夏が終わり、秋の気配が漂ってきた
「殿、いかがでござるか、殿の目には今の世がどのように見えられる」
「今の世とは?」官兵衛の問いかけに秀吉が手を休めた
「信長様も、信忠様もいなくなった、信雄さまと信孝様はいがみ合っておられる、三法師様は童じゃし、柴田勝家殿は北陸、毛利は殿に心服しております
いかがかな? みんな自分のこれからの心配で周りが見えておりませぬ。殿が先手を打つにまたとない機会でござりまするぞ」
「葬儀をゆうておるのか」
「まさに、本来であれば信雄殿と信孝殿が力を合わせて葬儀を執り行うは当たり前のことでござる、だがあの二人美濃と尾張の国境争いが忙しいと見えて、信長様の葬儀など頭にないのでござる」
「官兵衛、すぐに準備をいたせ」「承知いたしました」
10月秀吉は織田家の家臣団に向けて、信長と信忠の葬儀の通知を出した
喪主には信雄でも信孝でもなく、自分の子となっている秀勝を喪主とした
秀勝は信長の4男であり、3男信孝に次いで織田家の権利を持っているから義父秀吉とのタッグは信孝に反論の余地を与えさせないものであった。
当然ながら柴田、滝川、信孝がこの件について異議を申し立てた、喪主は当主となったお屋形様(三法師)が成るべきで、その三法師を今は得ている信孝が後見となって行うべきだという。
三法師の後見者は信雄と清須会議で決まったが、信孝が市と三姉妹を岐阜城で擁護していることを盾にして三法師をも強硬に連れて行ったのである。
だが秀吉は、それを逆手にとって信孝のやり方は違法であるゆえ無効であると主だった武将に訴えて相手にせず、予定通り盛大な葬儀を行ってしまった。
秀吉が主催して葬儀を行ったことで、織田家の宰相の地位は誰もが認めるところとなった、それは朝廷も同様で一気に羽柴秀吉に注目が注がれるようになった、朝廷はいつも武家の権力者を注視している。
秀吉は更に手を打った「お屋形様であるはずの三法師様は、織田信孝が岐阜城に軟禁して政務に支障がある、このようなことでは織田家の行く末も危うい、従って信孝が三法師様を中将様(信雄)に帰すまでは、中将様にお屋形となっていただくのが正しい筋道である」と信孝を無視して、織田信雄を新たな、お屋形として柴田、滝川らの反対を押し切って強行してしまった。
しかも信孝が、それでも三法師を返さないと言って今度は「三法師様が成人あそばされるまで中将様がお屋形である」と当初後見役であったはずを、お屋形に繰り上げて信雄の、お屋形にすり替えて在任期間を勝手に延長してしまった
だが、柴田ら以外に、秀吉のやり方を非難する者はほとんどいなかった、すでに秀吉の地位はゆるぎないものになりつつあった。
こうなると後手後手に回る信孝、柴田であったが起死回生の一手を打った
「元、浅井長政室であった叔母の市姫は、柴田勝家室となる」
織田信孝名で、全家臣団に通知された、三人の娘たちも柴田勝家が義父となって北の庄に引き取った。 市の夫となれば勝家も織田一族となる
突然の反撃にさすがの秀吉も地団太踏んだが、百戦百勝とはいかないのが人生である、次の手を打つことに集中した。
柴田、羽柴の駆け引きはますます激しさを増してきた。
秀吉は改めて敵味方の絵図を整理してみた
備前岡山から但馬、丹後、丹波、大和、山城までは秀吉方である
伊勢.伊賀は滝川と信雄が半々 北近江から若狭、北陸、越中までは柴田
美濃は信孝、尾張は信雄
微妙なのは美濃にも領地を持つ池田恒興、森長可の義親子の動静だ。
そして長い年月、柴田の与力大名として能登を領している前田利家は義をとるか友情をとるか微妙な位置にある。
