○薬師寺克行『外務省:外交力強化への道』(岩波新書)岩波書店 2003.8
本書の構想が立てられたのは2001年の夏、外務省の不祥事が真っ盛りのときだったという。その数年前、テリー伊藤の『お笑い外務省機密情報』(飛鳥新社 1997.10)が出た頃から、な~んだ、超エリート集団と言われている外務官僚って、実はぜんぜんダメじゃん、という感じ方は、うすうす、世間に流れていたと思う。それが、機密費スキャンダル、鈴木宗男問題で、一挙に表面化したのだ。
それでも、2002年9月、小泉首相が平壌を訪問し、日朝首脳会談を実現したことは「近年まれな外交」(本書の評価)だった。確かに、アメリカ追従か、国内の圧力団体の利益のための外交政策しか、日本政府に選択の余地はないものと刷り込まれてきた(ように思う)私にとって、この日朝首脳会談は、新鮮な衝撃だった。しかし、期待をもって見守った日朝交渉は頓挫し、2003年、イラク戦争支援をめぐって、対米追従路線が復活する。
本書は、日朝交渉、イラク戦争支持という具体的な事例において、なぜ、日本の独自外交が挫折し、ますます主体性を失いつつあるのかを検証する。ある部分は、実際にこれらの政策にかかわった外務官僚の思想・信条とパーソナリティによって説明される(役者揃いで、非常に面白い読みどころである)。また、ある部分は、専門言語の”スクール”を基本とする縦割り体質、過去の国会答弁を絶対視する”密教文化”など、組織の体質そのものに原因を探る。
縄張り意識と、過去の経緯の呪縛というのは、ある程度の規模と歴史を持つ集団には、必ず現れる組織疲弊である。また、個々の言語や地域に精通した専門家を必要としつつ、同時に大局的な判断のできる外交官を育成しようというのは、二律背反に挑戦するようなもので、もともと困難は大きい。今日、外務省だけでなく、さまざまな官公庁や企業が、同じ困難の克服を課題にしていると思う。
それにしても、これはちょっと、と思ったことを挙げておこう。1950~60年代、政府首脳の外遊は一大イベントだった。今とちがって通信手段も不安定だったから、緊急事態に備えて、閣僚や官僚が大挙して同行する大名行列スタイルが常だった。その煩雑な事務と莫大な予算を伴うロジ(兵站)業務が、外務省という組織を歪めることになる。
1957年版『外交青書』の別冊『岸総理の第一次東南アジア諸国訪問』『岸総理の米国訪問』は、首脳会談での相互礼賛、晩餐会の出席者の顔ぶれ、市民の歓迎ぶり(鳩や風船、日の丸の小旗)などを、事細かに伝えていて、今読むと実に噴飯物だ。しかし、問題は、各国が既にこうした前近代的な外交スタイルを捨て去っているにもかかわらず、日本の外務省が、それを克服できていないことにある(ついでにいうと、外務官僚の用意する応答要領にたよるばかりで、「自分の言葉で外交を語ることのできない」歴代首相の力量にも問題があった)。
もうひとつは世論の重要性である。日本の外務省は伝統的に世論を軽視し、国民に対する説明責任を果たしてこなかった。その結果、日朝交渉という独自路線に踏み出したとたん、憤激する世論に阻まれて、身動きが取れなくなってしまった。
しかし、世論はいつも正しい判断をするわけではない。歴史的に見れば、むしろ外交に関しては間違うことのほうが多い。最大の課題は、外交政策と世論との隙間をどう埋めていくかであり、著者は、パブリック・インテレクチュアルズの重要性を説く。著者は「有識者」という訳語をつけているけれど、これには、ちょっと違和感がある。なぜなら、これまで、有識者とよばれる人々は、無責任な(あるいな無力な)コメントを垂れ流す役割しか果たしてこなかったからだ。たぶん、これからの日本に必要な「パブリック・インテレクチュアルズ」というのは、もっと能動的な知識人でなければならないだろう。
