おはようございます。ヒューマン・ギルドの岩井俊憲です。
H.オーグラー著『アドラー心理学入門』の紹介の第4回目は、アルフレッド・アドラー(1870-1937)の生涯に関する、この本の第1部「個人心理学創出に至るまでのアドラーの発展」の2回目。
2.の「フロイト(1856-1939)との出会いと確執」についてです。
2.フロイト(1856-1939)との出会いと確執
ここでのポイントは、
(1)世間でよく言われているように、アドラーはフロイトの弟子であったかどうか
(2)アドラーとフロイトの対立点はどこにあったか
(3)フロイトの勢力から自立したアドラーは、どのような動きをしたか
をH.オーグラー著『アドラー心理学入門』をもとに、一部『生きる意味を求めて』(A.アドラー著、岸見一郎訳、アルテ、原題はドイツ語で“Der Sinn des Lebens(人生の意味)”1933、英語では“Social Interest(共同体感覚)”1998)を借りてお伝えします。
1898年から眼科医として個人的に開業し、それから一般開業医(内科を中心)、そうしてから精神科医になったアドラーは一貫して、病気を決して孤立したものとはみなさないで、いつも全人格を理解しようと、(つまり)精神的過程と身体的過程の間にある深い関連を理解しようと努めていました。
1902年、アドラーはフロイトの願いでその討論仲間に加わりました。しかし、この本にも書いてあるようにアドラーがフロイトの弟子であったことは、絶対にありません。
この点に関しては、H.オーグラー著『アドラー心理学入門』を離れてアドラーの最後期にドイツ語で書かれた『生きる意味を求めて』でアドラーがフロイトの弟子であったことはない、ということを論証します。
アドラーは、語ります。
私自身は一度も精神分析を受けたことはない。受けるように言われたら、即座に拒否していたであろう。(P.206-207)
また、こんなことも書いています。
フロイトと彼の弟子たちは、明らかに自慢するように、私がフロイトの弟子であったということを大いに好む。私が精神分析のサークルででフロイトと大いに論争したからである。しかし私は、一度もフロイトの講義に出たことはないのである。(P.207)
これが第1のポイントの結論です。
アドラーはフロイトの弟子であったことはない、のです。
夢の解釈についても受け入れることができない見解を持っていたフロイトの誤りからアドラーは学んでいた(P.206)のです。
それでは、アドラーとフロイトの対立点はどこにあったかのでしょうか(第2のポイント)?
H.オーグラー著『アドラー心理学入門』に戻って探ってみることにしましょう。
フロイトが仲間に対して無条件に自分の性的衝動(リビドー)の学説を受け入れるように要求したとき、アドラーは「心的生活に関するフロイトの性欲説の批判」と題する4つの講演で自分の相違する立場を明らかにしました。
H.オーグラー著『アドラー心理学入門』には、次の記述があります。
アドラーがとりわけ反対したのは、「性的衝動の学説を、心的生活の基礎的要素として、神経症や正常な人において容認すること(だった。アドラーの考えでは)それらはけっして原因ではなくて、個人的な戦いの中で作り出された素材であり、手段である」(『治療と教育』、A.アドラー著)。
アドラーは、神経症者の性的障害を人生に対する誤った一般的態度に帰したのである。
なお、アドラーとフロイトの対立点に関しては、ヒューマン・ギルド出版部から出している『アドラー心理学教科書』(野田俊作監修)のP.26-28に「アドラー心理学と古典的フロイト心理学との比較」として詳しい比較表があります。
最後の第3のポイント、「フロイトの勢力から自立したアドラーは、どのような動きをしたか」です。
アドラーは1911年に、フロイトとの理論的な対立から7人の他のメンバーと一緒にウィーン精神分析協会を脱退しました。
一時期は、ウィーン精神分析協会の理事長と雑誌の編集委員の一員の地位にありながら、それらを捨てて身を退けたのです。
アドラーは当初、他のメンバーと共に「自由精神分析協会」を創立しましたが、翌年(1912年)「個人心理学会」に変更し、その後、自由に羽ばたくようになるのです。
ただ、その後のアドラーの目覚しい活躍は、大いに注目に値するのですが、残念ながらこの本では書かれていません。
気迫のある方は、『アドラーの生涯』(エドワード・ ホフマン著、岸見一郎訳、金子書房)をお読みください。
◎『アドラー心理学教科書』『アドラーの生涯』共にヒューマン・ギルドで取り扱っています。
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