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空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 104 九州の雄、島津の力

2022年12月25日 17時54分41秒 | 貧乏太閤記
 大地震で始まった天正13年であったが、この年の12月に秀吉の後継ぎと目されていた(於次)秀勝、丹波少将豊臣秀勝が危篤に陥り、14年が明けて間もなく死んでしまった。
織田信長の四男、秀吉とねねに子がないことを気の毒に思った信長からの最大の褒美であった秀勝だった。
21歳、まだこれからが楽しみな武将であった
これで秀吉の子、二人の信勝が死んだ、最初は実子の信勝、ふじとの間にできた子であった、そして今度の養子の信勝、秀吉はまたしても打ちのめされた
そして秀吉は思った、(子がなくば何のための天下取りであるか)
そうは思って見たが、すぐに気づいた(違う、儂が天下平定を願うのは信長様の意思を継ぐためであった)
そして翌日、姉の三好吉房夫婦を大坂城に呼び寄せた
「小吉を儂の子にくれ」と言うと吉房は
「願ってもなき光栄でございます」と喜んで差し出すと言った
小吉は三好秀次の弟である、秀吉に仕え武士として取り立てられ、それなりの地位を与えられている、兄はすでに近江権中納言という武家では秀吉、家康、秀長に次ぐ4番目に高い身分になっている
父の吉房も秀次の家老として仕えているのだ
そもそも、この三好吉房も、昔は姓の無い弥平という百姓だったのだ、秀吉の姉「とも」と尾張で一緒になったばかりに百姓から豊臣秀次の家老にまで上り詰めた破格のラッキーボーイと言える
こうして秀吉は甥の小吉を養子として、またしても秀勝を名乗らせたが便宜上、小吉秀勝と書くことがある。
そして秀吉は考えた(儂は信長様の意志を受け継ぐからには、信長様ともっと深く結びつかねばならぬ、せっかくのつながりであった(於次)秀勝が死んでしまい縁は切れたようだが、儂の手元には信長様の姪が三人もいる、わしが佐治から取り上げた江姫を秀勝に娶わせよう、そうすれば市様の娘と、儂の甥が夫婦になり、できた子は豊臣と織田の血を引くことになる)
こうして、秀吉は矢継ぎ早に手を打って(於次)秀勝の49日法要が済んで数か月後には、豊臣(小吉)秀勝と江姫の婚礼を執り行ったのである。

 秀吉が寵愛する側室たちの中でも、京極高次の姉の京極殿(竜子)が一番のお気に入りであった、他の側室よりも年長で今年27~28歳になる
かっては若狭守護家であった武田家の御曹司武田元明に嫁ぎ、3人の子を成した、しかし本能寺の変で進退を誤り、明智に味方したため滅ぼされた
その時、竜子は柴田勝家の北の庄に逃れていたのだが勝家が秀吉に攻め滅ぼされたとき、秀吉軍に捕えられて秀吉に出会ったことは以前ここに書いた。
そんなわけで、竜子の、子を産んだ女ならではの落ち着きぶりと、女の盛りともいえる色香と美貌に秀吉は満足していた、また秀吉の前ではそんな竜子だが大政所(秀吉の母)や政所(ねね)の前に行くと大人しく献身的であったから愛妾ながら二人からも愛された
名家の(京極家)子女でありながら奢らず威張らず、その姿は美しく誰にでも愛される人柄だったから、秀吉は公家らとの軽い交際の場には京極竜子を伴っていくことが多かった、公家社会にも通用する常識と教養を持つ女性だった。
 
前置きが長くなったが、この竜子は弟の京極高次の将来を常に心配していた、本能寺の変でも武田元明について秀吉の長浜城を攻めたために秀吉に首を切られそうになったのを姉のおかげで助かっている、そんな頼りない高次の「後ろ盾になっていただきたい」と竜子は秀吉に寝物語で何度も願っていた、
そんなある夜、竜子の肩を抱きながら耳元で秀吉が言った
「儂は決めたぞ」「何をですか?」
「高次のことじゃ」「はい」
「高次に、浅井の中の姫、初姫を娶らせよう」
「なんと申しました? 初姫と!」
「そうじゃ。不服があるか」
「とんでもありませぬ、高次と初姫様とは従兄妹同士、小谷城でも北の庄でも共に過ごしてきて知り尽くしておりますし、仲も良かったのでございますよ
真に似合いかと思います、歳も10歳違いかと思います」
「そうか、そなたさえ喜ぶなら、この話は決まりじゃ、来年の婚儀のための準備をいたすがよい、そうだ祝儀に加増も致さねばなるまい」
「ありがとうございます、嬉しい」竜子は秀吉の背中を思い切り抱きしめた
49歳になる秀吉は、小柄だが筋肉質の肩から背であった。

