○中沢新一『僕の叔父さん 網野善彦』(集英社新書)集英社 2004.11
網野善彦を初めて読んだのは、世に出たばかりの『異形の王権』(平凡社, 1986.8)だったように思う。それから網野善彦, 上野千鶴子, 宮田登共著の『日本王権論』(春秋社, 1988.1)が出て、同じ年に中沢新一の『悪党的思考』(平凡社, 1988.7)が出た。
当時、『チベットのモーツァルト』で華々しくデビュー(?)していた中沢を、私は名前だけ知っていた。へえ、このひと、日本のことも書くんだ、という物珍しさから『悪党的思考』を手に取った。その私小説ふうなあとがきに、幼少期から自分に日本史の手ほどきをしてくれた懐かしい「叔父さん」の肖像が語られていて、最後にそれが歴史学者の網野善彦である、という種明かしがさらりと加えられていたと思う。私はこのとき初めて、分野も世代も異なる2人の学者の意外な結びつきを知った。ついでに言うと、中沢の父・厚が『つぶて』(法政大学出版局, 1981.12)という、「ものと人間の文化史」叢書の1冊の著者であることも、このとき知った。私は学生時代にこの叢書を愛読していたので、一層びっくりした。
あれから15年。網野史学はアカデミズムの世界では、なお異端視されているらしいが、多くの読者と共感者を獲得した。私もそのひとりである。一方で、昨今は、網野史学といえば「無縁」「アジール」「農業民/非農業民」「海の国」など、いくつかのキーワードで、誰でも簡単に要約できると思われているフシがある。
しかし、本書では、中沢新一という恰好の案内人を得て、実際の網野史学が、実に大きな「仕掛け」の上に構想されていたことが改めて示される。日本どころかアジア的生産様式を超えて原始社会にさかのぼり、一切の支配・権力から自由であろうとする、人間の根源的な欲望に根拠をおく壮大な思考の枠組みが明らかにされる。正直なところ、私はここまで深く網野さんの本を読み込んだことはなかった。耳慣れた網野史学を高笑いとともに吹き飛ばすような、爽快な再発見が本書にはある。
ところで、「天皇制との格闘」は網野史学の重要な主題のひとつであるが、著者の中沢新一は、興味深い体験を告白している。近所の葡萄酒工場にやってきた昭和天皇に遭遇したとき、連日、万歳の練習にうんざりしていたにもかかわらず、「なにかとてつもなく無垢なものが、自分の前を通り過ぎていったように感じ」不思議な感動に打たれたという。子供の無知を笑うのは易しい。でも、こういう感動が存在することを認めたところから、天皇制との根源的格闘が始まるのだ。
中沢家の自由で知的な雰囲気、とりわけ大好きな「叔父さん」をめぐる著者の回想は、生き生きと色彩豊かで、光り輝くような明るさに満ちている。だが、最終章だけは、号泣を誘われそうになった。魂が魂をよばうというのはこういうことか、と思った。
著者はこの文章の大半を山梨の実家で書き、「そっと襖を開けると、人のいないはずの座敷には煌々と白色電球が灯り、そこに父親や網野さんが座って私のほうを見上げているのが、見えてくるようだった」と言う。そして、亡くなった人々や忘れられた人々を呼び戻す「オルフェウスの技術」、実はそれこそが網野史学の根底にあるものではないか、と語るのである。
網野善彦を初めて読んだのは、世に出たばかりの『異形の王権』(平凡社, 1986.8)だったように思う。それから網野善彦, 上野千鶴子, 宮田登共著の『日本王権論』(春秋社, 1988.1)が出て、同じ年に中沢新一の『悪党的思考』(平凡社, 1988.7)が出た。
当時、『チベットのモーツァルト』で華々しくデビュー(?)していた中沢を、私は名前だけ知っていた。へえ、このひと、日本のことも書くんだ、という物珍しさから『悪党的思考』を手に取った。その私小説ふうなあとがきに、幼少期から自分に日本史の手ほどきをしてくれた懐かしい「叔父さん」の肖像が語られていて、最後にそれが歴史学者の網野善彦である、という種明かしがさらりと加えられていたと思う。私はこのとき初めて、分野も世代も異なる2人の学者の意外な結びつきを知った。ついでに言うと、中沢の父・厚が『つぶて』(法政大学出版局, 1981.12)という、「ものと人間の文化史」叢書の1冊の著者であることも、このとき知った。私は学生時代にこの叢書を愛読していたので、一層びっくりした。
あれから15年。網野史学はアカデミズムの世界では、なお異端視されているらしいが、多くの読者と共感者を獲得した。私もそのひとりである。一方で、昨今は、網野史学といえば「無縁」「アジール」「農業民/非農業民」「海の国」など、いくつかのキーワードで、誰でも簡単に要約できると思われているフシがある。
しかし、本書では、中沢新一という恰好の案内人を得て、実際の網野史学が、実に大きな「仕掛け」の上に構想されていたことが改めて示される。日本どころかアジア的生産様式を超えて原始社会にさかのぼり、一切の支配・権力から自由であろうとする、人間の根源的な欲望に根拠をおく壮大な思考の枠組みが明らかにされる。正直なところ、私はここまで深く網野さんの本を読み込んだことはなかった。耳慣れた網野史学を高笑いとともに吹き飛ばすような、爽快な再発見が本書にはある。
ところで、「天皇制との格闘」は網野史学の重要な主題のひとつであるが、著者の中沢新一は、興味深い体験を告白している。近所の葡萄酒工場にやってきた昭和天皇に遭遇したとき、連日、万歳の練習にうんざりしていたにもかかわらず、「なにかとてつもなく無垢なものが、自分の前を通り過ぎていったように感じ」不思議な感動に打たれたという。子供の無知を笑うのは易しい。でも、こういう感動が存在することを認めたところから、天皇制との根源的格闘が始まるのだ。
中沢家の自由で知的な雰囲気、とりわけ大好きな「叔父さん」をめぐる著者の回想は、生き生きと色彩豊かで、光り輝くような明るさに満ちている。だが、最終章だけは、号泣を誘われそうになった。魂が魂をよばうというのはこういうことか、と思った。
著者はこの文章の大半を山梨の実家で書き、「そっと襖を開けると、人のいないはずの座敷には煌々と白色電球が灯り、そこに父親や網野さんが座って私のほうを見上げているのが、見えてくるようだった」と言う。そして、亡くなった人々や忘れられた人々を呼び戻す「オルフェウスの技術」、実はそれこそが網野史学の根底にあるものではないか、と語るのである。