もはや織田家の主導権を巡る戦が避けられないことは誰の目にも明らかになった、織田家だけではない、織田領周辺の大名たちも注目している
いまや5か国を得た徳川家康にとっても、織田家中の権力の行方は見逃すことができない、徳川が新たな領土を得るには、もはや越後しかない
北条も織田も同盟者だからだ、だが織田の動きによっては織田領にもほころびが生じる可能性はある、軍備を整えて虎視眈々と狙っている。
毛利も秀吉が勝てば現状は変わらぬが、柴田が勝てば隣接する備前の宇喜多も再び毛利に戻るだろう、播磨、伯耆、因幡、但馬、丹波、和泉、河内が崩れる、旧領奪還のチャンスは十分に出てくる、いや天下取りに参加できるかもしれない。
四国の長曾我部にしても今は四国統一のチャンスだ、また和泉、紀伊を襲うチャンスも出てくる
柴田が負ければ、越後上杉は越中から能登、飛騨まで攻め込むかもしれない。
いずれにしても戦国地図は変わる可能性が出て来た、織田信長によって日本統一が目前に迫ったのに、明智光秀の反逆によってまたも戦国時代に戻る恐れが出てきたのだ。
奥州では、伊達輝宗の後を継いだ若武者伊達政宗が破竹の勢いで奥州を席巻し始めている、周りの中小大名を攻めて領土は3倍以上に膨れ上がった
片目が失明していて「独眼竜政宗」の異名がついたこの若者は、敵に捕らわれた父、輝宗を敵将共々撃ち殺して敵領を奪った猛将でもある。
常に越後を北から狙っているし、母の実家である羽州(山形)さえ狙っているのだ、陸前、奥羽併せれば200万石あるが、政宗は既に80万石を手に入れて、更に勢力を伸ばそうとしている、まだ20歳の若武者である
九州は島津、大友、竜造寺が三つ巴で激しく争っていて行方は分からない。
8月信孝の岐阜城にみすぼらしい男がやって来た、滝川一益だった
いかにも敗残の死線を潜り抜けてという様であった
森長可は信州川中島にあって帰路には特に強大な敵はなく、危険なのはせいぜい木曽氏くらいであった、そのため3000の軍兵を率いて堂々の退陣ができた
だが滝川は森より100kmも東の上州にあったため、北条軍が5万の大軍でやって来たのを2万の兵でまともに引き受けたため、ほぼ壊滅的な打撃を受けた
滝川自身、数百騎で落ち延びるありさまだった
しかも上州から北信濃には北条に降った真田が織田方の落武者狩りをしている、また南に行けば甲斐の山中には、織田に滅ぼされた武田遺臣が数十、数百で潜んでいるから、これも危険な存在である
そんな連中と戦いながら逃げるうちに、とうとう10数名が従うだけになってしまった、昼は山中に潜んで寝る、夜に逃避行を開始するという毎日で4か月かかってようやく美濃までたどり着いたのだった。
滝川はここで二夜落ち着き、翌日には留守居の家臣たちが伊勢から迎えにやって来た、これでようやく滝川も再び武士の体面を保つ姿に戻った
そして伊勢に帰って行ったが、まもなく信孝に文が来た、それによると
「某の領地の大半が信雄殿の管理地となっていて、滝川家の被官たちは追い払われ、土豪は信雄殿の配下に転じている、某が無事に戻ったからにはすべての領地を返してほしいが信雄殿は良い返事をしない、信孝様と柴田殿から信雄殿に働きかけて、旧領の返還をするようお口添え願います」
柴田と信孝はすぐに動いた、しかし信雄は「死んだに等しい滝川は、父の弔い合戦にも間に合わず醜態をさらした」と言って、滝川の本拠である桑名城や安濃津城など長島までのわずか3郡ほどを返すにとどまった
滝川の中で信雄への憎しみが高まり、急速に柴田、信孝に接近した。
「滝川殿、北伊勢はもともとそなたのものであった、儂の武器と兵を貸すゆえ、身近なところから攻め落としていくがよい」
信孝は密かに滝川の応援を約束した。