追い詰められて、ようやく光秀はわれに返った
自分がやったことの重さを今になって知った
(なんとバカなことをしてしまったのか、一時の感情の高ぶりが取り返しのつかないことをしてしまった
信長亡き後の自分がいかに小さな男であったかを思い知らされた
信長あって初めて自分があったのだ、それを自らの手で無くしてしまった
こんなことをしなくても自分は織田家で最も信長に信頼されて出世競争の先頭を争っていたのだ、お屋形様が儂に畿内を与えてくれた意味を少しもわかっていなかった、秀吉よりも儂を信じていたということを
あの時点で儂の競争相手は筑前ただ一人であった、その筑前も毛利との戦で離れていたのだ、それなのに儂はお屋形様から秀吉までも奪いたいと思った
秀吉は家臣として、お屋形様のお子を貰うという前代未聞のことをしでかした
どう転んでも秀吉に勝てぬと、あの時思った、あれを嫉妬というのか
秀吉の気持ちも考えるべきだった、儂を畿内に置いているお屋形様の気持ちを量って、秀吉は秀吉で儂に嫉妬していたかもしれぬ
柴田殿、秀吉どちらも都から、お屋形様から離れたところに飛ばされて、さぞかし孤独を感じていたのではないだろうか、儂こそ幸せ者だったのに気づかなかった
それに自分のバカがつくほどの生真面目さが今になって恨めしい
なぜ秀吉のように自分を卑下して周りを笑わせることができぬ、しかも秀吉は自虐ネタを披露しながら、誰にもバカにさせぬだけの迫力と気力を持っている
秀吉にとって怖い人間は信長様だけだ
儂はどうだろう、足利義昭さまや、関白様などとも昵懇であった、秀吉には決して真似ができないことだ、だが秀吉はそんな高みの人間を意識しようともしない、価値観が儂と全く違うのだ
此度は儂は自分の人気のなさをいやと言うほど知らされた、100人いれば100人が儂より秀吉につくという現実に叩きのめされた
儂は何で戦えば秀吉に勝てるのか、人間の性質、教養、文化人との交わり、生まれ育ち、それらはすべて勝っている、なのに儂は秀吉の風下にいる、なぜだ
それさえバカな思いだ、自分は自分だと割り切って秀吉などのことは考えなければよかった、だがいつも信長様を真ん中に置いて、儂は秀吉と左右の手を引っ張り合っている気持ちが抜けなかった
秀吉は少しも、そんなことは思ってなかっただろうに、儂は独り相撲をとっていたようだ、だから信長様の関心を引こうと強い自分を演じて見た、それが裏目に出て、あれからのお屋形様は儂に対して、できぬことを次々と命じた、わしは本気で怒りに燃える信長様を見て、初めて恐怖を感じた
「殺される」「追放されて野垂れ死にだ」「何もかも失って、家臣や妻子を路頭に迷わせる」それが現実となってわが身に降りかかって来た
あの重苦しさ、苦しさからどう逃れるか、他に何も考えられなくなった。
なんと愚かであったろう、あれは信長様の儂に対する警告だったのだ、なぜなら都周辺で万余の兵を率いる者は儂しかいなかった、信長様にとって儂こそが一番身近な親衛隊と考えていたに違いない、そんな優しいお屋形様を殺してしまった、いまさらどうにもならない、明日、儂は討ち死にして、あの世でお屋形様に詫びよう
この世は柴田と秀吉にくれてやる、儂はあの世でお屋形さまを独占するのだ
どうじゃ秀吉、お前のもっとも大事なものを儂は独占するのだ、ははは、儂の勝だ、秀吉よ、この修羅の地獄でお前は果てしなく生き続けるがよい」
明智勢もよく防戦して城は落ちないまま夜になった、光秀は月が西に傾いた深夜に供20騎だけ率いて城から脱出して京方面に逃げ出した
そして逃げる途中で小栗栖と言うところで落ち武者狩りの百姓たちに襲われて、竹槍を脇腹に受けて落馬、首をかき取られたという
あまりにも哀れな最後であった。信長を討ってわずか11日後のことだった。
上り詰めた男で光秀のような不器用な男も珍しい
京を制圧した秀吉は、明智左馬之助光春が籠る坂本城に兵を送り滅ぼし、京から近江にかけて残党狩りも行った
光秀を討ち取って都に凱旋した秀吉は、光秀の動機を思った
長曾我部との一件は知らない、(光秀は誰ぞにそそのかされたのか? あれだけ冷静な男が、お屋形様にとって代わろうなどと言う夢物語は思うまい、そもそも現実的でないことは誰でもわかるし、現実主義の光秀は尚更であろう
