与えた(これでは今夜食べたらおしまいだなあ・・・)と
老妻が途方に暮れていると、またしても僧が一人来たので、とうとう残った1升も与えてしまった。
(これでは爺さんが戻ったら、こっぴどく叱られるだろう)と思うと泣けてきた
そこにスゴウ長者が帰宅して妻が泣いているのに気づいて「どうしたのだ?」と問うと老妻は全てを正直に話した
スゴウ長者は「仏・法・僧、を尊ぶ事は大切なことだ、例え我らが飢え死にしようとも物品を惜しむ様なことをしてはならない
おまえが行ったことは正しいことだった」と褒めた
それでも腹が空くので、まだマスなどがないかと倉を探そうとした、ところが倉という倉の全ての扉が開かない
スゴウ長者はとうとう一つの倉の扉を打ち破った、すると中は金銀財宝で溢れていた、全ての倉がその通りで
スゴウ長者は昔と同じ財産家になったという。
実は4人の僧は釈迦とその高僧だったのだ、この話しは釈迦が米の御礼に財宝を与えたと言うことではない
スゴウ長者夫婦の心根が無欲で信心深い故に、自らの行いで得たものなのだ
だから仏教は、欲心で富を得ようとする気持ちを制するのです
第一の問答おわり
これについて私なりの考えを言いますと、凡人は「なんだ最後は金銀財宝じゃないか、第一いくら長者が善人で
信心深いとはいえ、こんな手品みたいな事が起こるわけがない」と思うだろう、その通りだ。
第一先の短い老夫婦が倉いっぱいの財宝を得たとしても何の意味も無い、一日米一升あれば十分だ
足利直義さんも、そう思ったろうか? 天下の副将軍であるよ。
夢窓国師は多分、天下の政を預かり国家の民を導く直義殿には、「倉と財宝が何を指しているかくらいのことは
お見通しでしょ」という謎をかけているのでは。
臨済宗は禅宗の大きな根の一つですが、大衆仏教の親鸞聖人の浄土真宗でも「心を空にしてただひたすら
【南無阿弥陀仏】を念じなさい、そうすれば悪人だとて前世の悪業から救われるのです」と言っています。
人間の安らぎは心を空にして生きる、というのが仏教の教えなのです、人はただ一人裸で生まれ、裸で旅立つのだから
「この世は来世での暮らしの為の修行の場ですよ、魂の汚れを洗い落とす修行の場ですよ」って言いますよね