昭和20年8月に広島と長崎に原爆が投下されてそれぞれ10万人近い市民が一瞬にして殺害され、その後も被爆二世、三世が亡くなったり、苦しんだりした。
それより半年ほど前の3月10日深夜零時から2時間ほどの間に数十万発と言う焼夷弾(発火爆弾)が寝静まった東京下町一帯に落とされて、10万人の東京市民が焼き殺された。
今日で、あれから78年たったから、私の祖父母も今日が78回忌となる
東京都城東区亀戸3丁目に祖父母と私の父の3人家族で住んでいたが、父は当時20歳で調布の部隊に入隊していたため難を逃れた。
祖父母と言っても、当時祖父は49歳、祖母は45歳くらいだから老人ではない。
祖父母にとって初孫の私は、これから5年後に生まれるから、当然顔を合わせていない。
空襲の夜、二人の足取りは亀戸駅方面に向かって逃げて、それ以後行方が分からない
駅方面は特に酷かったというから、そこで命が途絶えたのであろう
祖父の妹(叔母)は浅草象潟町(浅草4丁目あたり)、弟(叔父)は千住にいたが、弟だけが無事であった
身元がわからぬ炭化した遺体がそこかしこに倒れていたというし、防空壕に逃げ込んでも酸欠で亡くなったり、高熱で蒸し焼きになったという
走って来た馬が一瞬で炎に包まれて燃えたという記事も読んだ
高熱で水分が蒸発、乾燥した空気は僅かな摩擦で発火したらしい
熱さに耐えられず隅田川や十間川に飛び込んだ人は3月の冷水に溺れた
残酷なこと極まりない、今もウクライナがロシアプーチンの攻撃で大勢の国民が殺されているから他人事に思えない。
祖父はわかっているだけでも4代先まで江戸の生まれであるから江戸っ子だったようだ、(父の)叔父さんも話したことがあるが、べらんめぇ口調で、せかせかと速足で歩く人だった。
父と叔父さんだけが生き残り、二人だけで祖父、祖母、叔母さんの葬儀を浅草日輪寺で行った、費用は父が出したそうだ
その時、作ってもらった位牌は今我が家の仏壇にある。 お骨もなく、お墓もないので本所の震災慰霊堂に東京空襲被災者も祭られているから、そこが墓地だと思って、東京へ行くと立ち寄ってお参りしてくる。
祖父も祖母も父が心を込めたので良い戒名をつけていただいた
祖父は善照院***心居士 祖母は春光院***浄大姉
祖母の「春の光」、いまどきのような、ほのぼのとして良いなあと思う。
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