見もの・読みもの日記

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世界史の中の「靖国」/国家と犠牲(高橋哲哉)

2005-10-01 12:05:07 | 読んだもの(書籍)
○高橋哲哉『国家と犠牲』(NHK Books)日本放送出版協会 2005.8

 書店の新刊棚で本書を見つけたのは、まだ前著『靖国問題』の印象が醒めやらないうちだった。表紙を見ながら、あれ~高橋先生、大丈夫かしら、と思った。こんなふうに、同じテーマで続けざまに複数の本を出すなんて。出版社からのオファーに応じたとしても、だんだん、同じ主張だけを繰り返すだけの、どこかのデマゴーグみたいになってきたんじゃないかしら。

 しかし、心配は無用だった。もちろんテーマは重なるのだが、前著『靖国問題』が、日本精神史・政治史固有の問題、もしくは東アジア問題としての靖国に重点を置いているのに対し、本書は、そうした地域性への”こだわり”をいったん突き放し、古代ギリシアの都市国家から、中世キリスト教世界を経て、近代国民国家の成立に至る、ヨーロッパ社会との対比に基づき、世界史の中の「靖国」を考えなおそうという試みである。前著『靖国問題』と本書『国家と犠牲』のどちらかを読んで、おもしろかったけど、もう1冊はちょっと、と迷っている方がいたら、ぜひこの2冊は併せて読むことをお勧めしたい。

 本書は、成員に「犠牲」を強要する「国家(共同体)」というのが、いかに普遍的なものであるかを述べる。それは、ほとんど「国家」の本質と言っていいものである。

 さらに言えば、社会的な存在である人間は、「犠牲」の外部で生きることはできない。このことを、著者はデリダの論を参照しながら論ずる。「私は他の他者を、他の他者たちを犠牲にすることなしには、ある他者の呼びかけ、要求、責務、それどころか愛に対しても応えることはできない」と。

 本書の冒頭に紹介されている、旧約聖書の「我が子イサクを神に捧げるアブラハム」の物語は、ミッションスクールで育った私にはなじみ深いものだ。神の命令により、息子イサクを燔祭の献げものとすることを求められたアブラハムは、イサクを連れて山に登り、まさに息子を焼き殺そうとした瞬間、天から神の声が降ってくる。「その子に手を下してはならない。あなたが神を畏れる者であることが分かったから」と。そして、めでたく息子イサクは、無傷で父アブラハムのもとに「奪還」されるのである。

 ここまででも十分にさまざまな哲学的問題を含む物語に対して、著者は、私がかつて気にしたことのなかった一点を、さりげなく指摘している。このあと、アブラハムは、後ろの木の茂みに一匹の羊がいるのを見つけ、これを祭壇に供える。「結局、息子ではなく近くにいた雄羊が」「『犠牲』として捧げられたことになります」。このどきりとする指摘は、「犠牲」の問題を、より深く掘り下げていくための伏線となっている。

 私たちの生活は、国際政治の外交問題から日常的なレベルまで、多くの「アブラハムの物語」で満ちている。神、あるいはそれに代わる信仰のために、最愛の息子を「犠牲」に差し出すことを正当化する物語である。それは、もしかしたら運よく「神の声」が聞こえてきて、「私」は信仰もまっとうし、かつ犠牲も出さずに済むかもしれない。――しかし、「私」にとってのハッピーエンドの裏側では、必ず代わりの「誰か」が、無言の雄羊として犠牲に捧げられているのだ。これを著者は、デリダに倣って「絶対的犠牲の構造」と呼ぶ。

 では「絶対的犠牲」を回避した「国家(共同体)」は存在し得るのか。著者は、その不可能性を認めながら、穏やかな言葉に強い意思を托して「しかし、(私たちは)あらゆる犠牲の廃棄を欲望しつつ決定しなければならないのではないでしょうか」と結ぶ。巻末に引かれた魯迅の『狂人日記』の結末「人間を食べたことのない子どもがまだいるかもしれない。/子どもを救え!」の叫びが、原文にまさる圧倒的な重みをもって読者の胸に迫ってくる。

 「靖国」を手がかりに、「絶対的犠牲」という思弁的・哲学的領域に踏み込んでいく本書は、靖国問題を、近隣諸国との「折り合い」とか「取り引き」とか、現実的な政治課題として考えたい読者には、ちょっと不満(不愉快?)かも知れない。しかし、靖国問題には、現代日本の思想的課題という一面があることは確実である。そうした面を徹底的に追究した良書であると思う。
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