今、織田家で信長の12人兄弟と信長の男子13人の中で残っている有力な者は
信長の弟、伊勢安濃津城12万石の三十郎信包(のぶかね)、末弟の長益(ながます)、そして子では信雄、秀吉の子となった秀勝くらいしかいないのだ、しかも長益は本能寺の時には京に居て、信長と長男信忠が討たれて死んだのに運よく逃げることができた、だが逃げただけでその後の仇討には役に立っていない
信雄も兵を率いて近江まで出たが僅か3000ではいかんともできず、大和から秀吉に合流して面目を何とか保った程度である
正直なところネームバリューで祭り上げられている男だった。
足利将軍、足利義昭と同じように考えがちだが、義昭のハングリー精神と野心、策謀、復活のエネルギー、宣伝力、大名たちをまとめる能力などすべてで信雄は義昭に遠く及ばない
足利義昭は将軍になるべくして努力でなった人だったが、信雄は秀吉や家康の天下取りの道具として使われて、用事が無くなって捨てられた人間だったと思う。
だが結論を先に言えば、秀吉の豊臣家は二代で滅んだが、信雄は屈辱にも耐えて小大名となっても明治維新まで子孫をつなげたことは「あっぱれ!」と言えるであろう。
信長の兄弟、子供で明治まで大名として続いたのは、この信雄と長益の2家ある。
戦国大名は戦で亡くなる者が多かったから子供もおおぜい作った、それゆえ本妻だけでは間に合わず側室を持つことは、あたりまえとされていた、今の時代なら「男尊女卑」どころか「ハラスメント」と非難されるであろうが、当時の大名家では必要なことであった
信長のように12人兄弟、13人の息子があってもこの通りだ
徳川家康も男子を多く作ったが、長男は20歳で切腹させられ、次男は秀吉など他家の養子に、三男秀忠が徳川二代将軍となり、四男忠吉は戦傷がもとで27歳で死去、五男も20歳で死去、六男忠輝は謀反の疑いで改易遠流、七男は6歳で亡くなる、八男も5歳で早世
戦国を生き抜いた家康の子は二代将軍の秀忠と、権限を取り上げられ罪人として92まで生きた六男忠輝だけしかいない。
徳川の天下が定まってからの九男、十男、十一男は徳川御三家の祖となる
このように男子が多くても生き残るのは難しいことだった。
話が脱線したようだ
4月に柴田勝家が滅び、5月早々に織田信孝が切腹させられ、こうなると孤立無援の滝川一益もいよいよ苦しくなってきた
伊勢、津城の織田信包や蒲生氏郷、そして織田信雄の軍に攻められて、ついに頭を丸めて降参した。 秀吉はこれを許した、もはや何の力もないと見たのだろう
同時に捕えてあった柴田勝家の甥、佐久間玄番盛政の処分も行った
「許すから家臣になれ」という秀吉に対して一笑に付して
「儂の親は柴田勝家様しかおらぬゆえ、千万の黄金を積まれようと、天馬を賜ろうと儂の心は変わらぬ、秋枯れの木の葉のような前田利家とは違いますゆえ、のう利家、そういえばおぬしは犬千代であった、そうそう犬であったわ」同席していた前田利家を罵って
「こうなれば、ありがたく死を賜るのみじゃ火あぶりでも絞殺でもお好きになさるがよい、刑場への道すがらに所望したき物があるがよろしいか」
秀吉もあきれたが聞いてみた「何が望みじゃ」
「それでは申す、この玄番の死に装束じゃ、まっさらな下帯、赤い襦袢の上に遊び女の派手な衣装を着せて、船曳の太縄でがんじがらめにして京の町を引き回してもらいたい、見物人は多いほど良い」
秀吉は大胆な申し出に驚いたが大声で笑い
「さすがは剛の者よ、玄番にふさわしい傾奇者(かぶきもの)の衣装を用意して遣わす、心行くまでわが身を楽しんでから勝家殿のもとに参るがよい」
「ありがたきかな、さすがは秀吉、織田家を滅ぼして天下を取る大悪人じゃ
あの世で親父殿と市様と楽しく暮らして、お主を待つとしよう」
秀吉相手に憂さ晴らしを吐いた盛信は刑場で斬首されて若き生涯を終えた
とうとうこの国で積極的に織田家と言って良いのか、秀吉と言うべきか、いずれにしろ、秀吉、信雄に積極的に戦を仕掛ける大名が消えてしまったのだ
柴田勝家との決戦前には、遠く越後の上杉景勝に和睦の手紙を送って、越中の佐々を牽制するように頼み、それを上杉は承諾したことですでに和睦がなっている
毛利は既に秀吉に好意を持って協力を受けいれていた、
畿内は既に秀吉が抑えているが、畿内周辺の大小大名は今の状況をどう考えていたのだろうか
信長が本能寺に倒れる時点で考えて見れば、四国の長曾我部、不穏な状態が続く紀州、遠国ではっきりした状況が不明の九州と奥州以外は、徳川も含めて織田信長に従属していたことは間違いない
そして信長が死んで、その後は誰が織田家を率いるかは、徳川、上杉、北条、毛利、長曾我部という有力大名たちは静観していた。
その中で、わずか1年で織田信雄、羽柴秀吉のタッグが勝利者となり、他の織田家臣団のすべてがこの二人に臣従した。
過去を考えれば織田信雄は織田信長の継承者となったわけで、羽柴秀吉は信雄を補佐する一番手、かっての足利義輝と細川勝元の関係に似ている
足利将軍家が斜陽化していたように織田家も信長の時のような輝きが失われ始めていた
秀吉がバックで支えているから信雄が織田家の主に君臨できていると誰もが思っていたであろう
秀吉が「天下人」を意識したのは、まさにこの時だと思われる
信長が天下を意識したのは足利義昭を奉じて上洛したのち、天下人の実態を知った時だと思われるから、主を上回る才能を持った従が、主の力の限界を知ったとき時代が変わるのだと思う
織田信雄という蓋を取り除けば、その上にはもはや太陽が輝いているだけであった、それに秀吉は気づいたのだ、信長とは、あまりにも器が違う
(いかにして織田家臣団が納得するように信雄を退陣させるか)そこに秀吉の全神経が投入された。
そして、こうした危うい位置に自分がいることに信雄が気づくのか、それが時間の勝負であることをも秀吉は気づいた。
(どのような形で信雄から自分に戦を仕掛けさせるか)、そこだと思った
秀吉から信雄に仕掛ければそれは光秀同様「謀反」となる、それは避けねばならぬ、だが理不尽に信雄が秀吉を排除しようと戦を仕掛けてくれば、それは秀吉の防衛のための戦争となる
「そうか、それじゃ 信雄単独では儂に仕掛けてくることはあるまい、信雄に後ろ盾を持たせることが必要なのだ」
それを官兵衛に相談した、すると官兵衛はこともなげに言った
「おるではありませぬか野心満々のお方が」
「徳川三河のことか?」
「さようでございます、信雄様が徳川様を頼るように仕向ければ、なんとか動き出すのでは」
「そうじゃのう、いかにしようか」
「約束した美濃を渡さねばよろしいのでは」
「なるほど、それでは誰を使う」
「信雄様のご家老衆を調略いたせば面白いのでは」
「離反か」
「いかにも、疑心阿暗鬼にすれば何かがおきまする」
「儂に通じて利をむさぼる悪家老にするということじゃな」
「まさに」
「よし、すぐに手を打ってくれ」
「はは」
打てば響く、以心伝心、二人の気持ちは短い言葉だけでつながっていく