一昨年、持ち続けた何もかも手放した
良いもの、悪いもの、軒並み断捨離した感がある、今までの人生の大部分を捨て去った。
形あるものは当然ながら、形のない数々の欲、事業欲、名誉欲、金銭欲、物欲も
これ捨ててしまったら、まさに「肩の荷が下りた」のか「スーっ」と軽くなった。
貧乏神にまで見捨てられると心まで軽くなる
こうなると息子や女房殿に対する小言や意見、怒り、これもぜんぜんする気が無くなった、これによって腹も立たず、血圧も上がることがなくなった。
市議会議長の息子があんなことになる、国家のトップの息子が、愚かなことをしでかして袋叩きに会って失職する
いくら名誉や財産があっても、不幸はやってくる、欲のある所には必ず不幸が多かれ少なかれやってくる
それは身を持って体験したからよくわかる。
なるほど「あれくらいは残しておいてよいだろう」なんて未練があるうちは駄目だ、最初からなかったくらいに思えないと、私の今の心境にはなれまい。
いくら捨て去ると言っても、家族を捨ててはいけない、そこまで捨てるとは言ってない、絶対捨ててはいけないものは捨てない
人生の邪魔になるもの、その多くはやはり「欲」だ、物も金も生きていくだけあれば、それ以上欲しがってはいけない
ただ、空から降ってきたものまで捨てることはない、それは神様からの贈り物だ、だからといって天に向かって催促するのも宜しくない。
あくまでも、無欲で生きていることが本当の幸せをえることにつながる。
何もしなくても、去っていくものは去っていくし、残るものは残る
「無い」ということは結構良いことなのです、「無い袖は振れないのだから」
そこまであきらめれば、あとは自然体で生きていればよい
余計な心配はご無用、心配するから悩みが出てくる
「ケセラセラ」なるようになると割り切れば、なるものだ
毎日、仏壇に向かって「南寿阿弥陀仏」と経を10遍唱えればなおよい。
文化的に生きる方が、戦場で生きるより遥かに良い
親鸞聖人の偉いのは、90何歳かで入寂されるまで、弟子は持ったけれど教団と言うものを持とうとしなかったこと。
そのかわり公に持つことを禁じられていた妻や子を隠すことなく持ったし、それも複数、肉はともかく魚も食べた
最後まで念仏三昧で、それ以上の欲は持たなかったのだ、托鉢さえも嫌ったと言う。
念仏は阿弥陀様に物をねだるのでもなければ、親の冥福を祈るのでもないと言う、ただただ自分の福の為に唱えるそうだ
でも、そんな親鸞さまでも息子との確執は避けられなかった、それは「出家とその弟子」を読むとわかる。
だけど親鸞さまには、それも含めて飲み込んでしまうだけの大きな信心があったのだろう、日輪の大きな光は何もかも飲み込むだけの慈悲がある
飲み込む、飲み込んでしまえば、それは無くなってしまう、飲み込むだけの大きな心もまた無心から生まれる
欲を捨て、それでも生きられたのは、天からごはんや銭がたまに降って来たからだろう
無欲無心でいれば、天からお宝が時々降ってくる、正しい行いを続ければなおのこと、天はあなたを見ている
但し贅沢するほどは降ってこない、僅かな稀な小さな贅沢ができれば上等
あとは、今日一日、生きていれば「ありがとうございます」
それでいいのだ、それが幸せなのだ、但し家族を飢えさせるようではだめだ
飢えさせないだけの信心が必要だ、信心・・自分の為にだけ祈る
何を信じる、それは神仏を信じるだけではない、自分自身を信じることだ
自分は正しいと信じることが出来れば、もう大丈夫だ
手放したわけではないが、自然とへっていったものに「酒」がある
あれほど「酔いどれの酔っ払い」だったyottin
この頃は、一週間に2回ほど飲むだけで、それも缶ビールなら1本、日本酒や焼酎なら写真のグラス位を一杯、ウィスキーならWで一杯
そんな程度だ、さすがに仲間と集まる時は飲めるだけ飲む、それが月一くらいのささやかな楽しみだ。
良い酒があれば、それに越したことはない
たまに天から降ってくる、良い酒は買ってまで飲まない。

そんなくらい、腹5分目くらいの幸せで結構、それで幸せを感じれば「しあわせ」と言うものさ。