その証拠に光秀は味方を固めぬままに動いた、衝動的な理由としか思えぬ
儂が謀反を起こすなら、まずは冷や飯食いの柴田勝家と丹羽を誘い込んだうえで長岡親子を誘い、毛利、長曾我部にも加わる様に遣いを出し、京、大坂、美濃、伊勢と一気に攻め込むがな
その時、儂は(秀吉)はどうする・・・くだらぬ・・終わった話はどうでもよい、これから儂がどう生きていくかが問題なのだ。
秀吉は御所に上がり帝に拝謁した、先には光秀に頼った朝廷は、今度は秀吉に太刀などを下されて、京の治安を命じた。
坂本城の明智光春(秀満)は光秀の家族をすべて刺殺して自らも自害して果てた、また斎藤利三も捕えられて首を切られ、光秀の首と共に京で晒された。
討ち取られた明智方の兵は数千にものぼった。
この斎藤利三の娘、今はまだ子供のふくが後に、三代将軍徳川家光の乳母となって大奥で権勢をふるった春日局(かすがのつぼね)となる。
あまりの秀吉の迅速鮮やかな戦であったため、三河に戻って出陣準備をした徳川家康でさえ光秀討伐に間に合わなかった、だが家康もただでは起きない男であった「われらはこれより方向を転じて甲斐にまいるぞ」
同じく北条も武蔵から上野へ攻め込んだ、当初は小競り合いもあったが、すでに密約ができている、織田家臣同士の内戦のうちに北条は上野から下野の一部を、徳川は甲斐、信濃を刈り取り自由と取り決めた。
関東を賜った滝川一益には北条の大軍が襲い掛かって破り、滝川は命からがら伊勢を目指して落ちて行った
信濃を預かった森長可も同様であったし、甲斐の守護となった河尻秀隆などは一揆に誅殺されてしまった、そんなわけで関東甲信越からは織田家の家臣は消え去って広大な土地ががら空きになったのだ。
そのため徳川、北条の二大名は一気に領土を広げた、徳川家康は今や信濃、甲斐、駿河、遠江、三河の五か国を領して、その石高たるや135万石に膨れ上がって4万の軍を動員する力がついた。
微妙だったのは武田の旧臣の真田昌幸であった、主家は滅んだが織田信長は武田勝頼を討ち取って満足したのか、北信濃までは攻め込まなかったので、真田は命拾いした。
しかし今度は徳川と北条が攻めあがって来た、真田は信濃と上野に領土が広がっていた、その双方に敵が上ってくる
昌幸は考えた、後に戦国の策士の一人に数えられる真田昌幸は、設楽原で兄二人が戦死したため、養子に入っていた武藤家から戻って真田家を継いだのだった。
領土はまだ小さく20万石にもならない、昌幸は武田信玄を師と仰いでいるという噂がある徳川家に臣従することに決めた
家康も武田家の智将と言われた真田幸綱の息子である昌幸の臣従を歓迎した、今度の侵攻は甲斐、信濃を奪うだけではなく、武田信玄が育てた戦国最強の武田の旧臣たちを拾い上げるのも目的であった
野に埋もれていた多くの武田の名族の子らを家康は家臣に取り立て、井伊直政に武田を見習って赤い武具をまとった「赤備え」部隊を任せた、これが「井伊の赤備え」と恐れられるようになる。
せっかく得た武田領を織田は失ってしまった、危機一髪だった上杉景勝も息を吹き返して上州の北側、信濃の川中島、越中東部まで勢力を復帰させた。
そして越後内の反乱勢力を退治して越後上杉も謙信の頃の力に戻りつつある
また佐渡島にも攻め込み、土豪の本間氏を従えた
真田昌幸は以後、上杉、徳川、北条と次々と主を替えて生き延びていく、まさに昌幸の生き残り戦術が全開するのである、そして小藩ながらも、その技術のおかげで真田家は信州で、明治維新まで以後300年続くのである。
戦後処理に忙しい秀吉のもとに北陸軍の柴田勝家から書状が届いた
「こたびにっくき謀反人、惟任日向(明智光秀)を織田信孝様が打ち取られたとのこと、ご不幸中ではあるがまことにめでたい
右府様(信長)の仇討に、そなたが助勢したことは誠に殊勝である、この柴田勝家からも礼を申す、間もなく儂も都に向かうので、それまではしっかりと丹羽殿に従い、三七様、三介様をお守りして励むように」
読み終えて秀吉は気分が悪くなった、「佐吉、燃やしてしまえ」書状を荒々しく丸めて、石田三成に放り投げた。
「あの田舎爺いめ、人を馬鹿にしおって、うぬはなんの手柄も立てずに儂の、上司気取りでいるのか」