 秀吉が日本の中心で戦を続けている間に、九州は島津4兄弟が猛威を振るっていた
ライバルだった肥前の強敵、竜造寺隆信を天正12年迎撃戦で討ち取り、一気に北九州に攻めあがった
かっては九州の40%も領土とした大友も僅か10%程度まで減らされ、しかも90%は島津領となった
風前の灯となった大友宗麟は秀吉に泣きついてきた、だが束の間の平和のうちにやるべきことが山積みになっていた秀吉は宗麟にこたえることが出来なかった。
そこで島津に勧告状を送った、「占領地のうち、筑前、筑後(福岡)、肥前(佐賀、長崎)、肥後(熊本)、豊前半分(大分)を返還せよ」
これでは攻め取った領地で残るのは豊前の南半分だけになってしまう、当然島津は秀吉の国分け案を無視した。
当然、そうなるだろうと予測していた秀吉は時間稼ぎに、9月、四国の長曾我部と十河(そごう)、讃岐を賜った仙石久秀を軍監にして兵6000を九州豊後に送った、「島津が来たら籠城せよ、毛利が救援に来る」と言い置いた
これらの兵は大友軍が籠る豊後の府内城に集結して、北上してくる島津家久の軍に備えた。
10月には毛利軍が2万を率いて筑前に上陸した、軍監は黒田官兵衛
筑前の島津方の城の掃討を始めた、これで孤立しながらも少数で城を守り抜いた立花宗茂の立花城は開放された。
立花城を攻めていた島津義弘軍の先遣隊1万は、方向を転換して豊後府中城に向かった、これを聞いた仙谷は慌てて、「敵が来る前に目の前の島津家久軍を破ってしまおう」と言って、兵を戸次川まで進めた。秀吉の命に背いたのだ
それに伴い島津軍は後退を開始した、勢いに乗った仙石は「川を渡って敵を追撃殲滅するぞ」と命じた
しかし長曾我部は「島津が下がるのは作戦ゆえ、深追いは避けるべき、川のこちらにいる方が賢明である」と止めた
しかし仙谷は聞かず、十河隊と共に3000で川を渡った、そしてさらに進軍すると突然街道の左右から鉄砲が撃ち込まれた、これこそ長曾我部や大友宗麟が恐れていた、島津の得意の鉄砲の作戦であった。
たちまち仙石隊は総崩れになって戸次川に逃げ出した、それを見ていた長曾我部信親が率いる2000は川に入って、逃げてくる隊士を収容しながら、追いかけてくる島津軍と戦闘になった、少数に見せていたが実際は1万の島津軍であった
それがまたしても鉄砲隊を先に進めて、川の中の長曾我部隊に撃ちかけて来た
幾十名の長曾我部兵が川に倒れた、すると一斉に島津軍先鋒5000は長槍と騎馬で川の中に攻め寄せて来た
長曾我部隊は奮戦したが多勢に無勢、次々と討ちとられ、ついには大将の信親も首を取られた、これを見た父、元親は残る1000を率いて戸次川に向かおうとしたが家臣がこれを止めて、無理やり後退させ、海岸に出ると船に乗せて伊予へと逃げ出した。
十河も撤退中に追いつかれて首を取られた、恐るべき島津の戦闘力であった。 大友宗麟も毛利に合流すべく豊前の領地を目指して逃げたので、府中城は島津の手に落ちた。
こうして豊臣、大友の防衛ラインは筑前と豊後のみとなり、これを秀吉に報告した。




クリスマスケーキ

2022年12月25日 07時20分13秒 | ライフスタイル
日本各地で「ホワイトクリスマス」になった24日
わが町は雪がなく単なる「クリスマスイブ」。 欧米では国によって基準が違うが「雪が10cm以上積もっていること」とか「当日、雪が降っていること」が「ホワイトクリスマス」の定義なんだとラジオで言っていた。

今年は諸物価のきなみ上がって、15cmの最小ケーキでさえ4000円もする
我が家は次男坊が22日に帰って来たので、その日をクリスマスにした
次男坊は一人で半分以上食べるほどケーキ大好きなので、さすがに買うのはやめて自作ケーキにした。
15cmサイズで1000円の材料費で完成したが、そのうちの600円がイチゴだった
味はもちろんお店のものに負けないほどおいしかった。
 来年は、もっと気合を入れて生寿司、チキン照り焼きなども自作で作ろうと思う。