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「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(215) 甲越 川中島血戦 42

2024年10月01日 20時11分08秒 | 甲越軍記
 さて、板垣弥冶郎が武田を見限って、長尾に通じたのはどうしてだろうか
それには原因があった、武田家の重臣板垣の与力である曲淵庄左衛門との確執である。

曲淵は、元は甲州身延村の農家、吉六の子で、幼名は多吉という
性質はあくまで力強く、四、五歳の頃には同じ村の中では五歳ほど年上であっても多吉に敵う者はいなかった
父母は、そんな多吉を折檻して糾そうとしたが少しも効き目がなく、十二、三になると近隣のあぶれ者でさえ多吉を恐れて、身延村に近づこうとしなかった。

ある年、百日も雨が降らず干ばつとなり、田畑の水は枯れそうになったので、共同して一村の為に用水を引いた
吉六の田の隣は庄屋の田であったが、夜中に庄屋は田に出かけて、吉六の田に入る水をせき止めて、自分の田にたっぷりと水を引いた
そのため吉六の田の稲は枯れる寸前となった、それが庄屋の仕業とわかったが、吉六は相手が悪いと、何も言えないでいた
多吉は是を憎んで、夜中に田の近くに潜んでいるところに、庄屋がやって来て、またも水盗人を仕掛けた
多吉は、これを見て駆け寄り、庄屋の襟首をつかんで持ち上げて、振り回し泥田の中に投げ込んで、それを足で踏みつけると、庄屋は頭から半身、泥に埋まって息絶えた。

多吉は、当然の報いと思ったけれども罪人であることを恐れて、甲府の伯母夫婦を頼って逃れた
伯母夫婦は甲府で酒商人だったが、近隣のあぶれ者どもがやって来ては酒を飲んだ挙句、一文も払わず帰っていく
これを夫婦が止めようものなら、たちまち拳で散々に打ち据えて、罵って帰っていく始末だった
多吉もそんなところに出くわして事情を知ると、たまたま、あぶれ者が伯父を打たんとする手をひっつかみ、「銭を払え」と迫ったが、あぶれ者は、多吉が十二、三の小童とあなどり、拳を高々と上げたところを多吉は頭上にまで持ち上げて、放り投げた
あぶれ者は、頭から大地に打ち付けられて、目を回しているところへ「銭を払え、払わねば叩き殺すぞ」と脅すと、銭を投げ捨てて逃げ去った。

その後も、たびたび同じことがあり、都度多吉が出ては懲らしめたので、ついには悪党どもは誰一人、盗人酒に来るものが無くなった。

たまたま、この現場を通りかかった板垣駿河守は多吉の怪力を愛して、召し抱えて烏若と名を改めさせて草履取りとした
烏若は成長に従い、戦場にも出て度々手柄を立てるようになった。

去る、天文十三年には小田井合戦の時、三科伝右衛門と共に一番乗りを競い
勇士、広瀬郷左衛門、猪子才蔵に続いて槍を入れる
小田井も必死の防戦なれば、見事な働きで武田勢と互角に争った
その翌日の合戦前、広瀬郷左衛門は「われ、未だ良き馬を持たざれば、敵の大将小田井を討って、あの良馬をわがものとする」と言えば、鳥若も、「我は馬などいらぬ故、小田井の首をいただこう」と言った
まわりの者たちは大いに笑い転げて、「わずかな力量を鼻にかけて大言壮語を吐くなど、後になって大恥をかくであろう」と罵った
しかし、言葉通りの手柄を立てたことは、前編にて詳しく述べたので、それを読んでいただけばよろしい。

武田晴信は、広瀬、鳥若の二人の大手柄を賞して、板垣駿河守に乞い賜い、晴信の直臣に取り立て曲淵庄左衛門と改名させて、板垣の組下とする






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