おはようございます。ヒューマン・ギルドの岩井俊憲です。
「陰」の時の生き方をずっと考えているところに『人間の覚悟』 (五木 寛之著、新潮新書)の第3章「下山の哲学を持つ」がいいヒントを与えてくれました。
この本の第2章の「人生は憂鬱である」に続く第3章の「下山の哲学を持つ」は、五木 寛之氏のペシミズムの極致にあります。
五木氏は、「登頂することだけが登山の目標ではない。きちんと安全かつ優雅に山を下っていくことが、人間にとって大切なことだと私は思います」と、人生を登山にたとえて第3章を展開します。
五木氏は、登山が下界をふりかえる余裕もなく勢いをつけて必死で登っていき、やがてあの峰に登れるのだと思える喜びがあるのに対して、下りていくときには、何かを達成したという満足感と心のゆとりが生まれているはずで、遠くの眺望、身近な花の美しさを指摘し、人生後半の下山の時の哲学を説きます。
五木氏は「老いるという作法」という言葉を使いながら人生後半戦のモードの「意識の世界から無意識の世界のふるさとへふたたび回帰していく」この時期を次のように表現しています。
下山は、けっして賦役(ふえき)でもなければ、喪失感とか崩壊感覚の中の無残な日々でもないだろう、と私は思います。当然のことながら体も不自由になるし、記憶はどんどん脱落していきます。脱落していくけれど、余分な記憶は整理されていって大事な核心を選択していく過程ではないか。
以降は、私の好きな詩
老いは
失われていく過程のことであるけれども
得させてもらう過程でもある
視力はだんだん失われていくが
花がだんだん美しく
不思議に見させてもらえるようになる
聴力はだんだん失われていくが
ものいわぬ花の声が聞こえるようになる
虫の声が聞こえるようになる
みみずの声が聞こえるようになる
体力はどんどん失われていくが
あたりまえであることの
ただごとでなさが
体中にわからせてもらえるようになる
*「老い」 東井 義雄
<お目休めコーナー> 赤坂の豊川稲荷の庭