秀吉もいよいよ本気になって島津攻めをする気になって、37か国の諸将を大坂に集めて軍議を開き、年明けの2月に本格的に九州攻めを開始することを決めた。
派遣する兵数は20万とも25万ともいわれ、そのための兵糧や弾薬の準備だけでも3か月はかかるのであった、これを石田三成ら三奉行と、輸送を商人上がりの小西弥九郎らに任せた、1000艘より更に多い軍船や輸送船が大坂湾から瀬戸内に溢れかえった、そして尼崎の湊を主に、堺を副にして続々と兵員や物資を筑前に向けて発進した。
侵攻作戦では軍勢を2つに分けて薩摩を目指すことにした。
肥前、筑後、肥後方面は秀吉が率いる。豊前から日向方面は豊臣秀長が率いることになった。
そして、この噂が流れると、それだけで筑前、豊後の島津方の小領主は降伏した
いよいよ秀吉、秀長が九州に入ると、その威光だけで豊後から日向、肥前から筑後、肥後の地方領主の多くが戦わず降参する者が次々と現れた
秀吉はそれらの多くを許し、先陣に加えたので、軍勢はますますふくれあがった。
九州はすべての国を併せて200万石、島津固有の領土である薩摩、大隅は50万石ほどで、早くに占領した日向、肥後南部を併せても70万石ほどであった
これは初期の尾張一国ほどでしかない。
兵数に換算しても最大2万人しか雇えない、なのに薩摩、大隅、日向で薩摩は4万の兵を養い、高価な鉄砲は万挺も準備されている、これはなぜか
薩摩はもともと米作りにはあまり適しているとは言えない土地である、ところがここは上方からルソン、琉球、マカオへの往復の中継地点として本土列島の最終で最初の大きな港湾都市なのだ、アジア地図を見ればよくわかる
朝鮮や明国に渡るには博多や下関が良いが、南下するには鹿児島が最適だ
種子島、屋久島、琉球列島を下り、高山国(台湾)、ルソン(フィリピン)、マカオ、インドと島伝いに行けるのだ。
薩摩が貿易での莫大な利益、そして商人から得る税、それは米の収穫などより遥かに大きかったに違いない、それが薩摩の強力な軍事力を支えていたのだろう。
大友が九州最大の勢力を誇っていた時は100万石を超えていて、島津の日向(宮崎)を狙って大軍で攻め寄せた。
天正6年(1578)勢いのままに4万の大友軍は日向を南下して、薩摩の堅城、高城を包囲した、守備兵は僅か500だが、城は要塞堅固の山城で兵数より多い鉄砲で武装しており、独特な地形とそれを利用した空堀で大友軍は近寄ることができなかった
高城からの知らせを聞いた島津は、島津義久が大将となって3万の兵を率いて耳川までやって来た。
そして大友軍の主力を挑発して自陣に誘い込み、得意の鉄砲で完膚なきまでに大友軍を叩きのめした、大友の名のある武士が相次いで討ち死にして完敗で逃げ帰った。
それ以後、攻守は反対になり島津が豊前目指して攻めあがったのだ。
また天正12年には味方である肥前の有馬が、北九州最強の竜造寺の4万の大軍に攻められた時も、島津家久が5000を引き連れて救援に向かい対峙した
数的に圧倒する竜造寺の本隊を、巧みに沖田畷の沼地に誘い込んで、またしても1000挺にも及ぶ鉄砲隊がこれを三方から乱射した
そのため、勇猛なる大将、竜造寺隆信は戦死、首を取られ、竜造寺は敗走した、まさに九州の桶狭間と言って良いほどの島津の戦法であった。
九州の大名には、この大友、竜造寺という島津以上の戦力を擁する大名がいたにも関わらず、島津に敗れたのは装備の差と、総大将を中心に三人の個性的な弟、それに忠実な薩摩武士団の結束であった。
薩摩は国内では唯一閉鎖的な地域社会と特別な文化を持っている