本書の構想が立てられたのは2001年の夏、外務省の不祥事が真っ盛りのときだったという。その数年前、テリー伊藤の『お笑い外務省機密情報』(飛鳥新社 1997.10)が出た頃から、な~んだ、超エリート集団と言われている外務官僚って、実はぜんぜんダメじゃん、という感じ方は、うすうす、世間に流れていたと思う。それが、機密費スキャンダル、鈴木宗男問題で、一挙に表面化したのだ。
それでも、2002年9月、小泉首相が平壌を訪問し、日朝首脳会談を実現したことは「近年まれな外交」(本書の評価)だった。確かに、アメリカ追従か、国内の圧力団体の利益のための外交政策しか、日本政府に選択の余地はないものと刷り込まれてきた(ように思う)私にとって、この日朝首脳会談は、新鮮な衝撃だった。しかし、期待をもって見守った日朝交渉は頓挫し、2003年、イラク戦争支援をめぐって、対米追従路線が復活する。
本書は、日朝交渉、イラク戦争支持という具体的な事例において、なぜ、日本の独自外交が挫折し、ますます主体性を失いつつあるのかを検証する。ある部分は、実際にこれらの政策にかかわった外務官僚の思想・信条とパーソナリティによって説明される(役者揃いで、非常に面白い読みどころである)。また、ある部分は、専門言語の”スクール”を基本とする縦割り体質、過去の国会答弁を絶対視する”密教文化”など、組織の体質そのものに原因を探る。
縄張り意識と、過去の経緯の呪縛というのは、ある程度の規模と歴史を持つ集団には、必ず現れる組織疲弊である。また、個々の言語や地域に精通した専門家を必要としつつ、同時に大局的な判断のできる外交官を育成しようというのは、二律背反に挑戦するようなもので、もともと困難は大きい。今日、外務省だけでなく、さまざまな官公庁や企業が、同じ困難の克服を課題にしていると思う。
それにしても、これはちょっと、と思ったことを挙げておこう。1950~60年代、政府首脳の外遊は一大イベントだった。今とちがって通信手段も不安定だったから、緊急事態に備えて、閣僚や官僚が大挙して同行する大名行列スタイルが常だった。その煩雑な事務と莫大な予算を伴うロジ(兵站)業務が、外務省という組織を歪めることになる。
1957年版『外交青書』の別冊『岸総理の第一次東南アジア諸国訪問』『岸総理の米国訪問』は、首脳会談での相互礼賛、晩餐会の出席者の顔ぶれ、市民の歓迎ぶり(鳩や風船、日の丸の小旗)などを、事細かに伝えていて、今読むと実に噴飯物だ。しかし、問題は、各国が既にこうした前近代的な外交スタイルを捨て去っているにもかかわらず、日本の外務省が、それを克服できていないことにある(ついでにいうと、外務官僚の用意する応答要領にたよるばかりで、「自分の言葉で外交を語ることのできない」歴代首相の力量にも問題があった)。
もうひとつは世論の重要性である。日本の外務省は伝統的に世論を軽視し、国民に対する説明責任を果たしてこなかった。その結果、日朝交渉という独自路線に踏み出したとたん、憤激する世論に阻まれて、身動きが取れなくなってしまった。
しかし、世論はいつも正しい判断をするわけではない。歴史的に見れば、むしろ外交に関しては間違うことのほうが多い。最大の課題は、外交政策と世論との隙間をどう埋めていくかであり、著者は、パブリック・インテレクチュアルズの重要性を説く。著者は「有識者」という訳語をつけているけれど、これには、ちょっと違和感がある。なぜなら、これまで、有識者とよばれる人々は、無責任な(あるいな無力な)コメントを垂れ流す役割しか果たしてこなかったからだ。たぶん、これからの日本に必要な「パブリック・インテレクチュアルズ」というのは、もっと能動的な知識人でなければならないだろう。