日本の中では閉鎖的でありながら、海外に対しては日本では長崎、博多、堺と同じほど開放的な貿易を行っていた
1543年に目と鼻の先の種子島に南蛮船が漂流して、そこで鉄砲が伝えられたが、種子島の領主は小大名ゆえ、これを持て余し主家の島津家に、処置を任せた
それ以後、島津は信長などよりも早くから鉄砲の部隊化を進めて、南蛮人に教わって製造も開始した、また火薬、弾薬も比較的簡単に手に入る環境であったため九州でも抜群の鉄砲王国となった
島津は他国が「卑怯な武器、下賤の武器」として消極的だったのに対して、戦術の一つとして職業軍人である武士階級の鉄砲隊を編成した
足軽鉄砲隊に比べて、使命感、命を惜しまぬ勇気は10倍も違ったであろう、また薩摩人の性格は独特で、上意下達は絶対であり、言い訳などという言葉は知らなかったのではないだろうか、それが島津の強さであった。
秀吉亡き後、1600年には関ケ原の戦で島津が属した西軍(豊臣家臣石田方)は敗れ、7万の敵の中に取り残された島津隊1500は、石田三成など敗者が全て後方に逃げたのに対し、大将の島津義弘を押し包み、先陣には副将の島津豊久、殿軍には重臣の長寿院盛淳が兵を率いて、正面の徳川軍に向かって一斉に突き進んだ
そして徳川方の先陣、福島正則隊など外様諸隊を圧倒して潜り抜けると、今度は徳川旗本部隊が現れた、そこで大きく右に進路を変えて、伊勢方面に向かって逃走を開始した、薩摩までは250里(1000km)はあるだろうに
家康の息子、松平忠吉、その舅、井伊直政隊が追撃する、島津隊は10人20人と馬を下りて、迫ってくる敵を待ち受け鉄砲を撃ちかけると、そのまま敵の中へ切り込んで差し違える、そんなことを何十回も繰り返し
いよいよとなると、長寿院、島津豊久が相次いで島津義弘の身代わりとなって時間を稼いだ末、討ち死にを遂げた
おかげで島津義弘と生き残った100にも満たぬ家臣は堺に落ち延び、そこから島津出入りの商人に匿われて、彼の船で無事薩摩に戻ったのである
このように、島津の侍鉄砲隊の活躍が島津を九州の覇者にしたのは間違いない
関ケ原でも、この戦法で追いすがる井伊直政、松平忠吉に鉄砲傷を負わせ、それが原因で二人とも後日死亡している。
こんな素晴らしい戦術と不屈の魂をもった誇り高き島津であったが、やはり20万の秀吉軍と、島津から寝返った九州の諸将数万相手には勝利は無理と悟った。
そして総大将の島津義久は頭を丸めて入道となり、豊臣秀吉に会見した
秀吉もさりとての者、義久を一目見るなり、その強さを見抜いた
柴田勝家などの強さとは違うカリスマ的オーラを感じたのだ
(この男が畿内辺りに出現していたら、信長様と互角の戦を展開したに違いない、武田信玄に匹敵する器だ)そう思った
あの命知らずの薩摩武士から尊敬され慕われていて家臣団を完全掌握、勇猛な三人の弟からも信頼されているという島津義久、(これは扱いをあやまってはならぬぞ)
すでに死を覚悟してきても堂々と秀吉と対面している義久を見ていると、友情すら感じてくる
「降伏条件を申し渡そう、島津には薩摩、大隅を残して他は返上すること
日向の一部は島津家家臣に与える、島津家と家老たちは相当の人質を大坂に送ること、これに不服なければ、これにて和議を成立させる」
島津の領地は70万石残ったのである
もちろん敗者の島津義久に異存があるわけはなかった、思ったより寛大な処分に秀吉の人柄の大きさを見て、義久もまた秀吉のファンになった。
こうして秀吉の九州統一も、島津がわりと早く降参したため大した大戦もなく短期間で終わった